ほろ酔い幻想記
森陰五十鈴
酔
新年の集まりがあるから、と町年寄に要請されていたため、寒い中しぶしぶ外に出た。日が暮れ宵闇が落ちた路地を吹き抜ける風は、身を切るように冷たい。すぐに長屋に戻って布団を被りたくなったが、家を借りている身、自治の寄合に参加せぬわけにはいかぬだろう、と早足で指定の場所に行く。
結果、後悔した。そこは酒盛りの場であった。運営に関わる話ではないのなら、と適当に理由をつけて帰ろうとしたが、酔っ払いどもは私を逃さなかった。諌める女房もこの場にいないため、親父たちは解放的になっているらしい。私の遠慮に託つけた辞意を汲み取ることもせず、酒を押しつける嫌がらせを総出でやってくる。
仕方なく、一杯だけいただいた。一息に杯を呷り、親父たちの喝采を浴びた隙を狙い、冷たい風が吹き抜ける路地へと脱出する。
酒精を一気に腹に流し込んだ所為か、身体は火照っていた。寒風が心地よいほどだった。身体はふわふわとして、頭の中もなんだか蕩けそうな気分の中、古い草履を地面に擦らせる。その足音が不規則なのが自分でも分かった。
身体の軸がぐらついている中でなんとか家に辿り着き、戸にしがみつく。力加減を誤って乱暴に扉を開けると、温かい空気が私の身体に吹き付けられた。そして、は、と息を呑む音がする。
「あら、お早いお帰りで」
視線を右下に向けると、土間の竈の前に女がいた。火を覗き込んでいた体勢からの振り向きざまに私を見上げる格好となったようで、頭がかなり低い位置にある。私はいささか狼狽した。ただいま、の声が喉に絡んだ。
凛とした女であった。襟足の辺りで切り揃えた、艷やかな黒髪。後ろ髪と同じく真っ直ぐに切り揃えた前髪の下より覗くのは、少し吊り上がった切れ長の目。色は白く、唇は薄く。町を歩けば人に褒められるだろう美人。
なんと、私の妻である。
その妻の意志の強そうな顔は、今は少し困った表情を作っていた。
――何か、間が悪かっただろうか。
首を傾げてまじまじと妻の顔を見ていると、彼女は気まずそうに視線を逸らした。
「あの、寒いから、戸を閉めてくださる?」
せっかく温まった屋内に入り込む冷気に気付いた私は、急ぎ腰障子を閉めた。
「すまない。酒の所為かぼうっとしていて」
言い訳をしながら草履を脱ぎ、畳に上がろうとして。片足に何かが絡みつき、躓きかけた。慌ててもう片足を踏ん張って転ぶのを防ぐ。それから身を屈めて這うようにして色褪せた畳に上がると、尻餅をつき、絡んだものの正体を突き止めた。
それは、白く、太く、長かった。表面は冷たく、硬く滑らかだった。土間に横たわるように延び、一端が妻の着物の裾へと潜る。反対側のもう一端は、先細りしていた。
大蛇の胴のようだった。
訝しんでもう一度妻のほうを見て、彼女の体勢がかなり
……いや、それ以上に、足がないのもどういうことか。
妻の下半身は、蛇のそれとなっていたのである。
ぽかんと口を開けて妻の顔を見つめると、彼女はばつが悪そうに瞼を伏せた。
「暴かれてしまいましたか」
妻は上半身を起こした。さわさわ、と軽い音を立てて、蛇の体が動く。妻の暗い色の着物の裾からは、やはり足は覗かず、代わりに白い蛇の胴体が伸びていた。
「驚いた。蛇の化身であったか!」
妻は黙って首肯した。肩が縮こまっている。気の強そうな彼女が弱々しい様子を見せており、その落差に戸惑う。
「……しかし、何故蛇であるお前が、わざわざ人間に化けてまで、私の元に?」
私に蛇を助けた覚えはなく、宝物を盗んだ覚えもない。人外が化けてまで一緒になりたいと思うような男ではないのだが。
「……恐れぬのですか?」
おずおずと妻がこちらを伺う。
「恐れ?」
はて。首を傾げた。珍しいとは思う。何分これまで私には妖ものとの縁はなかった。妖怪絵巻くらいだったら、子どもの時分に見たことはあるが。
それに、彼女は白蛇である。白い蛇はめでたいと聞いたことがある。吉兆の生き物であるならば、邪険にする必要はあるまい。
そう説明すると、彼女は小さく噴き出した。表情が解れて、私も満足する。
しうしう、と竈から音がする。妻は、湯を沸かすために土間に居たらしい。彼女は竈からやかんを下ろすと、急須を持ち出して茶を淹れた。座布団の上に移動してその手際を眺めている間に、湯呑が差し出される。
蛇の体とは思えぬほどの立ち回りだった。狭い家の中で、よくぞ尻尾をつっかえずに動けたものだ。
妻は私の隣に座り、ふうふうと湯呑に息を吹きかける。足代わりの蛇の胴は仰向けのような状態となっており、尻尾の先がぴく、と動いているのが面白い。
茶を啜る。そういえば、私は酒を飲み、酔っている最中だった。緑茶の苦みが脳髄に滲みる。臓腑が温まる感覚も心地よい。
「西の通りの、祠」
ふと妻が溢す。視線を湯呑の中に落とし、目を細めて。茶の水面に何か映り込んでいるのか。
「毎朝、拝んでくださるでしょう」
確かに、私は勤務先に向かう際、西の通りを往き、通りの半ばにある祠を拝んでいた。祠といっても、石を積み上げて作ったような、粗末で小さなものだ。
「とはいえ、手を合わせていくだけだが」
供え物をするわけでもなく、熱心に祈るわけでもなく、感謝を捧げていくわけでもない。すれ違いざまに手を合わせていくだけで、挨拶となんら変わりのないものである。
「それだけでも嬉しかったのです。立ち寄ってくださる人はおりませんでしたから」
俯き加減で私を見上げ頬を赤らめる様子は、胸がときめくものがあったが。
「なんと。お前はあの祠の主か。では、神様ではないか」
見た目の麗しさもさることながら、格の高さに面食らう。
「それほどたいそうなものでは」
「いやいや、奉られるだけの権能が少なからずあるのだろう」
ならば、神と呼んで差し支えないではないか。
「そうか……。そのような身で……」
ただ通り際に手合わせしておくだけの自分に、嫁いでくれるとは。有り難いとしか言いようがない。
「これは大事にせねばな」
畏れ多い立場でむやみに舞い上がり、調子に乗るようなことは戒めねばならない、と固く決意する。
「ええ。どうか大事にしてくださいませ」
先ほどまでの様子が一転、なにやら急に強気に出たなと思えば、妻は湯呑を置き、私のほうにしなだれかかった。挑戦的に私を見つめ、無言の圧を掛けてくる。いつの間にか足は人のものに変化していた。
ずい、と整った顔が迫る。
「これ……」
名を呼ぼうとしたが、頭の中が真っ白になり、言葉が出てこない。情けなくも主導権を取られたことを内心で恥じつつ、妻の身体に手を伸ばした。
妻の肌は冷たく滑らかで、火照った身体に丁度良かった。
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