第9話 心の天秤

 ユウキの心は穏やかさを取り戻しつつあった。しかし、ふとした瞬間に、都会での過去の記憶が彼を責め立てるように押し寄せてくる。仕事の失敗、他人からの評価、そして自分を追い詰めたあの日々。気づけば、その重さに再び心が沈んでしまうことがあった。


 「こんな静かな場所にいるのに、どうして過去のことばかり思い出すんだろう…。」


 川沿いの石に腰を下ろしながら、ユウキは独り言のように呟いた。その背中には、どこか疲れた影が漂っていた。




 そんな彼の様子を見たサキは、夕食のあとでユウキにこう語りかけた。


 「ユウキ、心はね、天秤みたいなものなんだよ。」


 「天秤?」


 「そうさ。過去の記憶や感情が片方に乗れば、もう片方が傾く。問題は、天秤をどこでバランスさせるかなんだ。」


 ユウキは首をかしげた。「でも、過去のことはもう消せないし、それが重くてどうしようもないんだ。」


 サキは優しく微笑みながら答えた。「確かに、過去は消せない。でも、その重さを感じること自体は悪いことじゃない。むしろ、その重さとどう付き合うかが大切なんだよ。」




 翌朝、サキはユウキを森の中の小さな広場に連れて行った。そこには、一本の古い木が立っており、その枝には揺れるブランコがぶら下がっていた。


 「このブランコに乗ってごらん。」


 ユウキは戸惑いながらも、ブランコに腰を下ろした。サキは軽く押して、ブランコを前後に揺らし始めた。


 「どうだい?揺れている間、どんな気持ちになる?」


 「ん…最初は少し不安だけど、慣れてくると気持ちいいかも。」


 サキは微笑みながら続けた。「そうだろう?揺れは怖くもあり、心地よくもある。その感覚は、感情にも似ているんだ。人の心も、揺れることで自然なバランスを見つけていくんだよ。」




 サキはユウキに「揺らしの技術」を教え始めた。まず、自分の中で重い感情を抱えているとき、それを否定せずに受け止めること。次に、その感情に「揺らぎ」を与えるために、小さな行動を起こすこと。たとえば、嫌な記憶を思い出したときに深呼吸をする、またはその記憶に対して別の見方をしてみる。


 「大事なのはね、ユウキ。感情をそのままにしておくんじゃなく、少しずつ動かしてあげることなんだ。揺れることで、やがて心は自分でバランスを取るようになる。」




 ユウキはサキのアドバイスを実践してみることにした。ある日、都会での失敗を思い出して胸が苦しくなったとき、彼は立ち止まり、深呼吸をしてみた。


 「失敗したのは確かだけど、あの経験がなければ、今ここにいることもなかった…。」


 最初はぎこちなかったが、少しずつ彼の心の中に「揺らぎ」が生まれていった。その揺らぎは、過去の記憶を違った角度から見つめ直すための余裕を与えてくれた。




 数日後、ユウキはサキに報告した。


 「少しずつだけど、過去のことを思い出しても、前ほど苦しくなくなったよ。」


 サキは満足そうに頷いた。「それは心が天秤のバランスを見つけ始めた証拠だよ。揺れることを怖がらずに、自分のペースで進んでいけばいい。」


 ユウキは小さな自信を取り戻しつつあった。過去の重みが完全に消えたわけではないが、それを抱えながらも前を向く力が少しずつ育っていくのを感じていた。




 その夜、満月の光に照らされる中、ユウキは静かに呟いた。


 「心が揺れるのは悪いことじゃないんだな…。揺れることで、自分を少しずつ軽くしていけるんだ。」


 彼の胸には、天秤のバランスが徐々に取れつつある感覚が芽生えていた。過去を否定するのではなく、それと共存することで未来を見つめる力が生まれる。サキの教えが、彼の心に確かな灯となってともり始めていた。

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