今日、外食にしない?

いっぱんねこめいと

第1話

「サンフランシスコに、四年だそうだ」

 困ったように顔をくしゃっと丸めて、お父さんはそう言った。自分で言った冗談の出来の悪さに思わず苦笑いをしてしまう、そんな声音で。だから私の口に入れたハンバーグの味が、一気に遠のいていく。

 玉ねぎを細かく刻んで、食感を出したくてわざと荒い切り方のも混ぜて、どうせろくにお野菜も食べてないだろうからこっそり人参も入れて、普段は使わないナツメグとクミンでちゃんと下味を整えて、焼く前に冷蔵庫でしっかり一時間寝かせて、余ったお野菜で特製のトマトソースまで作って――いつも深夜帰りのお父さんが珍しく早く帰るって言うから、妹とふたり、部活をサボってまで気合を入れた、高校生の背伸びと頑張りの結晶。でもそんなもの、地名と期間を伝えるたった一言の前では、あまりにも無力だった。

 お父さんの転勤の話は、ずっと前からあった。でも多分国内のどこかになるだろうし、長くてもせいぜい一ヶ月くらい、そもそも流れる可能性だって全然ある。そう言っていたはずが、蓋を開けてみればサンフランシスコに四年。なんだそれ。会社っていうヤツは、そんなに適当な場所なんだろうか。

「ごめんな」

 お父さんの小刻みに震える青い唇が、その一言を吐き出すためにこじ開けられる。それに続けて、ハンバーグの欠片を掴んだお箸を空中に留めたまま、何回か唇を開閉させていた。「紗華(さやか)も来年は大学受験だからなぁ」「いくらなんでも四年はな」「日葵(ひまり)もやっと高校に慣れて来たのに」ぽつりぽつりと言葉を溢しながら、お父さんは摘まんだハンバーグをお皿に落としたのをきっかけに、そっと箸を置く。

「さすがに、紗華と日葵だけを、置いてはな――」

 言いかけて、口を噤む。でもその続きが私には――いやきっと、隣で半泣きになっている妹にだって分かっただろう。

「だから、父さんな。もう……今の、仕事は」

「行っておいでよ」

 お父さんが、落としていた視線を上げた。私もおんなじことをした。

「もう、我慢しなくていいんだよ」

 私の右隣に座った高校一年生は、机上に添えた小さな手をきゅっと握り締めながら、潤んだ瞳でそれでも真っ直ぐ前を向いていた。

「私たち、二人だけだって、全然大丈夫だから!」

 日葵は気丈に頬を上げて、右手で大きくVの字を作る。

「お父さんさ、今まで私たちのために、たくさん頑張ってくれたでしょ。色んなこと、我慢してくれたでしょ。だからたまには、私たちが我慢する番だよ」

「日葵……だが……」

「もうっ! 私たちもう、高校生なんですけど。いつまでも子供扱いしないでよね!」

 お姉ちゃんなんてもう、来年は成人だよ。立派な大人なんだから! そう付け加えて、日葵が私の方を見る。

 どこまでも真っ直ぐな瞳だった。たくさんの苦労も悲しみもその奥に秘めたはずなのに、溢れそうなくらいに溜まった滴が薄茶に色付いた虹彩を揺らすのに。それをちっとも感じさせないくらいに混じりっけがなくて、力強い瞳だった。

 十五歳が、こんなに美しい目をするんだ。こんなに儚くて、近づいたら壊れてしまいそうで、でも絶対に折れないっていう決意を湛えた目を。

 だったら。

「日葵の、言うとおりだよ」

 それより二つも上の私は、もっと強くなくちゃいけない。

 ただ一度だけ瞳を擦って、しょぼしょぼに萎んだお父さんの目を見つめ返す。

「来年には、私受験生だよ。大学に行ったら一人暮らしなんて普通でしょ。だからきっと、今はその練習なんだ」

 それはもう、自分に言い聞かせているみたいだった。

「今だって、家事はほとんど私たちでやってるじゃない。ご飯も掃除も洗濯も。だから、なんてことないよ」

「そうそう! 私はむしろ、お父さんの方が心配だよ! 私たちもいないのに、アメリカなんかで一人暮らし、ちゃんと出来るの?」

 日葵が冗談っぽくそう言ったら、お父さんが笑った。力ない笑みは微笑みに変わって、それからすぐに口を開いて大きく笑う。あははと声をあげながら、細く窄めた瞳がさざ波立つ。すぐにそれは大波になって、溢れた水飛沫が頬から顎へ、我先にと走り出す。

