六月一日 義徳、仕事を引き受ける

 とあるビルの地下一階。

 だだっ広く薄暗いオフィスにて、灰色の地味なスーツに身を包んだ中年男がひとり椅子に座っていた。

 仕事をしているわけでもなく、雑誌を読んだりスマホをいじったりしている。表情はぼんやりとしており、気だるそうでもあった。

 奇妙なことに、部屋には他に誰もいなかった。机や椅子なども複数置かれているが、誰も使っていないのは明らかである。中年男ひとりが使用するには、いささか広すぎるように見えた。

 やがて、中年男は立ち上がった。時計を見るまでもなく、午後五時を過ぎているのは分かっている。

 さっさと帰るとしよう。




 緒形義徳オガタ ヨシノリは、満願商事の社員である。ただし、彼のやらなくてはならない仕事はほとんど無い。午前九時前後に出社し、地下一階のオフィスに行く。そこで適当に暇を潰し、午後五時になったら帰るのだ。その存在自体、社内でも知っている者はほとんどいない。

 結局のところ、義徳はいわゆる窓際族に近い存在なのである。いや、幽霊社員といった方が正しいかもしれない。いてもいなくても会社には何の影響もなく、ただ身を置いているだけ。今のところは、リストラの心配がないのだけが唯一の救いだが。

 そう……義徳をクビにすると、満願商事は非常に厄介なことになるのだ。


 仕事が終わると、義徳は真っ直ぐ家に帰る。寄り道などは一切しない。電車に乗り、人ごみに揉まれながら帰宅の途に付く。

 駅を降りてしばらく歩き、真幌市にある一軒家に着いた。


「ただいま」


 声をかけながら、扉を開ける。すると、最初に玄関にて義徳を迎えたのは丸々と太った黒猫だ。義徳の顔を見上げ、にゃあと鳴く。続いて──


「おかえりなさあい」


 声とともに奥から出て来たのは若い娘だ。ただし、義徳には似ても似つかない。そもそも、人種からして明らかに違うのだ。義徳はどこからどうみても、四十歳を過ぎたオッサン……いや、典型的な中年の日本人男性である。

 それに対し、娘は彫りの深い顔立ちで、目鼻立ちがはっきりしている。肌は白く、髪は金色。欧米の貴族を思わせる美しい顔立ちは、どうみても日本人ではない。

 だが義徳にとって、彼女は紛れもなく、自分の家族であった。名は緒形有希子オガタ ユキコ。欧米人のような顔立ちには似つかわしくない名前だが……義徳の養女である。当然ながら、ふたりの間に血の繋がりはなかった。


 リビングでくつろいでいる義徳に対し、にゃあと鳴きながら擦り寄っていく猫。それを見た義徳は、満面の笑みを浮かべる。


「よしよし。マオニャン、お前は本当に可愛い奴だなあ」


 そう言いながら、義徳はマオニャン──言うまでもなく猫の名前だ──の喉を撫でる。

 するとマオニャンは、ゴロゴロと嬉しそうに喉を鳴らしながら、義徳の前で仰向けに寝転び、肉付きのいい腹を見せる。義徳は思わず苦笑した。


「ちょっと、マオニャンってさあ……あたしより父さんに懐いてない? いっつも世話してんの、あたしなのにさ」


 有希子が口をとがらせて言う。とても流暢な日本語だ。顔立ちからは想像も出来ないだろう。


「えっ? そうなのか?」


 困った顔をしながら、マオニャンの腹を撫でる義徳。確かに、もともと捨てられていた仔猫を拾ってきたのは、小学生の時の有希子だ。マオニャンという名前を付け、きちんと世話をしてきたのも有希子である。

 にもかかわらず、マオニャンは義徳の方に懐いてしまっていた。不思議なものだ。

 その時、義徳の携帯電話が震える。どこからかメールが来たらしい。


(あなたの口座に、間違えて一千万円を振り込んでしまいました。申し訳ないのですが、出来るだけ早く連絡をください。真幌公太)


 常人なら、単なるいたずらと判断しただろう。あるいは、何らかの犯罪の匂いを嗅ぎ取るか。いずれにしても、こんなメールは放っておいたはずだ。

 しかし、義徳の対応は違っていた。無言で、すぐに外へと出ていく。



 真幌公園のベンチに座り、真ん中にある池を眺める義徳。先ほどのメールは、ある知人からの暗号である。ここに呼び出されるということは、確実によからぬ事態だ。

 やがて、紺色のスーツを着た男が姿を現す。中肉中背で髪は短め、年齢は二十代後半から三十代前半か。一見すると、やや軽薄ではあるが爽やかな好青年、といった感じの風貌の持ち主だ。にこやかな表情を浮かべながら歩き、義徳の隣に座った。


「お久しぶりですね、義徳さん」


 そう言うと、男はポケットからタバコの箱を取り出した。一本抜き取り、火をつける。


「俺に何の用なんです、住田さん」


 義徳は吐き捨てるような口調で言った。不快そうな表情を隠そうともしない。それに対し、男は笑顔で答える。


「いやだなあ。住田さん、なんて他人行儀な呼び方はやめてくださいよ。昔みたいに、健児って呼んでくれなきゃあ。俺と義徳さんの絆は、ホモより固いんですから」


 そう言うと、男は馴れ馴れしい様子で義徳の肩をぱしぱし叩く。端から見れば、親しい友人同士のじゃれ合いでしかないだろう。

 だが、義徳は知っている……この住田健児スミダ ケンジは、怪物のような男なのだ。


「実はですね、義徳さんにちょっとした仕事をお願いしたいんですけど……」


 健児は、馴れ馴れしい態度を崩さずに言った。それに対し、義徳は何も答えない。じっと健児を見つめる。どうせ、ろくな仕事ではないのだ。


「どうしたんですか義徳さん、あなたも、どうせ暇でしょう? だったら、仕事の片手間に手伝ってくれてもいいじゃないですか?」


「どうせ、俺に選択の余地はないんでしょうが」


 吐き捨てるように言い、義徳は健児を睨みつけた。だが、健児はまったく動じない。


「何を言ってるんですか。もちろん、断るのは義徳さんの自由ですよ。その結果、どうなるかは俺は知りませんがね。ただ、俺は何も強要はしてませんし、する気もないです」


 健児はそう言うと、にこやかな表情で義徳を見つめる。

 その表情を見た義徳は、心底から不快になってきた。この男のやり口はよく知っている。目的のためならば、手段を選ばないのだ。義徳を動かすためならば、どんなことでもするだろう。

 自分と有希子の平和な生活など、目の前にいる男はいとも簡単に破壊できるのだ。


「わかりましたよ。で、私は何をやればいいんです?」


「引き受けてくれますか。いやあ、ありがたい。さすがは義徳さん、頼りになる先輩ですね」


 言いながら、満面の笑みを浮かべて義徳の肩をバンバン叩く健児。

 しかし義徳の表情は、氷のように冷えきっていた。






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