「You wanna be my friend?」

にのまえはじめ

第1話 はがねの錬金術師

「あ、小鳥が遊んでいない方の髙梨たかなし君。今日もこれから図書室?」

「今日は違うけど、なんだよ牛山うしやま。その呼び方。」

「実はね、小鳥が遊んでいる方の小鳥遊たかなし君が、2組にいるの。体格も髪型もほとんど同じでさ、紛らわしいんだよね。」

「そんなこと知るか。でもそれ本当か?ミステリなら3人くらい見たことはあるけど。実際にいるんだな、小鳥が遊んでいると書いて『たかなし』。」

「まあ、最近じゃ誰も『たかなし』って呼ばなくて、『こじま』って呼んでるけど。」

「何でだよ?」

「小鳥遊君、名前を「あゆむ」っていうんだけど、最初のホームルームの時、担任が『たかなし あゆむ』って読まずに、『こじま ゆうほ』って呼んだの。苗字と名前の切れ目を間違えた挙句に「小鳥」を「小島」に読み間違えて読んじゃってさ、クラス一同ぽかーんとなって、大うけ。それ以降あだ名が『こじま』で定着しちゃったの。最近じゃ、「大島」とか「中島」とかわざと読み違えて、「小島だよ!いや小島でもねえよ!」って返すのがお約束だね。」

「もはや小鳥遊の原型、留めてないじゃないか。」

「仕方ないよ、よりによって顔までアンジャッシュの児嶋に似てるんだからさ。」


 僕が牛山あおいとのくだらない会話を思い出したのは、今日読み始めたミステリに何度目かの「小鳥遊」という苗字の女子高生が登場したタイミングで、彼女の顔が本棚の向こうから顔を出したからだ。僕と目が合った直後に、何か企む表情でこちらに向かってくる。なんとなく嫌な予感がする。今、ちょうどいいところなんだけどな。

 ここは愛知県立刈宮高校4階にある図書室の一角だ。刈宮高校は県内でも有数の進学校として昔から知られているが、勉学の他に、部活動にも力を入れている。進学校にありがちな「文武両道」というやつだ。そのため在校生は何かしらの部活動、もしくは委員会活動に所属することが校則で義務付けられており、現時点では、どの生徒もどこかしらへの登録を済ませているところだ。

 ただ、どうしてもやりたいことがすぐに見つからない生徒も一定数いるのも事実で、そんな生徒たちのために暗黙の了解のように存在が容認されている部活動が「健康増進部」と「文学研究部」だ。この二つの部活には書類上の顧問はいるが、部活動としての活動方針などは皆無だ。一応「健康増進部」は毎週水曜日に高校の外周を散策し、運動部に所属していない進学校の生徒が陥りがちな運動不足を解消するという活動が任意で行われていると聞くが、僕はよく知らない。

 一方、僕が所属している「文学研究部」、通称「文研部」は年に数回、小冊子に何かしらの文筆作品を載せるという活動をしているものの、参加は強制ではない。僕も部員名簿に「高梨一生たかなしいっせい」と名前を書いたことで所属していることになっているが、何か書いて出せと言われたことは一度もないし、部員が何人いるかさえ知らない。そもそも僕は読む専門で、小学生の時の読書感想文以外に原稿用紙で文章を書いたことすらない。(中学時代は読書感想文の課題自体がなかった。)だからこうして授業が終わって他の生徒が部活動に励んでいる金曜日の放課後に、図書室で読書をしている。

 そのいわば部活動の最中に、牛山は声をかけてきたわけだ。


「一生君、今日も読書?」

「見たら分かるだろ。」

「昨日のとはまた違う本だね。もう読み終わったの?あの女子高生がデスゲームするってやつ。」

「ああ、昨日読み終わった。」

「一生君は電車通学だよね?本なら電車の中で読めるじゃん。早く帰ればいいのに。」

「帰りの電車の中は明日の予習とか、いろいろやることがあるだろう。」

「そう?」

 牛山は相変わらずのマイペースな口調で僕に話をしてくる。周りに誰もいないので別にいいのだが、私語はご法度だ。ほら司書教諭の先生が今こっちを見たぞ。

「で、今日は何の用だ?言っておくが、友達になってといういつもの誘いだったら断るぞ。」

「違いますー。今日は別に一生君に用事があるわけじゃないんですー。」

「は?じゃあ何なんだよ。」

「今日は、今、一生君が座っている、そこの向かいの席に用事があるのよ。」

 牛山は僕が座っているテーブルのちょうど真向かいの椅子を指さして、そこに腰をおろした。

 「どういうことだ?」

 「ここからだと、あの下の自販機がよく見えるでしょ?」

 そういって牛山は横の窓から階下を見下ろした。

 「自販機?」

 僕も彼女につられて下を見た。確かに、牛山の席からは階下の自販機がよく見えた。ここからだと後ろを振りむかないと見えないが、牛山の席なら少し首を傾ければ座ったままでも見える。その自販機は校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の傍に設置されており、どこかの部活がそこで飲み物を買っているところを前に見たことがあった。

「何でお前があの自販機をこんなところから見てなきゃいけないんだよ?」

「まあ、いうなれば『張り込み』かな。」

「張り込み?」

「そう、張り込み。ちょっと頼まれちゃって。」

「張り込みを?」

「そう。あの自販機にまつわるちょっとした怪事件についてね。」


 ここで牛山あおいについて紹介しておこうか。

 牛山あおい、僕と同じ1年5組、出席番号は1番だ。

 4月、入学式が終わり、新入生が初めて同じクラスになった40人と机を並べることになる最初のホームルーム、入学式後のお決まりの自己紹介が始まった時、彼女は開口一番、「今日入学した同級生360人全員と卒業までに友達になる。」と高らかに宣言した。まあ宇宙人や未来人や超能力者の存在に言及しなかっただけましというか、妙に俗っぽいやつなんだなと少し離れた席から僕はそんな彼女の話を聞いていた。

 つかみはOKというか、鮮烈な高校デビューを飾ったというべきか、入学式から数日で、彼女の胡乱な計画は順調に進行していったようだ。女子はともかく、男子まで彼女と「友達」になっていった様は奇妙に見えなくもなかったが、彼女の「友達になる」ことの定義が「お互いが友達だと思えば友達」らしく、さらに「一度友達になってしまえばずっと友達」というユルさが功を奏し、あっという間に同級生のほとんどが彼女と「友達」になっていった。

 

 僕と牛山が初めて面と向かって会話をしたのも、この図書室だった。

 入学式から2週間ほどたった金曜日の授業後、僕が図書室の国内作家の本が50音順に並べられている書架の前で、次に借りる本の品定めをしていると、髙梨君、と名前を呼ばれた。見ると身長160cmくらい、生徒指導の先生に目をつけられない程度の短さのスカート。そしてこれも校則に引っかからない程度の薄いピンク色のカーディガンという、入学式から変わらぬスタイルの牛山がニコニコしながら立っていた。

 僕が不思議そうな顔をしていると、会話が他の利用者に聞かれないくらいの距離まで近づいてきて牛山はこう尋ねた。


「ねえ、髙梨君ってさ。つぶあんとこしあん、どっちが好き?」

 

 つまんねーこと聞くなよ、と僕の額に書いてあったのだろう。渾身のギャグが滑ってちょっとだけ気まずいみたいな顔をして、牛山が笑った。

「やだなあ、そんなに警戒しないで。ねえ、当ててみようか。つぶあんでしょ。当たってる?」

「当たってるけど、だから何?」

「だからそんなに警戒しないでってば。コミュニケーションじゃない。コーヒーブレイク。」

「それを言うならアイスブレイクな。」

 図書室は飲食厳禁だ。

 その後も「何借りるの?」とか「こんなにたくさん本が置いてあるんだね。」とか当たり障りのない質問が牛山から飛んできた。僕は適当に相槌を打ち、最低限度の返答をしたあとで、改めて今日の要件を尋ねた。

 すると牛山は僕から一歩分距離をとると、おそらく他の同級生にしてきたのと同じように、最高の笑顔を作りながら、僕にこう尋ねた。

「髙梨君、私と友達になってくれる?」

 それを聞いて僕は伏し目がちにこう返答した。

「牛山さん、悪いけど、僕はもう、誰とも友達になるつもりはないんだ。」


 まさか断られるとは思っていなかったのだろう。いつもくるくる回る大きな目が一層大きくなるのがちょっとだけ可笑しかった。

「うへ?髙梨君、私のこと嫌い?」

「いや。別に嫌いじゃないし、むしろ好きなタイプの人間だと思ってる。牛山さんのことを悪くいう人はいないし、クラスの中でも牛山さんがいるといないとでは雰囲気が全然違う。同じクラスでよかったと思ってるくらいだよ。」