「だから、行ってらっしゃい。私たちのことは、気にしないで」

「たまには帰ってきてよ! お土産、うんと買ってこないと許さないから!」

 その日。私は十七歳になって初めて、お父さんの涙を見た。

 家族で映画を見た時だって、出張で一週間ぶりに会った時だって、お母さんのお葬式でだって、私たちの前では絶対に泣かなかったお父さん。そんなお父さんが声を上げてわんわんと泣くから、私と日葵ももう、我慢なんて出来なくて。

「行ってらっしゃい」

「行ってらっしゃい」

 多分もう、ほとんど言葉にはなっていなかったけれど。それでも二人揃って、そう言えた。


 ***


 お父さんをアメリカに送り出した後、椿木(つばき)家は前よりも明るくなった。リビングの照明を変えたからかもしれないけれど、多分違う。きっと私も日葵も、その寂しさを吹き飛ばすように少しだけ無理をしているからだ。

 ここに住んでいた時だって、お父さんの帰りはいつも遅かった。寝る頃にやっと玄関が開く音が聞こえるか、それが聞こえない日だって多かった。夜ご飯の当番は姉妹二人で交代制にして、洗い物は自分の分を自分で。洗濯機は後からお風呂に入った方が回して、干すのはご飯当番じゃない方が。掃除は二人で手分けして、週末にまとめて一気にする。お父さんの役割なんてお風呂掃除くらいだったから、私たちの生活に変化なんてほとんどない。変わったことと言えば、毎朝私たちよりも遅く出発するお父さんに向けて、行ってきますって言うことがなくなったくらい。

 たったそれだけの変化なのに、それでも私たちの心の中には、確実にぽっかりとした穴が広がっていた。

 私たちにとっては、お父さんはお母さんでもある。だからなんだか、両親を一気に失ってしまった気さえして、どうしても心細く思うこともあった。多分、妹も同じ気持ちだったと思う。

 でも私たちはお互いに、そんな態度を見せなかった。いつも明るく振る舞って、声のボリュームを少し上げて、意識的に二人で過ごす時間を多くした。日葵と二人だけの生活は、なんだか特別な時間を過ごしているみたいでちょっぴり楽しかった。

 そうして一ヶ月が経ち、お父さんが初めて帰省した日。

 時差ぼけで怠そうなお父さんを気遣って、初日はゆっくりと過ごした。家でご飯を食べたり、テレビを見たり、少し近所へ散歩に出たり、そんななんでもない一日。

 夜ご飯は私たち二人で仕込んでおいたカレー。こんな特別な日にカレーなんて、そう思ったけれど、お父さんがどうしても食べたかったらしい。なんだか、家に帰ってきたって感じがして安心するんだって。

 次の日は朝から、市立美術館に行った。ちょうどギャラリーで高校生の作品展示をやっていて、その中に私の水彩画が展示してあるのを、お父さんが見たいって……写真で見せてあげたけど、現物が見たいんだって子供みたいに駄々を捏ねてたから、しょうがなく。

 美術館に入ったお父さんは、他の展示なんて目もくれずにずんずんと進んでいって、出口前にぽつんと佇むギャラリー、そこに飾られた一枚の絵の前でずっと立ち尽くしていた。

「本当に、いい絵だ」

 美術のことなんて何にも分かんないくせに、でもそう呟いたお父さんの言葉からは、ただ純粋な感情しか受け取れなかった。

 それが終わったら近くのレストランで昼食をとって、そうしたらもう、さよならの時間。送らなくていいって言うお父さんを無視して二人で空港まで着いて行って、ロビーで簡単に言葉を交わしたら、キラキラとうるさく光るガラスの前でその飛行機が飛び立つのをじっと眺めていた。

