私達はここに居る

三郎

第1話:普通の女の子

百合香ゆりか、お母さんのこと頼んだよ』そう言って父が兄を連れて家を出て行ってもう十年になる。両親は離婚したわけではなく、ただ別居をしているだけ。誕生日には必ず手紙が届くが、決して会いにきてはくれない。父からの手紙に綴られた愛の言葉は、私の心には響かない。愛しているというのなら、なぜ会いに来てくれないのか。なぜ兄を連れて出て行ったのか。『優人まさとさんには優人さんの考えがあるのよ』と母は言うが、私には理解出来ない。

『私も兄さんと一緒に、お父さんについて行きたかった』一度だけそう言ってしまったことがある。その時の母のショックを受けたような顔が今も脳裏にこびりついて離れない。別に母のことが嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。好きだからこそ、苦しい。


「百合香ももう高校生になるのね」


 制服に袖を通した私を見て、母が穏やかに微笑む。白いブラウス、紺色のブレザー、赤いリボン。そしてブレザーと同じ色のスカート。


「スカート、もう少しあげても良いんじゃない?」


「あまり上げると校則に引っかかるから」


「にしてもちょっと長すぎないかしら」


「良いの」


 私が今日から通う私立青山高校は、LGBTに対する配慮という理由で、今年から制服がジェンダーレス化された。心身の性別に関係なくスカートかズボンかを選べるのだが、私には選択肢は与えられなかった。『ズボンなんて穿いてたらLGBTの人だと思われちゃうでしょ』と言って、母は私に選択権を与えなかった。私は同性愛者ではないし、トランスジェンダーでもない。スカートが死ぬほど嫌いなわけでもない。だけど、選べるならズボンが良かった。母のこういうところが私は苦手だ。父ならきっと、私の意見を聞いてくれるのに。そんな不満が湧き上がると、いつも脳裏に母の不安そうな顔が蘇って何も言えなくなって、結局母に従ってしまう。


「忘れ物はない?」


「……うん。大丈夫」


 LGBTに対する配慮。制服の改革の理由を説明するのにその一言がなかったら、母も私の選択を尊重してくれただろうかと一瞬考えたが、すぐに、しないだろうなと答えが出る。例え学校が言わなくとも母は同じことを言っていただろう。母はLGBTという言葉にやけに敏感だ。『あなたはああならないでね』と、はっきり言われたことさえある。

 小学校に上がる時、ランドセルは黒が良いと言ったら『それは男の子の色だから駄目』と母は言った。昔からそうなのだ。母は私には女の子であってほしいのだ。その普通の基準ははっきりしていない。母が女の子らしくないと思ったら駄目なのだ。私はそれに対して多少の抵抗はするものの、はっきりとは言えない。結局、私も怖いのだ。普通の枠組みから外れて変だと指摘されるのが。

 電車に乗り込む学生の中に、ズボンを穿いている女子学生やスカートを穿いている男子学生はほとんどいない。女はスカート、男はズボン。それが普通。その普通から外れる人間はLGBTというレッテルを貼られる。実際にそうであっても、無くても。

 学校に着いてもそうだった。周りにズボンを穿いている女子生徒は見当たらない。「ほらね、スカートにして良かったでしょう?」と、すれ違った女性が隣を歩く女子生徒に声をかけるのが聞こえた。「そうだね」と、女子生徒は俯きながら答えていた。あの子も私と同じような理由で反対されたのだろう。仮にあの子が目立っても良いからと親の反対を押し切ってズボンを選んでいたら、母はあの子を見て何を言っていたのだろう。想像しかけてやめる。


「じゃあ百合香。また後でね」


「……うん」


 母と別れて、玄関前に貼られたクラス表から自分の名前を探そうとするものの、人が密集してそもそも近づけない。少し離れたところで人が捌けるのを待っていると「君、もしかしてまだ見れてない? 代わりに見てこようか?」と一人の生徒が声をかけてくれた。服装を見て、私は当たり前のようにその人を男性だと判断した。声は高めではあるものの、男性でも違和感のない範囲の高さだったし、背もかなり高くて顔立ちも中性的だったから。だけどきっと、スカートを穿いていれば女性だと認識していたのだろう。周りを見て、ズボンを穿いている女子なんて居ないと感じていたのは、服装で性別を決めつけていただけかもしれないと気づいたのは後になってからだった。


「……えっと、じゃあ、お願いしても良いかしら」


 お言葉に甘えると、その人は一緒にいた女子生徒に「というわけでよろしく」と役目を押し付けた。不満そうに見上げる彼女に「私が行ったら後ろの人見えなくなっちゃうからねぇ」なんてヘラヘラ笑いながらその人は言う。「俺のもよろしく」と、もう一人の男子。女子生徒はため息を吐き、不機嫌そうに「あんた、名前は」と私に問う。可愛い顔して口が悪い。


「あ、えっと……小桜こざくら百合香。小さい桜で小桜、百合の香りで百合香」


「へぇ。綺麗な名前」と、中性的な男子生徒が呟く。「お前、もしかしてさぁ……」とクラス表を見に行く役割を押し付けられた女子生徒が何かを言いかけるが「まぁ良いや」とため息を吐いて人混みに入っていった。


「自己紹介がまだだったね。私は海菜うみな鈴木すずき海菜うみな。あの子は月島つきしまみちる。で、こっちが」


星野ほしののぞむだ。……よろしく。小桜さん」


「ええ、よろしくね。星野くん、鈴木くん」


 私がそう返すと、何故か二人は目を丸くした。何か変なことを言っただろうか。星野くんが「小桜さん、海菜は……」と何かを言いかけるが、鈴木くんは「良いよ。どうせすぐ分かることだし」と星野くんの言葉を遮る。なんだろうと首を傾げていると、月島さんが戻ってきた。


「マジでさぁ……確認したらさっさと退けよなぁ……蹴散らしてやろうかと思ったわ」


 やはりこの子、可愛い顔して口が悪い。しかし、怖い人ではなさそうだ。母は顔を顰めそうだが。


「お疲れ。我慢してえらいね。で? 何組だった?」


「望が二組。で、他が一組」


「他ってことは、私も一組?」


「そう。ちなみに小桜さんの席はこいつの前な。で、その後ろが私」


「えぇ……なんで真後ろが君なんだよ。鈴木と月島の間の苗字なんていっぱいあるじゃん」


「振り返ったら美少女がいるんだぞ。もっと喜べよ」


 なんて冗談を言い合う二人と一緒に教室に向かう。歩いている間、二人の会話は途切れことなく続く。本当に仲が良いようだ。しかし、会話に入れない。二人の一歩後ろを黙って歩く星野くんに、三人はいつから仲が良いのかと問う。「幼稚園から」と、彼は二人の後ろ姿を見ながら答えた。そしてそのまま続ける。


「ちなみに男女三人だから誤解されることもあるんだけど、友達だよ。ただの」


 本当にそうだろうかと一瞬思ったが、それ以上は突っ込まずに「男女ってだけで友達じゃないって思われるのってしんどいわよね」と相槌を打つ。それは別に彼に合わせたわけではなく、本心だった。私には男友達が居ない。異性と友達になろうと思っても、なれない。異性どころか、同性でも、心から気を許せる関係になれた人なんて居ない。冗談を言って笑い合う鈴木くんと月島さんが眩しく見えた。

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