【現在3】「幽霊だって、たまには叫ぶんだぞって」

 ふと場面が切り替わった。


 そこまでの世界がどこで途切れたのかもわからない。

 切れ目すらわからないくらい、シームレスに。


 その瞬間、僕が思い浮かべたのは、〈死〉と〈無〉の類似性だった。

 僕が思い描く〈死〉のイメージは、〈無〉と限りなく似通っている。


 何もないこと。

 酸素も、オゾンも、ダークマターすら存在しない本当の〈無〉。

 フィルムとフィルムをただつなぎ合わせたような無造作な手付きにこそ、〈無〉の本当の姿がある。


 〈無〉とは、そこにあったことすら気づけないものなのだ。

 『無い』ものを『有る』ことにはできない。

 なぜならそれは『無い』からだ。

 一秒ごとのその隙間にどれだけの〈無〉があったとしても、『有る』側の存在である僕らは、それを決して認識することはできない。

 認識できてしまっては、それはもう既に〈無〉ではない。

 〈無〉と〈有〉の間には、容易には踏み越えられない境目がある。

 そしてそれは、僕が探し求めている境界線とひどく似通っている。

 まるで、双子の兄弟のように。


 いずれにしても、その境目で揺蕩っているような存在の僕が言うことでもないのかもしれないけど。




 僕にはもう目なんてないのに、窓の外は目が潰れてしまいそうなほど明るかった。

 僕は四角い〈部屋〉の前面と背面につけられたカメラから世界を覗き込んでいた。

 眼前には、瞳に涙を溜めた送橋さんがいる。


『送橋さん?』


 呼びかけると、僕を抱えたまま、枕に顔を埋めてわんわん泣いた。

 落ち着いてから話を聞くと、どうやら僕の魂が天に召されてしまったと思ったのだそうだ。


「急にいなくならないで」

『すみません』


 昨夜というか今朝この家に戻ってきてから、即座に眠りに落ちた送橋さんの隣で、しばらくの間は家の周りにいる小鳥の囀りを聞いていた。

 しかし、次の瞬間には意識が丸ごと削り取られ、気づいた時には目の前に泣き顔の送橋さんがいた。


『でも、どうして意識が途切れたんだろう』

「充電切れだと思う。昨日、ほとんど充電切れかけてたから」


 送橋さんは僕を持ち上げて、鏡の前に差し出した。

 鏡に映った僕の表面には、電池マークの隣に『2%』と表示されている。


『つまり、僕は充電がないと意識を保てないってことですか』

「……怖いね」

『別に。眠るのとほとんど一緒ですし』


 事実、そうだ。

 生きていた頃だって、限界まで疲れ切った時にはまるで電源を落とすかのように意識が途切れて、次の瞬間にはもう朝になっているものだ。

 そんな経験は枚挙に暇がない。


「でも、わたしが電源を切って二度と起動しなかったら、きみはもう永遠に意識が戻らないってことでしょ。怖くないの」


 言葉とは裏腹に、送橋さんの表情に余裕はなかった。

 その言葉は脅しどころか、いつか訪れる親の死に怯える子どものようだった。


『怖くないですよ。眠るのと同じです。眠りに就く時、翌朝目覚める保証があるわけでもない。でも、眠らないわけにはいかない。眠らなければそれこそ死んでしまう。だから人間は眠ることを恐怖しない。その恐怖を感知しないのは、生き物に備え付けられた安全装置のようなものなんじゃないかって。だから――』