「やだ、もうめっちゃ褒めてくれるじゃん。髙梨君、私のこと好き?一目惚れしちゃった?」

 無言でいることで抗議の気持ちを示した。

「ゴメン、冗談冗談。」

「それはそれで少し傷つくけどな。」

 

 結局この日は僕から「友達になる」という言質を取らずに牛山は帰った。すぐに引き下がるのを訝しんでいると、これから他の友達と待ち合わせだそうだ。

「じゃあ髙梨君、また来週ね。その時までに友達の件、考えておいてね。」

 そういって彼女は図書室を出て行った。

 彼女の姿が見えなくなったあと、僕は天井を見上げ、彼女の後姿を思い浮かべながら考えた。

 牛山さん、申し訳ないけど、君の「同級生全員と友達になる」という目標は未達成のまま卒業の日を迎えることになると思う。

 だって僕はもう、この先誰とも「友達」にならないと決めてるんだからさ。

 

 初めて会話をしたのが金曜日だったので、土日が開けた月曜日も牛山は図書館に向かう僕の姿を階段の踊り場で見つけると声をかけてきた。「友達の件、考えておいてくれた?」と聞いてきたので昨日と同じ内容の返事をした。それからというもの、牛山は僕から「友達になる」ために、何かにつけて僕にあれこれと話しかけてくるようになったのである。


 そうして初めで出会って2か月が過ぎた。いまだに僕と牛山は友達になっていない。


「ねえ、何で『小鳥が遊んでいない方』の髙梨君は私と友達になってくれないのよ。私のどこが嫌いなの?」

 いつか掃除当番で箒をかけていた時に、牛山がこう聞いてきたことがあった。

「これは僕の生き方の問題で、別にお前が嫌いなわけじゃないから気にするなっていつも言ってるだろ?ほっといてくれよもう。」

 友達になるならないを毎日のように繰り返してきたので、この時点でだいぶ僕と牛山の関係は肩の力が抜けた感じになっていた。とうにアイスブレイクは終わり、すっかり氷は解けてしまっている。

「そりゃあ気にもなるわよ。同じクラスの子たちはだいたい友達になってくれたよ?私、何にも悪いことしてないのに。これだけ頼んでも友達になってくれないのって結構傷つくんだから。理由くらい教えてよ。」

「じゃあ、一つだけ教えてやる。名前だよ。」

「名前?」

 僕は箒をしまい、目の前の黒板に自分の名前を書いて見せた。

「高梨一生、こうやって「一」人で「生」きると書くだろ。両親がつけた大事な名前だ。僕はこの名前に誇りを持ってる。自分の名前に込められた親の思いは大切にしないとな。だから僕は一人で生きる。友達を作らないのはそういうことだよ。」

「何それ。ていうか『小鳥が遊んでいない方』の髙梨君のお父さんとお母さん、そんなつもりでその名前つけたんじゃないでしょ。」

「お前になんでそんなことがわかるんだよ。」

「だってそれは・・・。まあいいや。それに小学生の時に授業でやらなかった?自分の名前の由来を親に聞くみたいな授業。」

「あったかもしれんが忘れた。」

「そんなことある?絶対私としゃべるの面倒で適当に話してるでしょ。」

「そんなことないって。じゃあ牛山は自分の名前の由来は知ってるのか?」

「お父さんが宮崎あおいのファンなの。」

「単純だな。」

「単純っていうな。」

 その返しを聞いて僕はちょっとだけ笑ってから、黒板の自分の名前を消した。

「しかし『小鳥が遊んでいない方』の髙梨君は頑固だねえ。私、どう攻略したらいいかな。」

「なあ、その『小鳥が遊んでいない方』ってのいい加減やめないか?ぶっちゃけあんまりおもしろくないぞ。」

「『小鳥が遊んでいない方』の髙梨君が、私と友達になってくれるのなら、やめてもいいかな。」

「だから僕は誰とも友達にならないて何度も言ってるだろ?」

「そう、じゃあ、それまでは下の名前で呼ぶことにしようっと。ねえいいでしょ?『いっせい』君?」

「・・・。好きにしてくれ。」

「『たかなしいっせい』・・・。なんか高橋一生みたいね。」

「その話するの、お前で一万人目だからな。」

「嘘?いちいち数えてる?」

「そんなわけあるか。」

 

 話を戻そう。

「怪事件」とは穏やかじゃないなと思っていると、牛山のほうから詳細を話し始めたので僕は読書の手を休め、彼女の話を聞くことにした。まあいいか。ちょうど章代わりのタイミングだ。ここなら司書教諭の先生にも聞こえないだろう。

 それは先週、牛山が職員室に担任から頼まれた書類を持参したとき、英語の和泉いずみ先生からの頼まれ事がきっかけだった。

「牛山さん、ちょっといい?」

「何ですか?和泉先生。」

「牛山さん、顔広いじゃない?だから教えてほしいんだけど、生徒の中で、校内のごみ集めを積極的にしてくれている生徒に、何か心当たりがないかしら?」

「同級生全員と友達になる」などという大言壮語を掲げ、一定の成果をあげている牛山の存在はすでに有名人だ。当然ながら教師陣からも好印象を獲得しているらしく、その人脈というか顔の広さを買われて、こういった頼み事をされることが増えてきているらしい。

 和泉先生は大卒採用2年目の若手であり、僕らそう年齢も変わらないため、生徒からも慕われている。ただしまだ駆け出しなのは否めず、採用されて1年が過ぎ、ようやく高校教師としての自分のやり方を掴みかけてきたとはいえ、どうしても日々の業務が滞りがちになることがここ最近増えてきた。

「それに昨年度末にちょっとした不祥事があってね、ベテランの先生が懲戒処分を受けて今も停職中なの。休日に地域の防犯活動にも積極的に参加する、すごく真面目な先生だったんだけどね。それとここ最近の人員不足と年度末も重なってちょっと仕事が処理しきれない感じなのよね。」

 そのため和泉先生は、休日である土曜日に出勤して、平日に残った業務にとりかかることが最近増えてきていた。

 最初にそれ気が付いたのは、6月の終わりのことだったという。和泉先生が土曜に出勤した時、体育館と校舎をつなぐ自販機の周りに、ペットボトルや紙コップが散乱しているのを見つけたのだ。

 時間は午前11時前、土曜日の午前中に活動した運動部も、大方その活動を終えた時間だった。

 自販機はペットボトルや缶が出てくるタイプと、紙コップに飲み物が注がれるタイプの2種類が設置されている。よくショッピングモールのラウンジや自動車販売店にあるあれだ。なお自販機の傍には空き缶やペットボトルを捨てるごみ箱が、紙コップ式の自販機の横には飲み終わった紙コップを入れると10円が返却される紙コップ回収機も設置されている。

 そのゴミ箱の周りに大量のペットボトルや紙コップがあふれていた。

「金曜日の掃除当番の子たちが、サボったか忘れたかで、ごみ箱が満杯だったのね。だから部活の子たちが、ゴミ箱に捨てられずにそのまま置いていったんでしょう。」

 これではあまりに見栄えが悪いうえに、衛生上もよろしくない。今にも虫が湧いてきそうだ。和泉先生は今日の作業が終わったら散乱している分だけでも片づけて帰ろうと思ってその場を通り過ぎ、校舎に入った。

 その日は和泉先生以外に職員室で業務をしている教師はおらず、3時間ほど残業をし、午後二時過ぎにゴミ袋を持って再びあの自販機へ向かった。

 そこで和泉先生が見たのは、先ほどまでと違い、散乱したゴミがきれいに片づけられていた光景だった。

「校内の清掃をする用務員の人は土日はお休みだし、あの日は職員室にいたのは私だけだったから、教員の誰かが片付けたのじゃないと思うのよ。となると片付けてくれたのはあの日学校に来ていた生徒のうちの誰かかなって思ったわ。」

 その日は不思議に思いながらも、深く気にすることもなく和泉先生は帰宅した。

 開けて月曜日、和泉先生は自販機の掃除をする担当だった生徒を調べ、ごみ箱がいっぱいだった件について確認と指導を行った。予想した通り、掃除当番がゴミの片づけとゴミ袋の交換を怠っていたことが確認できた。

 そのついでに用務員さんや同僚たちにそれとなく確認してみたが、やはりあの日、散乱していたゴミを片づけたのは用務員さんや他の教師ではないことも分かった。こうなると部活動か何かで登校していた生徒が片づけた可能性が高い。

