第43話 手術
月曜の昼、博之は四時間目を終わるとすぐ学校を抜けて病院へ急いだ。
真夏の太陽の下を、暗い顔をした少年が行く。その母は今腹を大きく切り裂く手術をすると言うのに確かな支えも無く、どんなに不安でいる事だろうか、とそんな思いを胸に十三歳は道を急ぐ。急いで行って何が出来るか。問われれば答えはない。今博之に出来ることは、行って顔を見せて、ただ黙って待つことしかなかった。そのために急ぐ。
病室に着くと、ちょうどベッドからストレッチャーに移された母が博之を認めて、手を振って招いた。とはいっても顔と招く手が異様に離れて見えて、他の持ち主の手が動いているように思え、それだけで突然別な次元に招かれたような錯覚を覚えた。
「博之、」
と言ったまま、異次元に有る手が博之の手を握って、何か言おうと母の口は動こうとして言葉をさがす。博之も又言うべき言葉を懸命にさがした。
しかし、これまでに教えられたどんな言葉もふさわしくない。と、親子は目を見て分かり合う。口には出さないが、二人には共通な「覚悟」、のようなものが確かにあった。
「姉さん!心配ないわよ、安心してお医者さんにまかせなさい」
と本家の伯母が励ましてくれた。ストレッチャーは手術室に入った。
それから延々六時間、博之はひたすら待った。
途中本家の伯父が来て入れ違いに伯母は帰り、池袋の伯母二人がやってきた。弟妹全員が揃う事になる。が、長女の文江は今、生死の境目を彷徨っているのだろう。進行状況は知るすべも無い。
一人だけ遠く離れて暮らした姉が、裸で帰ってきたと思ったら今度はこの騒ぎ。いささかもてあまし気味な弟妹の様子が、言葉のはしはしに感じ取れるのは、博之のいつの間にか身に染み付いたひがみ根性のなせる業か。否、鍛えられた感受性のなせる業であろうか。いずれにしろ負う物の重さを博之は感じずには居られなかった。
暗くなってから兄の照雄が現場から駆けつけた。仕事着のままに、足元にはおがくずが着いている。
「アア!照雄、現場は問題ないか?」
と、伯父が聞く。
「ハイ、造作は大体出来て、左官の方もあと二~三日だって言ってました」
と答えた。そして、博之の横に座り
「どうなんだ」
と小声で聞いた。
「うん、もうそろそろ、だと思うけど」
と、口ごもっていると、突然手術室のドアが両翼同時に開かれストレッチャーが押し出されてきた。
執刀医のあの若い医師が顔を出した。
「お待たせしました。手術は成功です。後は回復を待つだけですね」
と言って中へ入り、ドアは閉められた。弟妹と子らはストレッチャーの後を追う。病人は麻酔もさめず、鼻から管を通したままのこん睡状態の中にあった。
病室に入り、二人の看護婦に軽々、ヒョイとベットに移された母は、まだ深い眠りの中にいる。妹二人に弟一人、腹を痛めた子が二人、すべて肉親がベットを取り囲み、眠る文江を見守る。期せずして声も無く、ただ酸素吸入器のポコポコという音だけが、危うげな文江の生の証のように部屋に響いた。
突然、ドアがノックされ、看護婦が顔を見せ、
「清水さん、どなたか代表の方に来ていただけますか?」
と、医師の伝言を伝えた。
「はい、」
と答えた佳代子伯母が、伯父の顔を見る。加奈子伯母が、
「二人でもいいですか?」
と聞いた。
「どうぞ、かまいません。ステーションのほうへ来てください」
と言って去った。
伯父と伯母が行くことになって出て行った。部屋に再び沈黙が訪れる。ポコポコと音は続き空気は沈んで重い。母の、そして姉の顔を見ながら三人はそれぞれの思いの中に埋没する。
博之は照雄兄のことを考えていた。たぶん兄はこのところずっと肩身の狭い思いをしているのだろう。まだ具体的な考察までは博之には出来ないが、漠然とそれが理解できた。
