第30話


消灯時間が過ぎてからの病室は、静かで冷たい。窓の外には黒い闇が広がり、窓枠を縁取るように街灯のオレンジ色がかすかに揺れている。病室に漂う空気はどこか硬く、人工的な消毒の匂いがわずかに鼻をつく。それは不快というよりも、妙に現実を意識させるものだった。


彼女はベッドの中で身じろぎした。毛布の中にいるはずなのに、冷えた感覚が足元にしつこく張り付いている。目を閉じてみても、瞼の裏には黒い点と光の粒が散らばるばかりで、眠りに誘われる気配はない。


「眠れない……」


自分の声が思いのほか大きく響いた。耳を澄ませば、遠くの廊下で何かが微かに動く音がする。誰かがカートを押しているのだろうか。それとも、ただ空調の音が錯覚を引き起こしているのか。


彼女は入院時に渡された「入院生活のしおり」を思い出した。ナースステーションで睡眠導入剤を頼めると書いてあった。入院初日、看護師に渡されたときは、こんな冊子に目を通す必要があるのかと内心で馬鹿にした。だが今、その情報が妙に現実味を帯びて脳裏に浮かぶ。


「……行ってみるか。」


決断は唐突で、体はそれに追いつくようにゆっくりと動いた。毛布を押しのけ、スリッパを履く。足音をできるだけ立てないようにしながら病室の扉を開けると、廊下には冷たい蛍光灯の光が延々と続いていた。


ナースステーションは、廊下を右に曲がった先にあるはずだ。消灯後の病院は、どこか不気味な静けさに包まれている。昼間は賑やかだった場所も、今は人の気配が消え去り、ただ冷たい光だけが彼女の影を足元に落としていた。


歩くたびにスリッパの底が床を擦る音が響く。それは小さな音のはずなのに、彼女にはまるで何かを破壊しているような気がした。この静寂の中では、すべてが過剰に大きく感じられる。


やがて、ナースステーションの窓口が見えた。明かりはついているが、人の気配はない。彼女は少し躊躇した。窓口に備え付けられた小さなベルが目に入る。


「これを鳴らすのか……」


迷いながらも指を伸ばし、ベルを押す。軽い金属音が、病院の静けさを切り裂いたように響いた。


数秒後、奥から白衣を着たナースが現れた。彼女はやや眠たそうな顔をしていたが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべた。


「どうされましたか?」


「眠れなくて……、しおりに、薬をもらえるって書いてあったので……。」


彼女は少し緊張したように言葉を紡いだ。ナースは頷き、手際よく何かを記録し始めた。


「わかりました。少しお待ちくださいね。」


ナースが引っ込む間、彼女はカウンターの上に置かれた観葉植物をぼんやりと見つめた。プラスチックの鉢に植えられたそれは、どこか不自然な緑色をしていた。


数分後、ナースが小さなカップと水を持って戻ってきた。


「こちらが睡眠導入剤です。眠りやすくなると思いますが、何か不安なことがあれば教えてくださいね。」


「……ありがとうございます。」


彼女は薬を受け取り、指示された通りに飲み込んだ。水は冷たく、喉を通る感覚がやけに鮮明だった。


「おやすみなさい。」


ナースの声に軽く頷き、彼女は再び廊下を戻り始めた。


薬が効くまでの時間がどれくらいかはわからない。ただ、こうして誰かに頼ることができたという事実が、少しだけ心を軽くしたように思えた。


病室に戻ると、毛布にくるまりながら目を閉じた。今度こそ、眠れるかもしれない。遠くでまた、カートの音が聞こえたような気がした。音は次第に遠ざかり、彼女の意識も静かに薄れていった。

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