「その子にとっては大したことじゃなかったかもしれないけど、その奉仕の精神について、ちょっとしたお礼というか、感謝の気持ちを伝えたいと思ったの。」

 しかし、休日の刈宮高校への出入りは基本自由である。校舎内はともかく、校舎の外についてはセキュリティーがしっかりしているわけではない。どこの部活が何時まで活動していたかは把握できるが、どの生徒が登校し、いつ下校したかまでについては詳細な記録を残しているわけでもない。まあ部活の顧問か、参加していた生徒を特定し、その生徒に聞き込みでもすれば誰がその時校内にいたかについて少しずつ分かってくるかもしれないが、そこまでの労力をかける時間的余裕は正直なかった。

 そうしてまた次の週末、和泉先生が先週と同様に出勤したところ、また自販機の周辺が散らかった状態になっていたのである。


「2週続けてですか?」牛山は確認した。

「そう。そしてね、私が帰るときに確認したら嘘みたいにきれいになっていたのよ。先週と同じようにね。」

 それからというもの、和泉先生はあの自販機が目に入るときには、少し立ち止まり、ゴミが散乱していないか気にすると同時に、その周辺を清掃している生徒がいないかを確認するようになった。しかし、最近は仕事の内容も落ち着いてきたため、土曜日まで出勤することはなくなり、現在に至るまで、その生徒が誰なのか、特定できていないとのことだ。

 そこで顔の広い牛山に白羽の矢が立った。牛山にその生徒に心当たりがないかと尋ねたのである。

「要するに、私にそのゴミの片づけをした生徒を探してほしいってわけですか。」

「簡単に言うとそういうことね。まあ、1回目と2回目が同じ生徒が片付けたかどうかは分からないけど、少なくともあの日誰かがゴミ箱の周辺をきれいにしたことは間違いないから、牛山さんのわかる範囲で調べてほしいのよ。そして分かったら私に報告してほしい。別に慌てないし、仮に見つからなくてもそれならそれでいいから。」


「そういうわけでさ、時間があるときに私も気にかけているの、あの自販機。でさ、今日はこの後予定もないから、視点を変えてみようかなって思って。来てみたの。そうしたらちょうどいいところに一生君がいたってわけ。」

 牛山は時々階下を見下ろしながらそう答えた。

「また毒にも薬にもならないことを引き受けたもんだな。」

「まあ、佳世ちゃんの頼みとあらば、一肌脱がないわけにはいかないでしょ。」

 教師を下の名前で呼ぶな。ていうか和泉先生、佳世って名前なのか。初めて知った。

 「それにさ。一度やってみたかったのよ。張り込みって。わくわくしない?鬼平犯科帳みたいで。」

「どうやったら令和の女子高生の口から『鬼平犯科帳』なんて単語が出てくるんだよ。」

「小学生のころ、おじいちゃんと一緒によくテレビで見てた。原作は読んだことないけどね。誰だっけ書いたの。石原慎太郎?」

「池波正太郎な。」

 さすがに読書が趣味の僕も池波正太郎は手つかずだ。何度もドラマになるからには面白いんだろうけど。時代小説と少女漫画はどうしても後回しにしがちだ。

「私、江戸時代に生まれて見たかったんだよね。そうしたらめっちゃ楽しかったと思う。」

 牛山はそんなことをつぶやきながら階下の自販機を見下ろしていた。


「金曜日は掃除の時間があって、毎回あの自販機の周辺は掃除範囲になってる、ゴミ箱が一杯だったらゴミ箱の中の袋を取り出して交換するのも仕事のうち。もちろん割り当てられた生徒は周辺を掃除してから帰宅したり部活に行ったりする。ちゃんと完了の報告をしてからね。ちなみに、あの自販機を行った先に学校の西の門があって、そこから出入りする生徒や先生もいるけど、少なくとも私が調べた限り部活の後に自販機の周りが散らかっていることを見た人間は今までに確認できてない。」

 階下の自販機に目立った動きがないためか、牛山はまた話し始めた。

「つまり、あの自販機の周りが荒れたのは、金曜日の夕方、生徒や教師が学校を出てから、次の土曜日に和泉先生が出勤してきた午前11時の間のことか。原因は、土曜日に活動していた部活動の連中が、自販機で飲み物を買ったときに、ゴミ箱の中身がいっぱいで捨てられなかったと考えるのが自然だな。」

「そうだと思う。ちなみに和泉先生が自販機の周りが荒れているのを見たときに体育館で部活動をしていたのは1回目が男女のバトミントン部と男子バスケ部、2回目が女子のバスケ部と男子のバレーボール部、それと演劇部が2回とも。まあ、あの自販機は体育館の部活だけじゃなくて、運動場の部活も使うから、特定の部活動の生徒について考えるのはあまり意味ないかもしれないけど。」

 それはそうだろう。文研部の僕だって使うこともあるし、先生たちもそうだろう。極論を言えば、外部の人間が犬の散歩か何かのついでに使うことだってできる。

「まあ、土曜日に自販機の周りが散らかっていた原因は、金曜日にそこの掃除当番だったやつらが横着して帰ったってところだろう。調べるならそのあたりから調べてみてもいいんじゃないか。どうして金曜日にそいつらはゴミ箱の中身を空にせずに帰ったのか。そこに何か手掛かりがあるかもしれない。」

「ん?ああそっか。そういう意味か。なるほど、そっちの方向からも調べてみると何かわかるかもしれないね。やっぱ人に話を聞いてもらうのって大事ね。」

 そんな風に牛山と話をしている間に、部活動終了の時刻が近づいてきた。生徒に帰宅を促す校内放送が流れる。そろそろ僕の文研部としての活動時間も終わりだ。

「僕はもう帰るけど、牛山はどうするんだ?」

「もう少しいる。今日はここ、開館時間が延長されるんだよね?」

「ああ、今日は六時半までは開いてる。だけどあまりギリギリまで粘るなよ?勉強や読書をするだけなら構わないけど、基本的には定時制の生徒さんたちが資料の貸し借りのために使う時間なんだからな。」

「わかってるって。ここで座っておとなしくしてるよ。」

 刈宮高校は全日制の課程のほかに、定時制高校としての役割もある。授業日は僕たちと同じ月曜日から金曜日まで。全日制の生徒が下校するのと入れ替わる形で午後6時15分より授業が始まる。

「そうか、じゃあな。先生にはひと声かけておくから、牛山も帰るときには一言言ってから下校するようにしてくれ。気をつけて帰れよ」

 僕はそう言って図書室を後にした。


 図書館を後にした僕は、帰る前に例の牛山が今も見張っている自販機の様子を見ておこうと考えた。僕の利用する最寄り駅は東門から出た方が便利なのだけど、まあ話のついでだ。そこで缶コーヒーでも買って帰ろう。

 さっきまで図書室から見下ろしていたときと変わらず、問題の自販機は少し薄暗くなった体育館につながる通路にあった。掃除当番がきちんと掃除をしたためか、今日のところは特に荒れた様子もない。

 僕は缶コーヒーを自販機で買い、少し離れたところで飲み始めた。その間にも部活帰りの生徒が何人かが飲み物を買い、飲み終わった空き缶をゴミ箱に捨て、紙コップを回収機に入れて帰っていった。

 進学校で通っている刈宮高校に通う生徒だけあって、飲み終わりをゴミ箱にも入れずに捨てていくようなモラルの低い生徒はいなかった。さっき牛山に言った通り、ゴミ箱が荒れていたのはゴミ箱に捨てることができなかった生徒のうちの何人かが仕方なくその場に置いて行ったのが原因だろう。まあ、そうであっても捨てずに自宅なりに持ち帰るのがあるべき姿なのだろうけど。

 散らかったゴミを自主的に掃除していた徳のある生徒のことは、遅かれ早かれ和泉先生の知ることになるだろう。何せ調べるのはあの牛山だ。彼女の人脈とコミュニケーション能力を駆使すればそう時間もかかるまい。この自販機をよく使う生徒のうち、一人ぐらいは心当たりのある人間がいるだろうし。

 僕がそんなことを考えながら、飲み終わった缶をゴミ箱に捨てて、東門に向かおうとしたとき、ふと頭の中で一つの疑問がチリチリと音を立てたような気がした。

 何か引っかかっている。そんな気がした。

 その疑問が一つの形になったのは、自宅へ帰る電車に乗りこみ、車窓から夕暮れに沈もうとしている街並みを眺めていた時だ。


 


