ほろ酔い幻想記
榎木扇海
ほろ酔い幻想記
「じゃ、かんぱーい」
黄金色の液体に満たされたジョッキを掲げる。ガラス同士のぶつかる音が小さく響いた。
「飲むのひさしぶり~」
るんるんでジョッキに口を寄せる。ほどよい刺激が脳内を駆け巡った。
目の前のかわいい後輩―――
「先輩、あんま飲まないんですか?」
「そうだね~そんなに強くないから」
弱いけれども好きなので、一杯いっぱいを大事に飲ませていただく。
入社ほやほやのころからお世話してきた藍目くんが大きな取引先との営業を無事完遂したお祝いでふたりでちょこっと飲みにやってきた。藍目くんは明るい好青年で、成績はそこそこだが部署内では大いに可愛がられている。
本当は今日ももうちょっと何人か呼ぼうとしていたのだが、藍目くんがあまり大人数が得意でないというので(というわりには忘年会等々で輪の中心にいたりする)、ふたりでちっちゃなお祝い会をひらいたわけだ。
「藍目くんおめでとー!大企業だし大変だったでしょ」
彼は目をすこし細め、お酒なのか照れなのか頬を赤く染めながら頭を掻いた。
「えへへ…先輩方のおかげですよ」
「君自身の頑張りだよ!藍目くん成長速いから、かるーく抜かされそー」
こくこくとビールを喉に流し込む。数か月ぶりのお酒はやけに軽く体になじんだ。
「いつか俺が先輩の上司になっちゃうかも?」
「わー!それはまずいね…先輩としての尊厳が…」
軽く笑うと彼もつられたように顔を緩めた。
「私も頑張らねば!」
ふん、と腕まくりをしつつ、からあげを口に放り込んだ。
そこからしばらく藍目くん褒め褒め話からちょっと仕事っぽい話をして、そのまま世間話、ちょこっと恋バナをしているうちにグラスが空になっていた。
「あ、俺ちょっとお手洗いに行ってきます」
「あーい、いってら~」
彼が座敷を出て行くのを見届けると、最後のだし巻きたまごを食べつつ、スマホを開いた。藍目くんとは何度か飲みに来ているが、彼のトイレはわりと長い。
ずりり、と壁に背を預けて、半ば無意識にSNSを開いた。ほろ酔い程度ではあるものの、ふんわりとした眠気がじわりじわり身を包み始めていた。
「……あれ、アイさん配信告知してない。今日ないのかな」
アイ、というのは私が最近ハマっている配信者―――いわゆる推しである。ゲーム実況、歌ってみた、ASMR等々やっているマルチ配信者だが、とにかく声がいい。基本的に鼓膜に優しい低音イケボで下手に吐息とかがない感じが爽やかでいい。仕事で疲れ切った日々の癒しである。
今日は金曜日なので、普段なら深夜帯でASMR配信がある。アーカイブをちょこちょこ見るくらいのライトリスナーではあるものの、ASMR配信は大体リアタイしていた。なぜなら声が好きだから。寝落ちにちょうどいいのです。
アイさんは基本的に配信より何時間か前に―――おそらく学生やら社会人やらが帰ってくる時間に合わせて―――配信告知の投稿をする。今の時間なら普段の投稿から一時間経ったあたりか。しかしまだ投稿がないということは、おそらく今日の配信はないのだろう(たまにゲリラ配信もあるが、大体深夜なので寝ている)。
ちらっと廊下のほうを見る。まだ藍目くんが帰ってくる気配はない。
「…ふぃー…」
ため息をもらしつつ、頭を上げて壁に預ける。意外と勢いがついてしまい、若干後頭部がずきずき痛んだ。
「あーあ、アイさんの配信楽しみだったのになぁ…」
目を閉じたまま小さくつぶやく。頭の奥がぼんやりしていた。
「…俺の配信好きなの?」
「え」
なんだか聞きなれた声が耳に届き、そっと目を開いた。まさかまさかまさか…!
「―――ぅわっ!」
後ずさろうとしたせいでゴンっと鈍い音を立てて頭を打った。
目の前には、ふたつの大きな手のひらだけがぷかぷか浮いていた。ホラーである。
初めは驚いておもいっきり引いてしまったが、よくよく見てみるとおそらくそれはアイさんのものであるようだった。(というのも、アイさんは昔料理配信にもチャレンジした瞬間があって、そのとき実写で手元だけ写していた。彼がネットにさらした唯一の生身でもある。)
「え、あ、アイさん…?」
おそるおそる聞くと、手のひらは少し考えるそぶりをして、「あー、うん」と答えた。その時の動きから察するに、私に見えている部位が手首から先なだけで、どうやらアイさん自身が机を挟んで向こう側に座っているらしい。
「ねえねえ、俺の配信っておもろい?まだこのままの感じでいけそう?」
なんかウキウキで相談された。アイさんって年齢非公開だけど、思っていたより若いのかな?