 帰りのバスの中、日葵はずっと俯いていた。本を読むでもなく、スマホをいじっているのでもない。ただなんとなく俯いて、バスに揺られるがままに身を任せていた。

「ただいま」

 閑静な住宅街に佇むくたびれた外壁の一軒家、その真っ暗な廊下に向かって私は声を投げる。返事なんて、あるわけない。

「おかえり」

 そう思ったのだけれど、その予想は見事に外れた。声の方を向くと、隣で少しイタズラっぽく微笑んだ日葵が見えた。

「日葵も、おかえり」

「うん、ただいま」

 そう声を掛け合ったら、なんだかちょっと可笑しくなって。くすくすと静かな笑い声を廊下に振り撒きながら、私たちはリビングへの扉を開く。

 机の上にぽつんと置かれたアメリカ土産の袋に出迎えられて、心臓がきゅっと縮こまる。だからそれをすっと床に下ろして、

「夜ご飯、どうしよっか」と誤魔化すように口にした。

「明日までのお肉あるから、ソテーにでもしようか。あっ、冷凍のお魚もあるんだった、解凍しなくてもいいやつ。それで焼き魚か、それともいっそウーバーでも頼んで」

「お姉ちゃん」

 冷蔵庫の前へと進めた足は、その声で止まった。

「もう、いいよ」

 背中を優しく撫でるようなその声が、私をゆっくりと振り向かせる。

 リビングの入り口で後ろ手を組んだ日葵は、ふわっと柔らかく微笑んでいて。

「私の前では、無理しなくていいんだよ」

 ――あぁ、そうか。日葵には全部、ばれてたんだ。

 気丈に振る舞ってみても、無理して明るく声を出しても、いつもよりたくさん笑ってみても。外側だけをどれだけ立派に取り繕ったって、その隙間から微かに顔を覗かせる本心が、日葵には全部見えていたんだ。

 ただ立ち尽くすだけの私へと、日葵はゆっくりと近付いてくる。そよ風みたいにゆっくりと、でも確実に一歩ずつ。

 気が付けばもう目の前にいて、動けないでいる私の手をそっと握る。

「お姉ちゃんだって、甘えていいんだよ」

 優しかった。

 吹き抜けるくらいに優しい瞳だった。

 いつもは、慈しんで守ってあげたくなるような無邪気な瞳。でもいま目の前には、私のことをふんわりと包み込んで、けれどもぎゅっと捕まえて離さないっていう強さを秘めた瞳があった。

「日葵……」

「お姉ちゃん」

「ひま、り…………!」

 気が付けば、私は妹の胸にいた。日葵の小さな身体に、預けるようにしてもたれかかった私の肩を、彼女がそっと抱き寄せる。そんなにぎゅっとしたって、もうこれ以上はくっ付けないよ。そう思うくらいに強く、優しく。

 頬を滴り落ちる涙が、可愛らしい花柄のワンピースへと吸われていく。いけない、せっかくの日葵のお気に入りなのに、汚しちゃう――でもそう咎めたくらいじゃ、私の駆け出してしまった感情は、もう止まらなくて。

「いいんだよ、お姉ちゃん」

 耳元で囁くように言われたら、もう抑えられなかった。

 嗚咽混じりに声を啜る私、その頭を日葵がゆっくりと撫でる。舞い落ちる花びらを掬い上げるように、静かに、大切そうに。その手のひらから伝わる温かさが、そのまますとんと胸の奥へと染み込んで来るみたいだった。

 日葵の温もりが私を包む。触れ合った頬から、肩を抱き寄せた腕から、ぴったりとくっ付いた胸から。まるで私の全てを受け止めてくれるようで、本当に心地良くって。

 だから、私は泣いた。妹の胸を借りて、みっともなく泣きじゃくった。お父さん行かないでって、ずっと一緒にいてよって。今日までたくさん溜め込んで、胸の奥の奥へと押し込めた想いを全て曝け出すように叫んで、我慢せずにひたすら泣いた。

 そんな私を、日葵は何も言わずにただぎゅっと、受け止めてくれていた。

 そうか。日葵、もうこんなに大きくなったんだ。

 いつもお姉ちゃんお姉ちゃんって寄って来て、たくさん私を頼ってくれた妹は、もうこんなに、大人になっていたんだ。

 泣き声は止まらない。悲しみは尽きない。でも不思議と心の中は穏やかで、ずっとこうしていたいって思えるほどに、幸せだった。

 

 思えばきっと、あの時だったんだ。

 あれが、きっかけだったんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る