 月曜日の昼休みに、僕が自席で弁当を食べているときに、牛山が訪ねてきた。

「一生君にちょっと相談があるんだけど、今日は放課後に図書室にいる?」

「今日は部活動の日じゃないから図書室にはいかないけど、しかしなんでまたわざわざ僕に相談するんだよ。他の『友達』に聞いてもらえばいいじゃないか。」

「まあ、そう言わずに。そうだ、刈宮市駅前のスタバでどう?今日から出る期間限定品、気になってたんだ。一生君のもおごるからさ、ちょっとだけ付き合ってよ。」

 スタバの新作か。それを聞いて一つの名案が思いついた。

 「わかった。そこまでいうなら付き合ってやるよ。ただし、場所は僕の希望を聞いてもらっていいか?」

「ありがと。何、一生君、おしゃれな隠れ家的なカフェでも知ってるの?」

「そうじゃないけど。まあいいじゃないか。それにスタバの新作は別の女友達と行ったほうが楽しいだろう。それにこれから行く店のほうが間違いなく安い。値段が張るものをおごってもらうのも申し訳ないしな。友達でもないのに。」

「まーたそういうこと言う。まいっか。じゃ一生君にまかせる。授業後、下駄箱の前で集合で。」

 そういって牛山は教室を出て行った。


 放課後、僕たちは刈宮高校から徒歩10分ほどのスーパー向かった。不思議そうな顔をして、きょろきょろしながら僕の後ろをついてきた牛山を案内したのは、店の中にある小さなフードコートである。

「それにしても、なんでスガキヤ?」

「僕はここのクリームぜんざいが、世界一好きなスイーツだからさ。」

 牛山におごってもらったクリームぜんざいをトレイに載せて、空いているテーブルを探しながら僕は答えた。店は空いているので座席は選び放題だ。あまり周りに人がいない手ごろな場所を見つけて、僕たちは座った。

「スガキヤのことを『スイーツ』にカウントしている人初めて。私にとってスガキヤは普通にラーメン屋さんなんだけど。」

 ピンとこない人に軽く説明すると、スガキヤは名古屋発祥のラーメンチェーンで、東海地方を中心に展開している。よくショッピングモールのフードコートなどにテナントとして入店しており、ラーメンだけでなく、和風パフェやソフトクリームなどのデザートメニューも人気だ。その中の一つが、僕が愛してやまない「クリームぜんざい」だ。

 クリームぜんざいは冷たい小豆のぜんざいの上にソフトクリームがトッピングしてあり、値段は驚異の280円。コンビニスイーツより安い。スタバの新作の3分の1くらいだ。テストの後や身体に疲れが蓄積している時に、このソフトクリームと小豆の組み合わせが何とも言えない幸福感を僕に与えてくれる。

「一生君、つぶあん派だしね。」

「まあ、あんこはどっちでも好きだけどな。」

 僕はスプーンでソフトクリームとぜんざいを混ぜ合わせてから口に運んだ。いつ食べてもおいしい。幸せだ。

「なんか見てたら私もそれ、食べたくなってきちゃった。注文してきていい?」

 そういって牛山は自分の分を注文しに行った。


「でも一生君、なんでわざわざここに来たわけ?帰る方角とは反対方向じゃん?」

 戻ってきた牛山が席に着くなりそう聞いた。

「駅から反対方向だからだよ。駅前のスタバやミスドは刈宮の生徒ばかりで混んでるし、クラスの誰かと顔を合わせるのも億劫だしな。その点ここでクリームぜんざいを食べてる奴なんざ僕くらいだ。ここなら落ち着いて時間が過ごせる。」

 ソフトクリームと小豆を口に運びながら僕はそう答えた。今日も店内にいるのは買い物帰りのお年寄りの団体と子連れママくらいだ。刈宮の制服は一人もいない。

「それに僕は、一度別れた相手と、数分後に偶然別の場所で出くわしてなんとなくお互いが気まずい雰囲気になるあの時間が、世界で一番嫌いなんだ。」

「気持ちはわかるけど、そこまで言う?」


「んで、なんだよ。相談したいことってさ。」

 目の前のクリームぜんざいがなくなりかけたタイミングで僕は尋ねた。

「うん、佳世ちゃんから頼まれてた自販機の件、今日まで私が調べてわかったことの報告と、それについて一生君の意見が聞きたくてさ。」

「別に僕に報告する必要なんてないけどな。友達でもないのに。」

「まあ、そう言わずに。私あんまり頭よくないから、少し難しいこと考えると頭がこんがらがっちゃうの。だから私よりもスペックがよさそうな誰かに聞いてもらってほしいの。一生君頭よさそうだし。」

 刈宮に進学している以上、牛山だって平均以上は勉強ができていないとおかしいのだけど、まあ人間向き不向きもあるだろうから、ここはクリームぜんざいに免じてつきあってもいい気がしていた。

「わかった。ちょうどクリームぜんざいで脳内に糖分がいきわたってきたところだ。何か解決につながることが見つかるかもしれない。」

 僕は袋からおしぼりを出し、口の周りを拭きながらそう答えた。

「そうこなくっちゃ。うんうん、じゃあ始めるね。一つ目は土曜日に部活で体育館を使う、部活動のメンバーの数人から話を聞いてみたのよ。自販機の周りが荒れていたことについてね。」

 牛山によると、土曜日に体育館を使っていた生徒の複数が、ここ何回か自販機の周りが散らかっていることが多くなってきていると証言したというのだ。

「バレー部の山口先輩もバド部の井上先輩も言ってた。あとサッカー部の内場うちば君も観たことあるって言ってたかな。」

 内場は僕のクラスの内場だと思うが、バレー部とバドミントン部の先輩方には心当たりがなかった。しかし牛山、同学年ならいざ知らず、さっきから聞くに先輩達にまで顔が利くようになっているのか。フットワークが軽快すぎる。

「サッカー部もそうなら、外で活動する部活動の生徒からも認識されている程度には、あそこの自販機の周りは頻繁に荒れているってことか。」

「ええ、みんなの話を聞く限りでは多分佳世ちゃんが気づく前からなんじゃないかと思う。でも何カ月も前ってわけじゃない。」

 ちなみに、他の場所に置かれている自販機の周りも同じようになっていないのかについてはこれといった情報がないのだという。

「サッカー部の別の友達が言うにはね、部室のあるグラウンド側の自販機はそれこそめっちゃ使う人がいるんだけど、そんなペットボトルや缶が散らかってたことは無いって言ってた。ほら、サッカー部って昼休みの前半30分、グラウンドで自主トレしているじゃん?だからよく自販機使うんだって。」

 刈宮高校はサッカー部の強豪校として知られている。全国大会にも何度か出場しているため、進学校にしては珍しく、サッカー部目当てで入学してくる生徒が毎年何人もいる。それだけ部活内での競争も激しいのか、昼食を食べる前に自主的に活動している部員いるのは知っていた。

「それと掃除については誰がどこを担当するのかは毎週変わるから、特定の生徒が同じ掃除区域を長期間担当することはないはず。あの自販機の周りの掃除当番も変わっているから、掃除の手を抜く生徒がいつも割り当てられることはないのに、あそこだけ散らかってるっていうのも不思議だよね。」

 「念のために確認しておくけど、今、問題の自販機の周りを担当しているのは何年何組なんだ?」

 「それは調べてある。1年3組よ。ちなみに3組の友達でその自販機の掃除したことがある友達に確認したけど、特に掃除範囲が広いわけでもないし、よほどのことがない限りゴミ袋をいつも回収しないなんてことは考えられないって。」

 なお例の和泉先生が気が付いたきっかけとなった日の前日に当番だった生徒らにも牛山は話を聞いた。なんでも掃除をする班の一人が校則違反の件で授業後に職員室に呼び出されて掃除の時間に来なかったそうで、他の生徒は最後のゴミ袋の交換だけ残して帰宅、呼び出されて掃除に遅れた一人は指導という名の小言を言われてむしゃくしゃしておりその日は何もせず帰宅したとのことだった。


「二つめは志田しだ先生に聞いてみたの。」

「あの1年2組の担任の古文の先生か。背の高い?」

「そう。志田先生は、今刈宮で一番在籍年数が長い大ベテランで、教え方も授業中の雑談も面白くて人気がある。なのにちょっと天然なところもあってそこがまたいいんだよね。お父さんを通り越して、おじいちゃんみたいでかわいい。志田先生を好きにならない女子高生はいないわ。ほらこないだ話した、例の小鳥遊君の名前を読み間違えたのも志田先生なんだよ。」

「古文の先生でも読み間違えるんだな。あの苗字。」

「ね?面白いでしょ。それでさ、こういう時はやっぱり年長者に話を聞くのが一番かなって思って。長く刈宮で教えている志田先生なら、過去に同じような事件があったとか、いろいろ見聞きして詳しく知ってそうだし。」