「でも、わたしはきみを殺したんだよ」

『それは――』


 言いかけて、やめた。

 昨夜、送橋さんは同じことを言っていた。

 僕自身、いつそうなってもおかしくないと思って日々を過ごしてきたのは間違いない。

 しかし、僕には肝心の記憶が欠けていた。

 つまりは、送橋さんに殺された瞬間の記憶が。

 記憶の欠落――あるいは〈無〉。


 思い出すのは、あの小学校の帰り道だ。

 車に轢かれて何日間か生死の境を彷徨った日もそうだった。

 その瞬間の、数時間前ぐらいからの記憶がすっぽりと抜け落ちた。

 気づいたら病院のベッドの上にいて、最も死に近づいた瞬間の記憶は、綺麗に網の目から零れ落ちてしまった。


 あの時と同じだとしたら、僕はまた死に最接近した瞬間を取り逃してしまったことになる。

 口惜しいとは思えど、怖いという気持ちは浮かんでこなかった。

 ともすれば、何かを恐ろしいと感じる器官は、身体のどこかにあるのかもしれない。

 魂だけの存在になってしまった僕に恐怖がないとしたら、恐怖を感じる機能は魂に備え付けられたものではないからなのかもしれない――と。


「……ねえ」


 不安そうな声。僕はまた黙り込んでしまったらしい。


『すみません。また余計なことを考えてました』

「余計なことって?」

『……大したことじゃないですよ』


 何を話せば、僕の言葉は送橋さんの涙を拭うハンカチの代わりになれるのだろう。

 僕にはもう手はないし、ギターを弾くこともできない。

 僕が送橋さんの涙を拭うには、言葉を使う他ない。


『怖くはないですよ。僕は、何も変わりはしません。それに、送橋さんの手にかかるなら、本望ですから』


 送橋さんの表情は読めない。何かを言おうとして、やめて、彼女は僕をベッドの脇にある非接触式の充電台の上に置いた。


「ご飯、準備してくるね。食べたら出かけよう」

『わかりました』


 彼女はすぐ僕に背中を向けてしまった。

 僕の言葉が少しでも彼女の慰めになっていればいいなとは思うけれど、僕はそこまで言葉がうまい方でもないし、本当のところ、彼女がどんな言葉を必要としているのかもわからない。




