第十一話 深まる夕闇

  西条の”悪戯”を敏感に察知した藤井は、眉をひそめながら彼を必死に抑え込もうとした。


「お前、ほんとやめとけって……」


 その制止にも構わず、西条は肩をすくめ、いたずらっぽい笑みを浮かべたまま、小さく呟いた。


「さて、お嬢様は次にどんな顔を見せてくれるかな」


 その何気ない一言に、藤井は言い知れぬ不安を覚えた。だが、その不安を裏切るように、西条のニヤついた表情はすぐに消え去り、次第に真剣な面持ちへと変わっていく。その切り替えの速さに、藤井は僅かに驚きを隠せなかった。


 そもそも、この勉強会は西条が実力テストで結果を残すために設けられたものだ。ふざけたり余裕を見せている場合ではない。西条自身もそれを理解しているのだろう。からかいが終われば、一転して真面目に取り組むこの姿勢が、彼の本質であり、不思議な魅力でもあった。


 いつの間にか教室の窓から差し込んでいた夕陽は完全に消え、長く伸びていた影も静かに姿を消している。代わりに、頭上の白色灯だけが冷たい光を真上から落とし、教室全体を照らしていた。その光は、三人の姿をくっきりと浮かび上がらせる一方で、それぞれの影を机の下へ静かに沈めていた。


 少しの沈黙が教室に広がる中、時計の針が小さく刻む音が響く。西条のペンがノートを走る音が静寂を切り裂き、勉強会は再び静かに進み始めた。


 真剣な面持ちで参考書に向き合う西条からは、先ほどまでの軽口や無駄な言葉が完全に消え去っていた。教室には静寂が漂い、その中で星羅へ向けられるのは的確な疑問だけだった。


「ここの問題、式の立て方はこれで正しいのか?条件を見落としてる気がするんだが」


 短く鋭い質問。それは曖昧さを一切許さないもので、問題の本質を瞬時に見抜いていた。星羅はその言葉を受け取り、参考書を指差しながら落ち着いた声で解説を始める。


「ええ、式自体は正しいですわ。ただ、条件が二つありますので、それを組み合わせて最終的な答えに導く必要がありますの」


 西条は頷きながら解説を聞き、参考書に目を落とすとペンを走らせた。その動作には一切の迷いがなく、彼の知性と集中力が一体となり、見ている者にさえ緊張感を与えるほどだった。


 (ほんま、普段の雰囲気とはまるで別人やわ……)


 星羅はちらりと西条の横顔を見やる。そこには普段の飄々とした雰囲気はなく、鋭い眼差しで問題に向き合う姿があった。その集中力と的確な判断力は、花ヶ崎家の教育を受けてきた自分ですら、わずかに感心せざるを得ないものだった。


 (どうしてこんな人が、あんな軽率なお調子者として振る舞ってるんやろか……)


 星羅は自分の心にわずかな違和感を覚えながら、もう一度参考書へ目を戻す。


 西条のペンがノートを滑る音が静寂を切り裂く。彼は星羅が指摘した条件を確かめるように、簡潔に書き込みながら答えを導き出していく。その動きには一切の無駄がなく、まるで計算されたような正確さを感じさせた。


「次の問題、こっちは条件が多いな……解答の意図は、ここの仮定部分にあるんだろうか」


 西条の疑問はさらに具体性を増し、問題への理解を深める意志が明確に伝わってきた。星羅は瞬時に彼の指摘を理解し、静かに答える。


「ええ、まさにそこがポイントですわ。その仮定をどう扱うかで答えが大きく変わりますの」


 西条は星羅の言葉を聞き終えると、短く「助かる」とだけ言い、再び問題へと向き直った。教室には、参考書をめくる音、ペンが走る音、そして時折交わされる的確なやり取りだけが静かに響いていた。


 (こんな集中力を持ってる人やったんやな……これが、彼が白鳳に相応しい生徒として転入を許可された理由、っちゅうことなんやろな)