「で、何か知ってたのか?」

「『わしは自販機で飲み物を買わないからなんも分からん』だってさ。」

「ダメじゃないか。」

「『わしは急須で淹れた熱いお茶が一番』だってさ。」

「おじいちゃんかよ。」

「まあ実際おじいちゃんだし。」

 それもそうか。

「ま、こういうのはいろんな人から意見を聞くのが解決の近道じゃない?そんなに簡単に真相にはたどり着けないわよ。」

 確かにそうかもしれないが、大した情報が得られなかったならその話、わざわざ僕に話さなくてもいいだろうに。期待して損したじゃないか。


「三つ目は、片桐さんに話を聞いてきたこと。」

「ちょっと待て。片桐さんって誰だ?」

「用務員のおじさんよ。あの眼鏡でもじゃもじゃ頭のおじさん。知らない?たまに正門の木の剪定とかしてる。」

「ああ、あの人、片桐って名前なのか。気にしたこともなかった。」

 その片桐さんによると、生徒が回収したゴミ袋は、所定の場所に留め置かれ、定期的に回収しに来る業者へゴミの種類別に引き渡しているらしい。

「空き缶やペットボトルのゴミ袋はそうだけど、あの自販機の隣にある紙コップ回収機については自販機の業者に直接任せてるんだって。紙コップ回収機自体が自販機会社のもので、片桐さんによれば、月曜日と金曜日のお昼過ぎに定期的に商品を補充するときに、業者が機械の中の紙コップの回収と返金用の10円玉の補充をしていくことになってる。」

 片桐氏によれば、さすが刈宮に通う生徒はモラルがしっかりしている人間が多く、ゴミ出しや分別のルールを守るのが当たり前であり、自販機や回収機が頻繁に故障して、業者に修理を依頼しなければいけないようなことにここ十数年お目にかかったことがないとのことである。ゴミ箱の周辺が荒れていたことについても、多少はそういうこともあるかもしれないが、印象に残るほどのことはないそうだ。

「それじゃあ、荒れていた自販機の周りを何者かが清掃していたのもさりげなく行われていたんだな。いつ頃からかわからない程度には。」

「うん。気が付かないうちに自販機の周りが荒れ始めて、気が付かないように誰かがそれを片づけていたみたい。」

 牛山は溶けて液体になったソフトクリームをぜんざいと混ぜながらそう答えた。

「一応聞くけど、片桐さんが知ってるってことはないのか?その掃除をしていた生徒について。」僕は確認した。

「心当たりはないって。まあ刈宮の生徒なら誰から言われるまでもなくそういったことをするのができて当然だって言ってた。」

 ずいぶん刈宮の生徒を買ってくれているものである。


 「最後の四つ目はね、その掃除をしていた人のことなんだけどね。実はもう分かっちゃったんだよね。」

 え?何だって?

「何だよ、もう誰がやってたのかわかってたのかよ。そういうことは先に言えよ。」

 それどころかその生徒の名前を和泉先生に報告して終わりじゃないか。そのうえ僕に何の相談をする必要があるんだ?

 僕の顔にそう書いてあったのを読み取ったかのように牛山は口を開いた。

「そう言いたい気持ちはよーくわかるんだけどね、ここからが私が今日一番相談したいことでもあるわけだからさ、最後まで話を聞いて。」

 そして牛山は「甘い口の中をさっぱりさせたいから飲み物買ってくるよ。一生君は缶コーヒーでいい?」といって自販機のほうへ走っていった。

 ここからが一番相談したいとは、いったいどういうことだろう。僕は牛山の話の要点をつかみかねながら、牛山が戻ってくるのを待つことにした。

 戻ってきた牛山から缶コーヒーを僕は受け取った。

「いくらだ?」

「いいよ、缶コーヒーくらい。追加でおごってあげる。ブラックと砂糖入りがあったけどそれでよかったよね?」

「ああ、これでいいよ。ありがとう。」

 そもそも人におごってもらったものにケチをつけるような人間じゃないからな、と心の中で思いながら、僕はブラックコーヒーのタブを開けた。牛山は普通のコカ・コーラを飲んでいる。それで口の中がさっぱりするのだろうか。

 「さっきから話している通り、土曜日に体育館を使っている部活動の友達とから話を聞いているうちにね、演劇部2年の佐知先輩が教えてくれたの。多分それ、自分のクラスの江戸川えどがわ君だって。」

 初めて聞く名前だった。まあ、友達がいない僕に上級生の知り合いなど一人もいない。

「ていうか江戸川先輩、一生君と同じ文研部なんだけど、話とかしたことないの?」

「文研部の他のメンバーなんて同級生含めて一人も知らないな。部活登録の時に以来、部室にも行っていない。ご存じの通り、文研部は真面目に活動している人間とそうじゃない人間の温度差がピンキリだからな。」

「江戸川先輩の場合は、真面目に活動している方の部員ね。一生君と違って。」

 その佐知先輩によれば、平日、演劇部で体育館を使うときに例の自販機を使うことがあるのだが、その時江戸川先輩が一人で自販機の周りのペットボトルや紙コップを集め、少し離れた場所にある蛇口でそれらを洗っているところを何度か見たことがあるというのだ。佐知先輩によれば自分のクラスはその自販機の周りの掃除当番ではないため、どうして江戸川が掃除をしているのか不思議に思ったため印象に残っていたという。 

 その話を聞いた牛山は早速江戸川先輩に会いに行き、話を聞いてみた。そして江戸川先輩は認めた。あの日も含め、自分が自販機の周りを片づけていたということを。

「前から気にはしてたみたい。あの自販機の周りが散らかっていること。あの日はたまたま江戸川先輩も忘れ物して登校していたんだって。そうしたらあの自販機の周りが荒れていたのを見つけて、その日は近くの掃除道具入れのゴミ袋に全部詰めて、ゴミ捨て場においておいたそうよ。」

 つまり江戸川先輩は和泉先生が休日出勤した後に忘れ物を回収するために登校し、たまたま自販機の周りが荒れているのを見かねて、ゴミを片づけて、和泉先生が帰る前に帰宅したというのが事の真相らしい。

「掃除してたことすごいですね、って言ったらね、江戸川先輩、『自分は潔癖症よりのきれい好き』って言ってた。他人が触ったものが触れないとか、しょっちゅう手を洗わないと落ち着かないみたいなことはないけど、汚れている状態が汚れたままで存在しているのが嫌なんだって。」

 まあ、なんとなく気持ちはわかる。和泉先生も掃除をしなければいけないと思ったほどの惨状だったらしいからな。

「あとね、こうも言ってた。『混沌としている状態に秩序を与えることに少しの興奮を覚える癖がある』んだってさ。」

 これも言いたいことはわかる。多分江戸川先輩の財布の中には、お札がきちんと同じ向きで並んでいるんだろう。小銭を少なくするために細かく計算した上でお金を払うタイプだ。

「で?掃除をした人間がわかったんなら、それを和泉先生に報告して終わりだろ?どこに僕に相談しなければいけないところがあるんだ?」

「それがね、江戸川先輩、『僕が掃除をしたことは和泉先生には報告しないでくれ』っていうのよ。理由を聞いたら『別に誰かに褒められるためにやったことじゃない』からって。結構頑なに拒否られたんだよね。そこまで拒否らなくてもいいじゃんって思うんだけど。文研部って変わった人が多いの?それとも一生君みたいに恥ずかしがり屋さんが多いのかしら?」

 誰が恥ずかしがり屋だ。あと僕を変人扱いするな。

「まあ、佳世ちゃんは誰かわからなくてもいいって言ってたから、『誰が掃除をしたかは突き止めたけど、本人の希望で個人名を出すのは控えます。』って報告をしようと思うんだけど、それでいいかなって思って。」

 コーラの残りを飲みながら牛山はそういった。

「それで全く問題ないと思うけどな。先輩が話を大きくしてほしくない気持ちも理解できるし。」

「まあ、そうだよね。佳世ちゃんにはそう報告しておこっと。」

 牛山はそういって先に立ち上がり、空き缶とトレイを二人分、返却口に返しにいった。こういうところに抜かりない気配りを感じる。

 そうして戻ってきた牛山が僕の向かいに座ってこういった。

「んでさ、これは佳世ちゃんのお願いの本筋とはちょっとだけずれる話なんだけどさ、一生君。


 スーパーを出て、僕と牛山は刈宮市駅に向かった。途中校舎の外周をランニングしている女子バスケットボール部の一団とすれ違い、その何人かに牛山が挨拶をするのを横目に僕は牛山の「どうして紙コップが散らかっていたんだと思う?」という質問について考えていた。