 家を出る直前、送橋さんは「ちょっと試してみていい?」と言って、がさがさと棚の中を漁って小さなケースを持ってきた。


「音楽とか聞かないし、あんま使ってなかったんだけどさ」


 かぱっと開けると中にはワイヤレスイヤホンが入っていた。

 送橋さんはそれを耳にねじ込むと、あーでもないこーでもないと僕をごちゃごちゃいじり始めた。


「これがあれば、電車の中でもきみの声を聞けるかなって」


 なるほど。

 僕の声はスマホのスピーカーから音声出力されているのだと、送橋さんは言っていた。

 これを接続すれば、僕の声はイヤホンから流れることになるだろう。


「何か喋ってみて」

『あー、あー、マイクテス、マイクテス』

「……だめじゃん」


 送橋さんはがっくりと肩を落とす。


『接続ができてないってことですか?』

「わかんない。わたし、そういうの弱いんよ……」

『ちょっと、僕を鏡に映してくれます?』


 のそりと立ち上がって姿見に突きつけられる。

 やはりインジケータにはBluetoothのマークは灯っていなかった。


『これ、Bluetooth起動できてないですよ。設定開いてもらえます?』

「設定って?」

『アプリ一覧の中にある、ぎざぎざの歯車みたいなやつです』


 いくつかの操作の指示をして、ようやく接続ができた。

 僕の声がこの〈部屋〉から発せられなくなる。

 スマホのマイクが僕の声を拾わなくなる。

 代わりに、Bluetoothイヤホンを通じて僕の声と、送橋さんの呼吸音が聞こえてきた。


「うん、いい感じ。きみは?」

『大丈夫です。でも、なんかすごく、さっきよりも送橋さんが近い感じがしますね』

「……馬鹿言ってないで、行くよ」


 送橋さんは上着のポケットに僕を収めた。

 ポケットは二重になっていて、その小さい方に入ると、スマホのカメラがポケットから頭を出す形になる。


「周り、見えた方がいいでしょ」

『ありがとうございます』


 僕のカメラをちょこんと出したまま、送橋さんは部屋を出た。

 送橋さんの家は、上前津から徒歩五分くらいのところにある築四十年くらいの古びたアパートだ。

 何度も来たので、駅からのルートはもう覚えてしまっている。

 この身体になってもまだ忘れていない。名城線右回りに乗り、大曽根へ。


 栄を通り過ぎるところで、送橋さんとギターを買いに行った日のことを思い出してしまう。

 僕たち二人が始まった日。

 あるいは、二人が終わり始めた日。


「懐かしいね」


 ぼそりと送橋さんが呟いた。

 平日昼間の名城線の人口密度はそこまで高くない。

 僕らの周りに、送橋さんの呟きを聞き咎める人はいない。


『僕もちょうど、その日のことを思い出していました』


 あれから幾度となく、送橋さんと名城線に乗った。

 だけど、栄を通り過ぎる時に思い出すのは、決まってギターを買ったあの日だ。

 あの日の僕は、買ったばかりの高価なギターをわけもわからず運ぶことしかできなかった。


「わたし、きみを誘わなければよかったのかもね」


 消え入りそうな呟きを、無駄に高性能なマイクがいともたやすく集音する。

 聞かなかったふりはできそうにもない。


 あの時、僕が送橋さんの誘いに乗っていなければどうなっていただろう。

 そんな、どうしようもないことを考える。

 無為な思考を繋いでいけば、僕にとっての分岐点はまだ他にもありそうだった。


 僕が送橋さんを助けに行かなければ。

 そもそも、大曽根などでギターを弾かなければ。

 父にギターがほしいなどと言わなければ。

 あの小学生の日に、轢かれてそのまま死ねていたら。


 僕の魂は、どうなっていたのだろうか。


『よかったと思ってますよ。あの日、送橋さんの誘いにちゃんと乗ることができて』

「どうして?」

『送橋さんのおかげで、僕はちゃんと生きることができた。僕はきっと、一人だったら、ちゃんとは生きられなかった』

「ちゃんと生きるって何?」

『ちゃんとは、ちゃんとです』


 命にとって重要な要素は、きっと長さではないと思う。

 密度でもない。

 言うなれば、巡り合わせだ。

 僕はきっと、巡り合うべき時に、巡り合うべき人に出会った。

 ちゃんと生きるとは、たぶんそういうことだ。


「子どもみたい」

『僕は大人です』


 少なくとも、ちゃんと生きた僕は送橋さんよりは大人なんじゃないかと密かに思っている。

 しっかりした大人のように見えるけど、本当の送橋さんは案外子どもっぽくて、寂しがりやなのだ。




 大曽根から十五分ほど、国道19号線を春日井方面へと歩いていくと、僕のアパートが見えてくる。

 父はなぜこのアパートを選んだのだろうか。

 僕の意見は一切求められなかったし、特別便利なわけでもない。

 厳格なように見えて、実はいい加減なところがある父なので、きっと適当に選んだのだろう。

 いいところと言えば、少し歩けばアピタがあるので買い物には困らないことと、名古屋ドームまで歩いて行けることぐらいだ。

 僕は野球に興味がないので、後者は僕の生活向上に全く寄与しないのだけれど。


 送橋さんが錆びた鉄骨階段を登ると、一足ごとに怖くなるような軋みが僕にも聞こえてくる。

 セキュリティーのようなものは当然のように備えられてはいない。


「鍵っていつものとこ?」

『はい』


 送橋さんは玄関の郵便受けの中に手を入れてごそごそ探ると、まるで手品のように鍵が出てくる。

 郵便受けの内側の、死角になるところにマグネットを取り付けて、容易に貼りつけられるようにしたのだ。

 鍵を失くしがちな僕の、生活改善のための知恵だ。

 セキュリティー性が落ちるのは、やむを得ない代償だと思う。


 鍵を開けて中に入る。

 北向きの窓しかない、ギター以外は何もない部屋だ。


「ちょっと生ごみの匂いがする」

『あ、そういえば捨て忘れてました』

「相変わらずだね」


 勝手知ったるという感じで、送橋さんはカーテンを開け、窓を思いきり開いた。

 鞄を布団の脇に置き、流しの三角コーナーに置き去りにされた生ごみをビニール袋に入れて、きゅっと口を縛る。


「もう出しちゃっていいよね」

『構わないと思います』


 手慣れた様子で家の中のごみを集めていく。

 指定のごみ袋にまとめて、アパートのごみ捨て場に出した。

 ごみを出せる日は決まっているが、そんなものを律儀に守っている住人なんていない。


 この部屋は解約した方がいいのだろうかと一瞬考えて、どうでもいいかと思い直した。

 どうせもう使うことのない僕の口座からお金が引き落とされていくだけだし、その口座には父からの手切れ金のような金が入っている。

 放置してもしばらく問題になることはないだろう。

 それに、切れたら保証人の父に連絡がいくだけのことだ。


 父、か。

 一緒に住んでいる時もほとんど話したことのない父。何の気の迷いか、僕にギターをくれた父。手切れ金のような金と下宿のアパートを用意して僕の人生から姿を消した父。

 そして。

 そして――、何だっただろう?


