第57話 傘とチャップリン
期末試験が終わり、博之はまた戸塚先生から声を掛けられ、職業実習に行くことになった。
去年の暮に行ったあの乾物屋から、今年もと指名を頂いたと言われたのだ。
その初日のこと、掃除当番でやや遅れて学校を出た博之は、昼過ぎから降り始めた雨が本降りになっているのに気が付いた。朝は天気が良かったので、傘は持ってきていない。面倒だ、走って行こう、と校門を飛び出した。
学校から市場までは一キロ弱。ゆるい坂の上の大通りを渡って直進し、突き当りの神社の左手にある。博之はカバンを頭に載せて走った。坂にかかる最初のゆるいカーブを曲がったところで、女子生徒を追い越した。するとその生徒が背中に声をかけた。
「清水君じゃない、入りなさいよ」
「えっ!」
と振り返ると、それは常盤劇場の恵子だった。
「濡れるわよ、入りなさいよ」
と傘を揚げて博之を誘う。博之は一瞬ためらった。が、思いのほか雨は強く、このまま走れば坂の上まででずぶ濡れに成りかねない。
「わりい」
と、傘の下に頭を入れた。
「何やってんのよ、もっと寄りなさいよ」
と恵子は自分から身を寄せた。博之はあせる。
幸い前後に下校する生徒の姿は見えない。博之はどぎまぎしながら傘の柄に手を添えた。
「真っ直ぐ帰るの?」
と、恵子が聞く。
「いや、今日からまたバイトだよ」
「そう、清水君えらいわネ」
「いや、そんなことはないよ」
ポツポツと会話は少ない。
二百メートルあるかないかの坂の上の右角が恵子の家の映画館だ。その住まいの入り口の前まで来たとき、
「この傘でよかったら、差してっていいわよ」
雨はひときわ真面目に降りしきっていた。
「ありがとう、じゃあ借りていくよ」
と、恵子と別れた。彼女は玄関の前で手を振った。その顔は、今日も大人びた
市場の入り口でピンクの傘をたたんでいると、いきなり後ろから女の人の声がした。
「清水君、いい傘持ってるわね」
振り返ると、同級生の窪川玲子が、リンゴの山の間に立って笑っていた。
「いや、そこでちょうどキネマの斉藤にあって、差してけって言うから!」
少しむきになって弁解する。
「そおオ、おやすくないよ」
「そんなんじゃないよ」
玲子のお母さんが声をかけて仕事を言いつけられて、彼女は首をすくめて裏へ行った。
「どうも、またお世話に成ります」
と、博之は乾物屋の夫婦に挨拶して店に入った。
「ご苦労さん、またよろしくね」
と、奥さんが笑顔で受け入れ、奥に案内してジャンバーを出してくれた。仕事は何も変わることはなく、値段が少し変わったものがあったが格別戸惑うことはない。客の中には覚えてくれている人もいて、声を掛けてくれる。たちまち時間は過ぎた。
その夜は雨のせいで客足は遠く、七時を過ぎたら市場は閑散として妙に暗かった。
店の主人が、
「清水君、今日はもうしまっていいよ」
と言った。
「はい」
と、博之は言われるままに前掛けを外しジャンバーを脱いで、学生服に着替えて店を出ようとした。すると、
「傘を忘れるよ」
と主人が声を掛けてくれて、慌てて戻ってそれをとる。
「かわいい傘ねえ」
と奥さんが冷やかした。
「友達に借りてきたんです。じゃあ、すいません」
と、店を出て、足早に市場を通り抜けようとしたら、またしても玲子が声をかけた。
「あら、今日はもう帰り?」
「うん、閑だもんネ」
と答えて、ちょっと手を上げひらつかせ、傘を開いて雨の中へ押し出していった。玲子はどう見ても自分より二~三歳は上に見えて、体も大きく、姉と話しているような気がする。女の兄弟は持った経験は無いが、なんとなくこんなものだろうかと思える。他の同級生にはないような安心感があった。
通りまで来ると、キネマには煌々と灯りがついて看板が雨の中に浮き上がっていた。切符売り場の前でちょっとためらったが、傘を返していくことにする。もぎりのお姉さんが向こうをむいて売店のおばさんと話している後姿に、
「すいません、ここの恵子さんに借りた傘を返したいのですが」
と声をかけると、
「あら、そおう、」
と、ちょっと考えていたが、
「いいわ、渡してあげるわ」
と言って、傘を受け取ってくれた。
「お願いします」
と、戻りかけたとき、
「兄ちゃん、今帰りかい」
と、脇から声がした。見ると、チャップリンのサンドイッチマンの伯父さんだった。いまは普通の格好になっている。
去年のバイト帰りにこの前で会った後、学校の帰りに何度か、駅前あたりで遇って、顔を覚えられていたのだ。
「こんちは!」
と挨拶すると、
「ヨッ!」
と手を挙げ、器用にその手をクルンと回しておどけて見せてくれた。その小父さんが、
「どうした、傘を返して、まだ降ってるじゃないか」
と、大きな声で言う。
「はい、小降りになったから、、、それに彼女、明日困るでしょう」
「ははあ、派手な傘がかっこわるいんだな」
と冷やかし顔に言って笑った。
「あんた、それじゃあ別の傘持っていきなヨ」
と、もぎりのお姉さんが言って、
「お客さんの忘れ物がいっぱいあるんだよ、持ち主の分からない物がネ」
と、傍らの暗がりから出してきてくれたのだ。そして、ちょっと開いてみて、
「これ、もう戻さなくてもいいわ」
と、博之に持たせた。
「兄ちゃん,貰っときな!」
と、おじさんも言う。博之はもたもたしていたが、
「いいんですか、じゃあ借りていきます」
「いいんだ!貰っとけ」
「分かりました、じゃあ、貰います。どうも、」
ありがとう、の言葉は素直に出せず、飲み込んでそこを出た。
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