 まさか牛山も僕と同じことに疑問を感じていたとは。ちゃらんぽらんなところばかり目についていたが、意外とそういうところは鋭いのかもしれない。

 後ろから牛山が僕に追いついてきた。ここから刈宮市駅までは歩いて五分程度である。途中、これから定時制に通うために駅から歩いてきた集団とすれ違った。僕らと同年代の生徒もいれば、見た目が明らかに高校生ではない人もいる。牛山はその数名にもきちんと挨拶をしてすれ違っていた。

 「正直さ、私たちが気づいちゃったことってさ、それを明らかにしたところで誰も幸せにならないじゃない?どうしよっか。このまま放置しておけばいいかな?一生君はどう思う?」

「正直、僕もどうすべきかはすぐに判断がつかない。でもまあ悩むのもバカバカしい話だから、今晩考えてみるのはどうだ?時間をおいて考えてみて、よさそうな方を選択すればいいと思うけど。」

「そうだね。じゃあ明日の授業後、図書室でお互いの答えを持ち寄る形でいい?」

「ああ、そうだな。そうしよう。」

 そうやって話がまとまったときにはすでに刈宮市駅の改札の前まで来ていた。僕は財布とは別にキーチェーンで鞄に括り付けてある定期入れを改札に通した。牛山もそれに続く。プラットホームに続く階段を僕らは昇る。牛山と僕の乗る電車は方向が反対だ。しばらくすると僕の乗る電車が先にホームに到着した。4両編成の後方の車両に乗り込み、対面シートに座った僕に牛山が手を振っていた。僕は軽く手を挙げて答えた。電車が動き出し、駅から電車が遠ざかっていく。そのタイミングで僕は単語帳をめくる。いったんゴミ箱の一件はおいておくことにした。まあ、どうするかは僕の中で方向性はついているのだけど、寝る前にもう一度確認するだけでいいだろう。牛山がどんな風に答えを出すか、明日になればわかることだから。


 そして翌日。僕なりの答えを用意したうえで僕は牛山と顔を合わせた。いつもの図書室だ。

 「私は、私たちが気づいたことをちゃんと伝えたほうがいいと思う。」

 牛山は開口一番そういった。

 「一応理由を聞いておこうか。」

 「まあ、佳世ちゃんには黙っておいてもいいと思うけど、何か厄介なことに巻きこまれているのなら、そっちの方でも力になってあげたほうがいい気がするから。」

「そうだな。僕も牛山の意見に賛成だ。僕らにとってはくだらないことでも、何か複雑な事情があるのかもしれないしな。」

 「で、これからどうしよっか?」

「そうだな、直接会って話をするのが一番だけど、早いとこすっきりさせるには例の現場を押さえるのが一番じゃないか。」

「そうだよね。すると一番確実なのは・・・。今週の金曜日かな?」

「そうだな、今週の金曜日だな。」


 そうして迎えた金曜日の授業後、僕は図書室から自販機を見下ろしていた。

 すでに通常の部活動の時間は終了し、多くの生徒は下校している時間帯だ。ただし今日も定時制に通う生徒たちの利用のため、図書室は午後6時半まで開いている。本来ならば普通科の生徒の利用は認められていないのだが、牛山が司書教諭の先生にお願いして、特別に使わせてもらうことになった。相変わらず容量のいいやつである。今日は利用者は誰もいなかった。受付で先生と、その手伝いをする図書委員の生徒が返却された資料の処理や雑務をしている。

 僕は夕闇に包まれようとしている自販機を時々見下ろしながら、文庫本のコーナーから池波正太郎の『鬼平犯科帳』を持ってきて読んでいた。その前に読んでいたミステリはここで待機しているうちに読み終わってしまっていた。牛山が先日の張り込みの時に話していたので、一度読んでみようと思ったのだ。主な登場人物のプロフィールさえ把握してしまえば事件そのものは短めなので暇つぶしにちょうどいい。

 『鬼平犯科帳』には長谷川平蔵の同心たちが、見張りに適した商家の空き部屋を借りて何日もそこで生活する場面がよく出てくる。実際に江戸時代の治安維持部隊が同じようにしていたのかは定かではないが、この令和の世界のどこかでも、刑事や探偵が今の僕と同じようにどこかで誰かを見張っているかと思うと、小説の世界に紛れ込んだような気分になってちょっとだけ楽しかった。

 ニュースで「闇バイト」という言葉を聞くことが多くなった。最初は東京や大阪のような大都会だけの話かと思っていたのだけど、最近は名古屋の大学生が特殊詐欺に関わって捕まったなんて話も聞く。人が密かに徒党を組み、人家に押し入り、時には人を傷つけて金品を奪う。どこかの記事で読んだ記憶があるが、彼らには犯罪に不慣れな故に漫然と人を傷つけ、命ぜられるがままに命まで奪ってしまうのだという。池波正太郎も自分がこの世を去って30年も経ってから「盗みの三ヶ条」について社会が再び意識するような事態になることなど想像もしていなかったに違いない。こうして僕がよくわからないことをしているうちにも、この街で密かに悪事が行われているのだろう。何百年経っても人間なんてそう簡単に変わらないのかもしれない。人類が日々進歩していると思っているのは現代人の思い上がりだ。

 ちなみに牛山はどうしているのかというと、校舎の外で僕からの連絡を待っている。目的の人物が現れたら僕が牛山のスマホに通知を出す手はずになっている。

 余談だが、この連絡手段をどうするかでひと悶着あった。牛山が「LINEを交換しよう」と提案してきたのだ。

「一つ確認するが、牛山の基準では『LINEを交換すること』イコール『友達になる』ことになるのか?」

「今それ聞く?」

「ああ、大事なことだからな。」

「別にどっちでもいいよ。友達じゃない人でもLINEは交換するだろうし、LINE交換したからってイコール友達ってわけでもないんじゃないかな。」

 それを確認した上で僕らはLINEを交換した。

 「言っておくが『友達登録』はしないからな。しなくても連絡は取り合えるし通話もできる。何も問題なし。」

 「今それ言う?」

 牛山は目の前の蚊柱を払いのけるような目で僕をみた。

 「てか一生君、誰ともLINEで友達登録してないの?」

 「してないけど、それが何か問題でも?」

 「別に好きにすればいいけどさ、何よそのこだわり?友達に裏切られて生まれ故郷の村でも焼かれた?どうしても友達登録しなきゃいけない状況になったらどうするつもりなのよ。」

 「『LINEが壊れている』で押し切る。」

 「それ女子が深く関わりたくない男の先輩とかからの友達申請をやんわり断るときのやつじゃん。お父さんが職場の若い女の子達に同じ事言われてたから、そういうことだって教えてあげたよ。お父さんそれウザがられてるから気をつけなって。」

 ともかく、牛山に連絡がつく状態で僕は動きがあるのを待っていた。図書館で電話をかけるわけにもいかないので、LINEのスタンプを送ることにしてある。

 動きがあったのは午後6時10分ごろだった。リュックを背負った人影が例の自販機に近づくのが見えた。帽子を被っているのでここからでは男女の区別はつかない。僕はカーテンの隙間を狭くし、注意深く階下を見下ろした。

 その人影は周囲を見渡して、人がいないのを確認している素振りを見せたあと、自販機の前でリュックを下ろした。そしてその人影は上を見上げた。

 帽子で隠れていたその人物の顔が見えた。その顔は、僕と牛山が思い描いていた顔に間違いなかった。 

 その人影はすぐに下を向いた。こちらの存在に気づいた様子はなかった。

 自分の想定していた通りになったことについて少し高揚した気分になったのと同時に、心のどこかでその想定が外れていればよかったような気分にもなった。

 このタイミングで僕はスマホの画面をタップして牛山に連絡を入れた。そして受付の先生に一言声をかけてから図書室を出て、1階へ向かった。

 

 いつものように、正門から校内に足を踏み入れる。帽子を少し深めにかぶり直した。今は定時制の授業の始まる時間の5分前だから、校舎の外に人はいない。もしすれ違ったとしてもこれから定時制の授業に出るような顔をしていれば、よほどのことがない限り、声をかけられることもないだろう。今までもずっとそうだった。肝心なのは堂々としていることだ。堂々としていれば、僕のことを、誰も気に留めない。

 今日も運よく誰にも会うことなく自販機までたどり着いた。定時制の授業はすでに始まっている時間だが、授業が行われている教室は体育館からは離れている棟の校舎だし、通学している人間が体育館を使うようなこともない。僕は念のため周囲を見渡して、誰もいないことを確認してから、中身を取り出すためにリュックを下した。今日も早いところ終わらせてしまおう。