「また黙ってる」

『あ、いえ』

「考え事が多いね」

『もう考えることしかできませんからね』

「それは確かに、そうだね」


 言ってから、今の物言いは良くなかったんじゃないかと思ったが、送橋さんは特に気にする様子もない。

 部屋の中に戻り、居室の真ん中に仁王立ちして、「さて」と大きく息を吐き出した。


「クローゼットだっけ」

『そうです』

「約束だもんね」


 自分に言い聞かせるような口調だった。

 部屋の入口にある折れ戸を開き、その隅に立てかけてあるギターケースを取り出した。

 敷いたままの布団の上にケースを置き、一つずつ止め具を外していく。

 ケースの中には、送橋さんから借り受けたギターが収められている。

 買ったばかりの時はピカピカしていたのに、今ではあちこちに指紋汚れが付着していて、輝きもかなりくすんでしまっている。


『あまりきれいにしてなくて、すみません』

「いいよ。確か、磨き布みたいなのあったよね」

『クロスならケースの収納に入れてあります』

「おっけー」


 ケースの内側の、赤色にけば立った収納を開けると、真っ赤なギタークロスが買った時のまま入っていた。


「これで磨けばいいんだよね」

『ちゃんと磨くなら、ポリッシャーを使うみたいです。確か、クローゼットに入れっぱなしだったと思います』

「買ったなら磨けばよかったのに」

『すみません』


 そこは、自分がずぼらだったことを認めなくてはならない。

 だけど、僕はギターを弾きたかったのであって、ギターを綺麗なままにしておきたかったわけではない。

 送橋さんはクローゼットからポリッシャーのスプレー缶を取り出してクロスに吹きつけ、丁寧にギターを磨き始めた。


「ここはどうすればいいの?」

『指板は弦外しちゃった方が磨きやすいですよ。外し方わかります?』

「わかんない」


 スマホスタンドに立てかけてもらって、口で頑張って説明してはみたものの、あまり伝わらない。

 途中で面倒くさくなって、


『もうYouTubeで調べればいいのでは?』


 僕を使って『アコースティックギター 弦交換』と検索してもらうと、そこそこ色んな動画があったようだ。

 僕が言葉で教えるよりもスムーズで、少し複雑な気持ちになる。

 ポリッシャーを使って指板やヘッドを磨き、買い置きしてあった交換用の弦を張っていく。

 ほとんど頼られなくなったのは少し寂しかったが、動画が流れている途中で僕が喋ると、動画の音声が途切れてしまうことがわかったので、弦交換が終わるまでおとなしく待つことにした。