 星羅は心の中でそう呟くと、自分の筆記にも気持ちを集中させた。彼の存在が、自分の緊張感すら引き出していることに、どこか不思議な感覚を抱きながら――。


「できたぞ! これで合ってるか?」


そんな感傷もつかの間、彼は勢いよく顔を上げて星羅にプリントを差し出した。自信満々に採点を求める西条の表情は、普段と変わらず気楽なものだった。


星羅はそのプリントを受け取り、ペンを取り出して採点を始める。少しの沈黙の後、彼女は顔を上げて微笑んだ。


「素晴らしいですわ!全問正解です!」


その言葉を聞いた瞬間、西条は両手を上げてガッツポーズを取る。


「マジかよ! よっしゃ、俺にもやればできるってとこがあるだろ!」


彼の陽気な声に、星羅はくすりと笑いながら小さくため息をついた。


「……ですから、最初から素直にやっておけば良かったのですわ」


「いやいや、そもそも存在すら知らなかったんだって!」


痛い所を突かれたと言わんばかりの表情で笑う西条に、藤井が更に追い打ちをかける。

 

「ちゃーんと話を聞いて、春休みから進めておけば、もっと余裕を持って終わってたのにな!」


 そんな調子で彼らが集中を保ちながら勉強を進めていると、時計の針はいつの間にか19時を指そうとしていた。

 白鳳学園では、一部の部活動を除き、19時をもって全生徒が完全下校することが校則で定められている。

 彼らが黙々と勉強を続けている中、静寂を破るように教室の扉が開いた。

 顔を覗かせたのは、中川先生だ。手に鍵束を持ち、施錠をしに来た様子だった。


「お前たち、まだ残ってたのか」


 驚いたような表情で三人を見つめる中川先生の声に、西条たちは一斉に顔を上げた。西条が肩をすくめ、軽い口調で答える。


「ちょっと集中しすぎて、時間忘れちゃいました」


「転校してまだ二日目だろう?慣れない環境で無理しすぎるなよ。それに、ここ白鳳学園では19時完全下校が基本だ。そろそろ片付けを始めろ」


 中川先生の穏やかな声に、西条は小さく「了解です」と答えた。その姿に、中川先生はふっと息をつき、腕時計を確認しながら言葉を続ける。


「だがまあ、集中して取り組むのは悪いことじゃない。それができるのは、お前のいいところだ」


 先生が軽い笑みを浮かべると、藤井が西条をからかうように口を挟む。


「おい、西条。先生に褒められるとか、早速いいとこ見せてんじゃん」


「余計なこと言うなよ!」


 西条が軽く藤井を睨むと、教室には一瞬だけ笑いが広がった。だが、その空気を断ち切るように星羅が静かに口を開いた。


「先生がおっしゃる通り、時間を守るのも学びの一部ですわ。さっさと片付けて退室しましょう」


 星羅の冷静な指摘に、藤井が「はいはい」と言いながら慌てて荷物をまとめ始めた。それに続いて西条も参考書を閉じ、カバンにしまい込む。

 三人が荷物をまとめ終える頃、中川先生は教室の奥で施錠の準備を済ませ、教室の出口で待っていた。鍵束を手にしながら、軽く声をかける。


「それじゃあ、気をつけて帰れよ。特に西条、お前は道に迷わないようにな」


「大丈夫ですって、さすがにもう覚えましたから」


 西条が軽く返すと、中川先生は微笑みながら廊下の奥へと去っていった。その姿が見えなくなると同時に、藤井が腕時計をちらりと見て声を上げた。


「あっ、やべぇ!俺、この後コンビニ寄る予定だったんだ。悪いけど、俺ここで別れるわ」


「は?急にどうしたんだよ」


「だから急に思い出したんだって。んじゃ、また明日な!」


 藤井は慌てて言い残すと、校舎の別の出口へと走り去っていった。残された西条はその背中を呆然と見送りながら、軽く息をつく。


「なんだよ、アイツ」


 その一言に、星羅が静かに振り返り、冷ややかな声を落とす。


「帰るつもりがないなら、置いていきますわよ」


「いやいや、待ってくださいって。二日目で一人で歩くのはさすがに厳しいんで、お供させてください」


 西条は少し焦ったように言い訳をすると、星羅は一瞬だけ彼を見つめてから視線を前に戻し、先に歩き始めた。


「ついてくるなら、遅れないでくださいませ」


「了解っす、お嬢様」


 軽い調子でそう言いながら、西条は星羅の後を追った。廊下に響く二人の足音だけが、静まり返った夜の校舎に残っていた。

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