 その時、ほんの気まぐれで僕は上を見上げた。一番近い校舎の最上階に薄く明かりがついているのが見えた。上空を飛行機が赤と緑の光を点滅させながら飛んでいた。

 あそこは図書室か。こんな時間にどうして図書室の明かりがついているのかと不思議に思ったが、前に定時制の生徒のために月に何日かは図書室の利用時間が延長されているという話を耳にしたことを思い出した。今日がその日なのだろう。

 僕は上から目を離し、少し考え事をした。

 今日だけだろうか。図書室に明かりがついていたのは。前回も前々回も図書室に明かりはついていただろうか。そして明かりがついていたのならば、そこに誰かがいたのではないか。そして僕のことを見ていたのではないだろうか。そして今も。

 思い出そうとしたけれど思い出せなかった。今まで周囲の様子を気にかけたことはあったが、自分の頭の上のことにまでは注意が回らなかった。3次元的な思考が抜け落ちていた。迂闊だった。数学のテストを解いている時に、何か大きな勘違いをしているまま、解答欄に数式を書き連ねているような気分に僕は襲われていた。

 そんな時に、ふいに自分の名前を呼ばれたものだから、文字通り心臓が止まるかと思った。いや確実に2秒は僕の心臓は鼓動を止めていただろう。僕は声が聞こえてきた方を振り返った。

 小柄な女の子が体育館からこちらに歩いてくるのが見えた。服装と上履きからしておそらく1年生だ。体育館は夕闇から暗闇に色を変えようとしている。その薄暗がりの中でも、明るい笑顔はこちらからよく見えた。

 何で1年生が?とっくに普通科の生徒の下校時間は過ぎているはずなのに?

 そんな疑問が浮かんだが、すぐに思考を切り替えた。どこまで見られた?リュックの中身は出す前だったはずだが?どうすればいい?どうすればこの状況を打開できる?様々な思考が僕の頭の中を駆け巡った。


「どうしたんですか?こんな時間に?」

「わ、忘れ物をして、取りに戻ってきたんだ。月曜日に提出期限の課題に使う参考書。定時制の授業があるから、まだ教室に入れるんじゃないかと思って。」

「でも、教室の入り口は向こうですよ?それに下校時間後に校内に入るならまず職員室の先生に声をかけなきゃいけないはずですから、正門からそのまま職員室に行くのが自然じゃないですか?」

「い、急いで駅から戻ってきたから、喉が渇いてさ、飲み物を買おうと思ったんだ。」

「自動販売機なら正門の近くにもありますよ?」

「僕の好きな飲み物は、ここの自販機でしか売ってないんだ。だからここまで買いに来たんだ。別におかしくないだろう?」

「ふーん、まあそういうこともあるかもしれませんね。じゃあ最後に質問です。


 江戸川は悟った。ああ、気づかれていると。

 よく見ると目の前の1年生の顔には見覚えがあった。名前は牛山といったか。この間、自分に自販機が荒らされていた件で、片づけていたのは先輩ですかと聞きに来ていた。

 何だか急に肩の力が抜けたような気がした。堂々としていれば大丈夫だと自分に言い聞かせていたから、気づかないうちに肩に力が入っていたみたいだ。

 江戸川はひとつため息をついてから、目の前の後輩に悪態をつく。


「君のような勘のいい女の子は嫌いだよ。」


 僕が一階に降りてみると、自販機の前で牛山が江戸川先輩と何か話しているところだった。ただお互い話は済んだようで、江戸川先輩は傍に置いてあったリュックを背負って帰ろうとしているところだった。

 牛山は刈宮市指定のゴミ袋を持っていた。その中にはが大量に入っている。おそらく江戸川先輩のリュックの中に入っていたものだろう。

 江戸川先輩僕の姿を見て、また少しだけ不思議そうな顔をして去っていった。なんとなく足取りが軽そうに見えた。


 その後、刈宮市駅前のスターバックスに僕と牛山はいた。牛山が「ちょっとだけ打ち上げしていく?」と言ってきたからだ。打ち上げって。

 正直さっさと帰りたかったのだが、「土日を挟んだら熱が冷めてもうこの話題で盛り上がれなっちゃうじゃない。」というよく分からない理由で押し切られた。牛山曰く、「映画を見ることより、その映画を見た後、どこが面白かったか一緒に見に行った相手とあーだこーだ話すときのほうが本番」なんだそうだ。そう言えば最近映画館で映画見なくなったな。

 夕食前なので僕はアイスコーヒーのショートサイズを注文してカウンター席で待っていたのだが、牛山は店の前の黒板にスタッフ直筆の気合の入ったメッセージが書き込まれていた、早口言葉みたいな名前であまり食欲をそそられない2色ソースがかけられた(どんな味がするんだ?)期間限定品をニコニコしながら赤いランプの下から持ってきて僕の隣に座った。むしろこの期間限定品が目当てだったんだろう。

「それ、夕食前に食べて大丈夫なのか?カロリー換算したら確実にカップヌードルを超えてるだろ。」

「大丈夫。食前だろうが食後だろうが、いつの時代の女子高生にとっても甘いものは別腹なのよ。」

 牛山はそう答えながら紙ストローをクリームの上から勢いよく突き刺した。


「とりあえずお疲れ。ありがとう。こんな時間まで付き合ってくれて。」

「そう遅い時間でもないからいいさ。それに結末が気になっていたミステリが待っている間に読み切れてちょうどよかった。で、江戸川先輩は何か言ってたか?」

「何かお金のトラブルに巻き込まれていないかどうか聞いたけど、別に家庭が困窮しているわけでも、誰かに金銭を要求されているわけでもないって。何度も念を押したけどそれだけは信じてくれっていうからまあそうなんだろうなって感じ。何かあったら相談に乗ってくださいって言ったらありがとうってお礼言って帰っていったよ。」

「ならよかった。」

「まあ、犯罪がらみの大事になってるとは思わなかったけどね。得られる金額が金額だし。」

「念には念をってことだったしな。それに金額はともかく、ことは犯罪じゃないが、気づいて放置しておくのもなんとなく気分が悪いしな。」


 あまり遅くなってもいろいろと面倒なので、お互いの飲み物がなくなったタイミングで僕らはすぐに別れた。改札を抜けて、駅のホームから牛山とは反対方向の電車に乗り込む。いつもより遅めの電車に乗ったため、車内は混雑していた。僕は乗車口の横のスペースに持たれかけながら車窓から外を眺めた。


 江戸川先輩が自販機の前で何をしようとしていたのかについては僕と牛山が疑問に思った「どうして紙コップが散らかっていたか?」についてその理由を推察すればよかった。

「『どうして自販機の周りが散らかっていたのか?』じゃなくて、『どうして紙コップが散らかっていたか?』なのがポイントね。」

「ああそうだ。同じ意味に見えるようで実は全然意味が違う。」

 「なぜ紙コップが散らかっていたか?」この謎の答えは「使」からである。体育館の近くにある自販機は二種類。ペットボトルや缶が出てくるタイプと、紙コップに入れられた飲み物が出てくるタイプだ。飲み終わった缶やペットボトルはリサイクルボックスに捨てればよいが、紙コップは捨てるのではない、隣に備え付けてある紙コップ回収機に入れる。なぜならそうすれば10円が返金されるからだ。

 牛山が志田先生に確認したところ、紙コップ式の自販機は何年も前から設置されているが、飲み終わった紙コップを教室に持ち込んで飲む生徒や、飲み残しをトイレや手洗い場に捨てた後で放置する生徒が後を絶たず、蟻などが発生して問題になっため、飲み物の値段を全て10円上げ、代わりに紙コップ回収機に投函すればその10円が戻ってくる仕組みを導入したところ、問題が解決したという。

 「つまり、どの生徒も紙コップ回収機を使うのが当然なわけ。10円が返ってくるんだからね。だから紙コップが散らかっていた原因として考えられるのは『何らかの理由で紙コップ回収機が使えなくなっていた』ってこと。」

 では紙コップ回収機が使えなくなるのはどういったことが考えられるか。

「答えは単純。1010

「一応外部からダメージを与えて故障させられていた場合も考えられるけどな。でもこの可能性は低い。念のため警報装置もついているし、自販機や回収機が故障して業者を呼んで修理をしなければいけないようなことにここ十数年お目にかかったことがないって用務員の片桐さんが言っていたから。もちろん停電か何かで回収機が動かなかったこともない。そもそも電源が喪失していたら、自販機自体が動かない。」

 そして、この紙コップ回収不能の状態は、業者が自販機に商品を補充しにやってきて、機械内の紙コップが取り除かれ、10円玉が補充されることで解消される。江戸川先輩はこの仕組みを悪用することを考えた。つまり、10のだ。