「ねえ、このチューナーってやつは?」

『それもクローゼットの中に。黒くて四角いやつです』


 また折れ戸を開け、その中に四つん這いで入っていった。

 最近はずっと耳でチューニングしていたので、チューナーは押し入れで埃を被っている。

 ひょっとしたら電源がつかないかもと思ったが、一応ついたみたいでほっとした。

 慣れない手つきでチューニングする送橋さんを見ていると、ギターを始めたばかりの自分を見るようで、どこか微笑ましい。


「できた」

『おめでとうございます』


 送橋さんは、何も押さえずにしゃらん、しゃらん。

 まるで初めてギターに触った子どものように、開放弦を何度も鳴らした。

 スマホのマイクが集音した音を聞く限りでは、ちゃんとチューニングもできたんじゃないかと思う。

 だけど、自分で弾く時の音と、送橋さんが弾く音はどこか違っている気がした。

 同じギターでも弾く人間が変われば音も変わるし、そもそも僕の耳自体が昔とは違うものになってしまっているから、本当のところはよくわからない。


『約束が果たせてよかったです』

「何言ってんの。これからだよ」


 不穏なことを言う。送橋さんはニヤッと口元を歪め、僕を取り上げてまた元通り上着のポケットに納めた。

 ギターをケースにしまい、チューナーやポリッシャーはなど、ギターに関係しそうなものは残らず鞄にしまいこんだ。


「とりあえず、行こっか」


 鍵は元の場所に戻して、僕らは部屋を出た。

 色々やっているうちに日はもう暮れかけていた。

 大曽根まで片道十五分の道を、ギターを片手にゆっくり歩いていく。

 相当重たいようで、何度も道端に置いては右手をぷらぷらと振っていた。


「手が千切れちゃいそうだよ」

『リュックみたいに背負うタイプのギターケースもありますよ』

「それ、今度買いに行こう」


 普通に歩けば十五分だが、休み休み歩いたら三十分もかかった。

 駅の周辺ではもう何人かのストリートミュージシャンが歌い始めている。

 彼らの歌に足を止める人もちらほらといる。

 僕とは違って、正しい路上ミュージシャンの姿だ。


 送橋さんは、いつも僕が座っている場所にギターケースを置いて座った。

 ギターを取り出して、まるでこれから演奏するかのようにギターを抱える。


『弾くんですか』

「弾けないけどね」

『弾けますよ』

「それはこれからかな」


 僕の部屋でそうしたように、開放弦をしゃらんと鳴らした。

 その音に足を止める人は、今のところ一人もいない。


「これが、枯野くんが見てた風景なんだね」


 送橋さんは開放弦を鳴らし続けている。

 そのせいで、その言葉がまるで歌っているように聞こえた。


『大したものじゃないでしょう?』

「そんなことないよ。あっちとこっちじゃ、全然違う」

『そうですか?』

「誰もこっち見ないね」

『そりゃそうですよ』


 この駅には嫌というほどミュージシャンがいる。

 男性ばかりじゃなく、女性も。

 ただギターを抱えているだけの僕を見てくれる人なんていない。


『幽霊になったみたい』


 そうですねと、本当に幽霊みたいなものになった僕が言うのも変だったので、しばらく黙ったままでいた。

 無関心に流れる群衆に何かを訴えかけようとするかのように、開放弦の響きは徐々に強くなる。

 誰一人として、こちらに注意を向ける人はいない。

 幽霊、あるいは透明人間。

 僕はそういうものになりたかったのかもしれないと、今さらながらに思う。

 開放弦が鳴る。

 何度も、何度も、何度も――


「あああああぁぁぁあぁあぁあぁ―――――っ!!」


 家路を急ぐ人々の目が、一斉に集まった。

 幾人かの足が止まる。

 送橋さんがどんな顔をしているのかは、ポケットの中にいる僕には見えない。


「あー、おかしい」

『どうしたんですか、急に』

「幽霊だって、たまには叫ぶんだぞって」

『送橋さんは幽霊じゃないですよね』

「たぶんね」


 送橋さんが置いた留保の意味について、僕は考えを巡らせた。

 幽霊と幽霊でないものの間には、とてつもなく深い溝がある。

 幽霊でないものは幽霊になれるかもしれない。

 でも幽霊は、幽霊でないものになるわけにはいかない。


「……教えてよ」

『え?』

「もう、やっぱり聞いてなかった」


 視界が揺れる。送橋さんの眼の前に持ち上げられた。

 からかうような口調とともに頬を膨らませた送橋さんがそこにはいる。


「だから、教えてくれない? きみが弾いてた曲。わたし、弾いてみたい。ここで」

『でも……』


 僕が弾いていたのは全て手癖のようなオリジナルで、曲と言えるような展開もない。

 メロディーだってその場で変わるし、歌詞だってない。

 そんなものに価値があるだなんて、到底思えない。


「それ、きみが教えてくれるしかないやつだからね。きみの演奏は、YouTubeにはあがってないんだから」

『それは、そうですけど。でも、結構大変だと思いますよ』


 それは技術的に難しいというよりは、僕が言葉だけで曲のイメージを伝えるのが難しいという意味だった。

 弦交換だって僕が話すよりもYouTubeで検索する方が早い。

 口でメロディーや奏法を説明していたら、一体どれほどの時間がかかるだろうか。


「いいよ、頑張る。どうせ暇潰しだもん」

『暇潰し?』

「そう。わたしが幽霊になっちゃうまでの」


 有無を言わせぬ調子に、僕は口をつぐむしかなかった。

 それこそ、先に幽霊になってしまった僕が彼女に言えることなど何もない。


 送橋さんはまた僕をポケットにしまい、開放弦を鳴らすだけの簡単な作業に戻った。

 彼女の叫びの余波はもうすっかり消え、ゾンビみたいに無関心な群衆は、それぞれの乗降場へと流れていく。

 その流れの先にあるものを思い、僕はまた暗い淵の底を幻視した。

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