「面白いと思いますよ。私も全部の配信見てるわけじゃないけど」
アイさん(手のひら)はビールを手に取り、おそらく口があるところに持っていく。透明なジョッキの中身がすばやくなくなっていく。
「へー!特にどういうのが好き?逆に嫌いな配信も教えてほしい」
「んー、やっぱり好きなのはASMRとか歌ってみたとかですかね…?声が好きなので。…うーん、嫌い…っていうほどではないけど、個人的に苦手なのはホラーゲームかな。怖いのも苦手だし、その…叫び声がちょっと鼓膜に…」
アイさんが小さく笑う。声がいい。
「一応気を付けてはいるんだけどね?俺も結構ビビりだからさ」
「い、いえいえ!私が見なけりゃいい話ですし!アイさんのホラーゲーム実況を待ってるリスナーさんも多いと思います!」
アイさんは(おそらく)頬杖をついて、私を見た。その瞳が見えた気がしてどきっとする。
「はは、ありがと。じゃあこれからの参考までに、やってほしい配信とかある?」
「――朗読!朗読配信やってほしいです!!アイさんってすごく素敵で低くて聞き心地の良い落ち着いた声をしてらっしゃるので、ぜひ聞きたいです!やってくれたら絶対聞きます!」
寝落ちにもちょうどいい!!
「めっちゃ褒めてくれるじゃん。ありがとね。ところでさ―――」
「―――……ぱい、先輩?そろそろ起きませんか?」
ぐらりと肩が揺れて、重たいまぶたに気づいた。ぼんやりした視界が徐々にひらけ、目の前にはすこし心配そうに眉を寄せた藍目くんがいた。
「…ぅ?あぇ、もしかして寝てた…?」
「はい。お手洗いから帰ってきたらぐっすり。何度かお声がけしたんですけど起きなかったんで、疲れてるのかなーっと思って一旦そのままにしてたんです。でももうそろそろいつも先輩帰る時間だなーっと思って」
時計を確認するといつのまにか一時間ほど経過しており、普段ならアイさんの配信を見るために帰宅するくらいの時間帯になっていた。
「あら!ほんとだ。藍目くんのための飲み会だったのに、居眠りとかほんとにごめん!!」
というか冷静になったら目の前に手首から先だけの推しってなんだよ。どう考えても夢じゃねぇか。
「いやいやいいですよ。どうします?もうお開きにしますか」
藍目くんは困り眉のまま微笑む。本当に申し訳ない…
「うん…ごめんね……ちょっと最後にお茶飲んでいい?」
我ながら図太い。
「あ、どうぞ。俺も一杯飲もうかな」
彼はハイボール、私は烏龍茶を注文して、そろそろと帰り支度を始めた。
「そういえば」
と、藍目くんはハイボールを飲みながら私を見た。
「先輩、配信とか見るんですか?」
「え"っ…く、口に出てた…?」
烏龍茶を飲みかけていた手が止まる。じわりと汗が頬を伝った。居眠りに重ねて寝言とか最悪すぎる…!藍目くんもう二度と一緒に飲んでくれないかもしれない。
「いや、あの、見るつもりはなかったんですけど…それ」
彼がおずおずと指をさした先は、私のスマホだった。彼の指先を辿るように机に置かれたそれを見た途端「ひっ――」と声が出た。
アイさんのSNSアカウントを開いたまま、スリープ状態にさえなっていない画面だった。すぐ画面が暗くなるのにイライラするため自動画面オフを切っていたのを忘れていた。ちなみにこれ信じられないくらい電気食うからおすすめしません。
「あわわわ!ご、ごめんね、さっきから情けない姿を…」
「それは見慣れてるんでいいんですけど」
「え?」
藍目くん……
「先輩ってネットとか興味ないタイプかと」
「実はネットに生きてるからね。なんだかんだね」
「…意外です」
「解釈違い?」
「少し」
「んふふ、藍目くんは配信とか見ない?」
「……うーん、見ないことは、ないけど…あまり見ることはないかな」
藍目くんは確かにインドアよりアウトドアタイプの青年に見えるし、解釈一致か。
「ま、もしも気になったら見てみて?アイさんってひと。私は声が好きだけどゲーム実況とかもやってるし男の人でもハマると思う」
「……んー、ま、あ、ゲームは好きなんで…」
彼は口をもにょもにょさせて目をそらした。まあ多分見ないだろう。
彼がハイボールを飲み終わったタイミングでお会計をして(もちろん奢らせていただきました)、外に出た。
「それじゃあ今日は付き合ってくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ奢っていただいてありがとうございます」
「途中で寝ちゃってごめん」
「いいですよ。また行きましょう。今度は俺が奢ります」
「いやいや、先輩の面子が…!」
「今更です」
…藍目くんは酔うと辛辣になるタイプなのだろうか。普段はもうちょっとほわほわしてるのに。
駅まで一緒に歩くと、彼はバス停のほうに向かった。私も鞄から定期を取り出して改札に向かおうとしたとき、ちょっと大きめの声で名前を呼ばれた。
「また、アイの配信の話してください」
ぶんぶん子供っぽく手を振る彼にそっと手を振り返す。かわいいやっちゃ。
―――その日、家に帰ってSNSを見ていると、アイさんが明日の配信告知をしていた。早すぎるし、なにより内容に目玉が飛び出そうだった。
『明日20時から配信開始 初めての朗読にチャレンジします【銀河鉄道の夜 朗読】』
週明け、超絶興奮しながら藍目くんに
「こういうのって正夢っていうの!?よ、予知夢かな!?」
とべらべらしゃべっていると、わりとがっつりドン引きしながら
「…偶然じゃないっすか?」
って返された。
……まだ一緒に飲みに行ってくれるかな…?
ほろ酔い幻想記 榎木扇海 @senmi_enoki-15
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