小学校六年の三学期以後、ずっと養われてようやく仕事の役に立ち始めるその矢先、母と弟たちが自分の生活の中に雪崩れ込んできた。自分が一家の重荷を取り除くために遠い東京まで一人でやってきて、屋根裏部屋の布団で泣いたのは何だったのか。一体どれほどの意味があったのだろうか。と、照雄兄は思うのではないかと考える。自分に置き換えてみると、その、持って行き場の無い悲しみや苦しみが、じんわりと胸を侵して広がり、息苦しさとなって博之をさいなむ。
伯父と伯母が戻って来た。加奈子伯母と照雄、博之、と順に見て伯父が、
「盲腸だったそうだ。移動盲腸で、ちょうどここのところに動いていたために、外からいくら調べても胆嚢としか分からなかった、と言うことらしい」
「それでね、最初に言ってた様にアバラの下をこうノの字に切って、それが分かったからそこから下へ盲腸の元の場所まで切り下げたんだって」
「そう、だから傷はイの字になって、全部で30センチぐらいになったそうだ」
「そうなの、それじゃあ診たて違いだったのネ」
と、加奈子伯母が小声で言った。
「マア、そういうことだな、だけどしょうがないだろう。あれだけ検査しても分からなかったんだからナ、だからそういうことは言うんじゃないよ」
と、伯父が釘を刺した。
ひとしきり話が終わって、一同は病人を眺めた。酸素ボンベから伸びた管が金属製の点滴スタンドに掛けられたガラス瓶の中で泡になって、プクプクと音を出し、その先の管が伸びて文江の鼻に継がる。文江は硬く口を結び眉間にわずかに縦皺を寄せて、苦悶の表情を見せるが、顔に赤みが差して、回復の兆しのようにみればみえた。
ノックの音がして看護婦が来る。
「失礼します。お注射いたします」
まだごく若い彼女は一同の視線の中で時計を見て、
「もう麻酔が切れる時間ですが、」
といって、緊張気味に処置を進める。注射のハリをさす前に肩に手を掛けて
「清水さん!清水さん!」
と揺り起こした。ひじの裏に刺したハリの先で血管を探り、ようやく探り当て器具を押す。注射器にどす黒い血が逆流する。それが又、ゆっくりと文江の体内へ戻っていった。
その時、眉が動いた。文江は苦しげに眉間の皺を深め、ちょっと首を動かして薄っすらと目を開いた。
「清水さん、気付かれましたか、大分ゆっくりでしたね。どこか痛みますか?」
文江はわずかに首を振った。
「あまり、長くはお話されませんように」
と言い残して看護婦は去った。
「姉さん、大変だったわネ」
と、加奈子伯母が声を掛けた。
「加奈子、来てくれたの、」
第一声は弱々しくしわがれていた。
「みんな来てるわよ、」
と、利子が快活に言う。
十歳も年の違う末っ子の伯父は文江とは幼いときの馴染みが薄く、言葉が遠くどこかよそよそしい。その伯父が、
「姉さん、外科は切っちゃえば後は早いよ、何も心配ないからちゃんと養生しなよ」
と言った。文江が目を覚ましたのを見届けたみんなは、一安心の態で時間を気にしだした。
おずおずと照雄が母の傍により、
「お母さん!」
とだけ言って立ちすくむ。器用に優しい言葉の一つも掛けて手でも握ってやる、などと言うことの出来る少年ではなかった。文江は、目顔に「ありがとう」と言っていた。が、その気持ちは充分に伝わったに違いない。
再びノックの音がして専門の付き添い婦が来てくれた。明朝まで付き添ってくれるのだ。伯父と伯母二人小声で相談し、伯父の手から何がしかの心付けを渡していた。
「帰るネ」
と、博之は母の耳元でつぶやいて伯父たちの後を追った。それからこの夜通し、
麻酔からさめた母の体は猛烈な痛みに襲われ続けた。
だが誰もそれを知ることはなかった。
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