 では、紙コップ回収機が機能不全に陥った時、何が起きるか。

 そう、紙コップを10円に換金できなくなり、その場に紙コップを残していく人間が一定数生まれることになる。これも江戸川先輩の狙いだった。

 「江戸川先輩は大量の紙コップをまとめて投函して回収機を機能不全にし、他の利用者が紙コップ残していく状況を作り出す。そしてそれを自ら回収することで、再び大量の紙コップを手に入れる。これを繰り返すことでちょっとしたお小遣い稼ぎをしていたのよ。」

 普段生徒が部活動をしている時間帯にそんなことをしていたら目に付く。しかし普通科の生徒が下校し、定時制の生徒の授業が始まる午後6時過ぎなら人目に付く可能性は低い。定時制の生徒は体育館を使わず、たとえ残業している教師がいたとしても、職員室は正門の近くにあるためこちらには来ない。万が一誰かに見つかったとしても、さっきのように「忘れ物を取りに戻ったついでに飲み物を買っていた」ことにしたり、「自販機の周りが荒れていたので片付けていた」ことにしてしまえばごまかしきれる。

 なお紙コップ回収機の業者は月曜日と金曜日の昼過ぎに商品の補充と紙コップを回収しにくることになっている。つまり金曜日の夕方から土曜日の午前中がもっとも紙コップ回収機の中に10円玉が残されている状態になっていることになる。効率よく紙コップを換金するためには、金曜日の夕方、翌土曜日の午前中の部活動が始まり、他の生徒が自販機を使い始める前に回収機を機能不全にしておくのが一番だったのだ。江戸川先輩が動くなら金曜日の時間帯ということも見越したうえで僕たちは待機していた。

 「江戸川先輩、最初は単純に缶やペットボトルを片づけていただけなんだって。『自分は潔癖症よりのきれい好き』『混沌としている状態に秩序を与えることに少しの興奮を覚える癖がある』のは嘘じゃないみたい。だけど、ある時紙コップが3つ、回収されずに残っていたことがあった。それでその3つを回収機に入れたとき、2つまでは換金できたけど、3つ目が換金できなかった。その時に思いついちゃったの。あの『紙コップ錬金術』をね。」


 週が明けて月曜日。いつものように図書室で読書をしているところにまた牛山がやってきた。

「どうしたんだ?もう自販機の件は解決したから僕にも図書室にも用はないんじゃないのか?」

 僕は少しすねたようなことを聞いた。

「なんか久しぶりに図書館に長いこといたからかな、私もまた読書でもしてみようかなって思ってさ。一生君、今何読んでるの?てか何その本、表紙の女の人の目、怖っ。面白いのそれ?」

「これか?最近流行ってる『特殊設定ミステリ』ってやつだな。密室とタイムリープが絡み合ってて面白いぞ。」

「うへぇ、何それ。毎日勉強で頭いっぱい使ってるのに、よくまた頭使うような本読む気になるね。」

「牛山はミステリは読まないのか?」

「小学生のころはホームズとか読んでたけど、最近はアニメと漫画ばっかだなー。名探偵コナンもコミックス買って読んでたけど、長すぎて買うのもやめちゃった。映画観にいくくらい?」

 定番のミステリのタイトルを何冊か聞いてみたが、どれも読んだことがないらしい。もったいない。これも何かの縁だ。読みやすいのをあとで何冊か教えてやろう。

「あ、そうそう、さっき自販機の件、佳世ちゃんに報告しといた。江戸川先輩の名前は伏せてね。江戸川先輩にも会ったよ、文研部の部室の前で。ちょっとイジったら、もう二度と『錬金術』は使わないって約束してくれた。今までは誰にも気づかれていないと思っていたから続けてたけど、私たちに気づかれていると知った以上、わざわざそんなダサいことやらないって。」

「他人に見つからないようにちょっとした悪事を働く」スリルっていうのは不思議な魔力を持っている。あの日、自販機の前で牛山に声をかけられたときに、江戸川先輩にかけられた魔法が解けたんだろう。古風な言い方をすれば「憑き物が落ちた」といった方がいいかもしれない。江戸川先輩がきれい好きなのは本当らしいから、いつか和泉先生が江戸川先輩がさりげなくやってきたことに気づく日がくるかもしれない。

「先週話するの忘れてたけど、一生君はどこで気づいた?江戸川先輩の『紙コップ錬金術』のこと。」

「何部の先輩だったか忘れたけど、江戸川先輩がゴミを片づけているのを見た先輩がこう言ってただろ?江戸川先輩がペットボトルや紙コップをって。よく考えたらペットボトルはともかく、そのまま回収される紙コップを洗うのはおかしい。それでピンときた。江戸川先輩がわざわざ紙コップを洗っていたのは、捨てると見せかけて、なんじゃないかって。」

「あはは。そうだよね。私もそこで変だと思った。捨てるだけの紙コップわざわざ水で洗う?って。ちなみに、江戸川先輩、自宅の物置に回収した紙コップをストックしていたらしいけど、あのあと帰って数えたら200個くらい残ってたらしくて、自分のやってきたことに若干引いたって。物置の中の大量の紙コップ、めっちゃ笑える。」

 思っていた以上に可笑しなことになっていたらしい。ここまで来ると若干の狂気を感じる。他人というのは本当に何を考えているのか分からないものだ。

「それにしても江戸川先輩、紙コップ錬金術でどれくらい儲かったのかな?」

「さあね。紙コップ1つで10円だし、どんだけ多く見積もっても1万もいってないんじゃないか?」

「効率悪っ。そんな端金はしたがねを錬成するためにあんな錬金術みたいなことしてたのか江戸川先輩。めっちゃ笑える。」

 牛山はお腹を抱えてクツクツ笑い始めた。言っとくけどここ図書室だからな?あんまり騒ぐとつまみ出されるぞ。

「江戸川言葉、人呼んで端金はしたがねの錬金術師。略して『はがねの錬金術師』。」 

 牛山がドヤ顔でこちらを見ている。

 僕は聞こえなかったことにした。

「あ!名前もエドと江戸川でシンクロしてるのマジですごくない!ねえ一生君聞いてる?」

 聞こえないふりをしているやさしさに気づいてほしいものである。

端金はがねの錬金術師  SMALL MONEY ALCHEMIST」

 やたらと発音がいいのと若干韻を踏んでるが地味にムカつくな。

「面白いこと言ってるつもりかもしれないけど、滑ってるからなそれ。」

 絶対に江戸川先輩の前でいうんじゃないぞ。


「そーいえば一生君、私と友達になってくれる話ってどうなった?」

「今このタイミングでそれ聞くか?」

「うん。で、どう?友達になってくれる?同じクラスで友達になってないの、もう一生君だけだよ?」

「お前みたいに脳内で思いついたギャグがダイレクトで口から漏れてくるようなやつとは友達になりたくないね。」

「え~。そんなこと言わないでよ、一生君。一緒にスガキヤでクリームぜんざいを食べた仲じゃない。」

 そんな話をしているときに牛山のスマホが振動し、「いけない約束忘れてた。」とつぶやいて牛山は席を立った。

 校内では電源を切っておけよ。見つかったら没収かつ反省文だぞ。

 「じゃあ今日のところも見逃してあげる。また何か相談してほしいことができたら連絡するから友達の件、考えておいてね。私、一生君が友達になってくれるまで諦めないから!」

 そういって牛山は図書室から駆け出して行った。他の生徒たちがびっくりしたように僕と牛山を見ていた。

 図書室で大きな声を出すなって。あとそんなに慌てて転ぶなよ。


 僕は読書に戻った。

 その時、ふいに、二度と友達は作らないと誓った出来事のことを思い出し、僕はいったん読書から意識を離した。

 彼が今の僕のことを見たらどんな顔をするだろうか。

 今回の自販機をめぐる謎を考えているとき、楽しくなかったといえば噓になる。牛山のことも嫌いにはなれない。

 あの日の誓いを覆すに足りる何かを、牛山は持っているのだろうか。彼女が僕にそれを突きつけたとき、それを受け取る資格が僕にはあるのか。

 僕は息を一つ吐いて再び本を開いた。答えを出すためのまだまだ時間はある。図書室が閉まるのにも、刈宮高校での日々も。

 今のこの物語を、もう少しだけ読み進めてから、家に帰ろう。


 LINEが来ていた。

 牛山「ちなみに一生君、実際『ハガレン』はどこまで履修済み?」

 高梨「アニメは見た。」

 牛山「FULLMETAL ALCHEMISTの方?」

 高梨「令和の高校生がわざわざ無印の方見るかよ。」

 

 






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