第十八話 『本気』

 廊下の奥から、ひとりの少女が静かに歩いてくる。

 窓から差し込む夕暮れの光が、彼女のシルエットをふんわりと霞ませる。

 輪郭がぼやけてもなお、その存在感は揺らがなかった。


 ――花ヶ崎星羅。


 彼女の歩みは淀みなく、まるでそこにいることが自然であるかのように優雅だった。

 光を受けた長い髪が微かに揺れ、紫がかった瞳が静かに西条を捉える。


 「あれ? 花ヶ崎さん? なんでここに?」


 西条は気づいた瞬間、胸の奥で燻る怒りや決意を押し込めた。

 さっきまでの感情をすべてなかったことにするように、軽い調子で問いかける。

 ――いつも通りの”自分”を演じるために。


 だが、星羅はすぐにそれを見抜いたかのように、わずかに表情を曇らせる。

 そして、小さく息を吐いた後、柔らかな声音で言った。


 「西条くんが戻ってくるのが少し遅かったので、探しに来ましたの」


 穏やかな言葉。

 けれども、その奥にはわずかに探るような響きが混じっていた。


 「あぁ、ちょっと校内を探索しててさ。悪い、戻ろうか」


 何事もなかったかのように肩をすくめ、何気なく返す西条。

 しかし、その言葉を聞いた星羅は、一瞬だけ視線を細めた。


 「……そういえば、先ほど、どなたかとお話していませんでしたか?」


 窓から差し込む橙色の光が、彼女の横顔に淡い影を落とす。

 星羅は決して詰問するような口調ではない。

 けれど、その静かな問いかけには、確かな意図が感じられた。


 西条は一瞬、考えるように視線を逸らす。

 だが、すぐに何でもないことのように笑い、肩を竦めた。


 「あぁ? ……いや、なんでもねぇよ。ただの道聞きだ」


 軽い調子で流す。

 だが、その返答の端々には、ほんの僅かな違和感が滲んでいた。


 星羅は西条の顔を見つめたまま、一拍の間を置く。

 まるで、その言葉の裏に何が隠されているのかを確かめるかのように。


 そして、そっと瞼を伏せると、何も言わずに微笑を浮かべた。


 「……わかりました。さて、戻りましょうか」


 彼女はそれ以上、問い詰めることはなかった。

 けれど、その静かな笑みの奥にある微かな違和感は、西条の胸に小さく残る。


 (あんな表情……ただ道を聞いただけでなるはずあらへんやろ。やっぱり彼は、なんでも隠しはるんやなぁ……)


 星羅は何気なく歩き出すが、心の中では確信めいた思いが広がっていく。

 西条零という男が、表向きどれだけ軽薄に振る舞おうとも

 

 ――その本心を簡単に見せることは決してない。

 


 (あんなに言ってくるやつ、久しぶりに見たな……それこそ、“アイツ”以来か)


 西条の脳裏に、不意に焼き付いていた記憶が蘇る。


 ――酷く、自分に敵意を向け、心の底から恨むような目。


 刺すような視線。

 吐き捨てるような言葉。

 ただの言い合いではない。

 まるで、存在そのものを否定するかのような、純粋な憎しみ。


 あの頃の、あの目と同じだった――


 不意に、耳元で声が響く。


 「おい、西条! 遅かったじゃねぇか! 早く帰ってこいって言ったろ?」


 意識が、現実へと引き戻される。


 気がつけば、廊下の向こうに仲間たちの姿があった。

 明るい声が飛び交い、いつものざわめきが戻ってくる。

 夕暮れの光が窓から差し込み、その輪郭をオレンジに縁取る。


 「まったく、早く帰ってこいって言ったろ?」


 「そーだよ、西条くん! 一人で楽しいことしてたの?」


 西条は肩をすくめ、苦笑混じりに応える。


 「いや、ちょっと迷子に……あぁ、いや。気になるとこがあってさ、ちょっと探索してたんだよ」


 冗談めかして言葉を返しながらも、心の奥底では、静かに決意を固める。

 先ほどまでの緊張が和らぎ、廊下には軽い笑い声が響いた。


 「まぁ、何もなかったなら良かったですわ。どこかで倒れているのかと……」


 「そんなわけねーだろ! まぁ、ありがとな。心配かけたわ」


 軽く拳をぶつけ合い、気楽なやり取りが交わされる。

 温かい空気が、じんわりと心に染みる。

 けれど、西条の胸の奥には、未だに消えない熱がくすぶっていた。


 (こんな気のいい奴らを貶せるような“朝比奈凛”には絶対負けてやらねぇ)


 夕日が廊下を赤く染める中、西条は静かに拳を握った。


  教室に戻った彼らは、西条の"サボり"を軽く弄りながらも、それぞれの机に向かい再び勉強に集中していた。

 シャープペンのカリカリとした音だけが響く静かな空間の中で、ふと、西条がぽつりと言った。


 「俺、今回のテスト……20位くらい目指すわ」


 その言葉に、周囲の空気が一瞬だけ止まる。

 普段なら、西条のこんな発言は冗談か気まぐれだと受け流されるはずだった。

 だが、今の彼の表情には、いつものおちゃらけた様子は微塵もなかった。


 ――本気だ。


 その静かな熱意が、言葉の端々から滲み出ていた。


 星羅はペンを止め、彼の横顔をじっと見つめる。

 藤井は思わずシャーペンを指で回しながら、西条を二度見した。

 市原に至っては、ノートの上でペンを持ったまま、完全に動きを止めていた。


 「……マジ?」


 最初に口を開いたのは藤井だった。

 信じられないというような顔で西条を見ながら、眉をひそめる。


 「西条、お前……さっきまで赤点回避できりゃいいっしょ』位の感じで言ってたじゃん、急にどうした?」


 「いや、まあ……ちょっとな」


 西条は適当に笑いながら、鉛筆をくるくると回した。

 本当の理由――朝比奈凛に負けたくないからなんて、口が裂けても言えない。

 だが、星羅の前で宣言したからには、後には引けなかった。

 だが、それは自分の気楽さに鞭を打つための宣言でもあった。

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