第29話 悪戦苦闘

 文江の悪戦苦闘は続く。


 早朝、暗いうちに家を出て、康郎を連れて花作りの農家に行き、乳母車いっぱいの花束を自分で選んで仕立てる。その端に康郎を乗せると、どんなに言い聞かせても、花に興味があって手当たり次第にむしってしまい、乗せて置けない。仕方なくおんぶして行けば、行くほどに三歳の重みが肩に食い込んで辛くなった。


 戦災前に住んでいた愛宕町にマリア園というカトリック系の保育園があり、文江はそこに相談して、康郎を預かってもらうことにした。家から約三キロ、学校の倍の距離に当たるところだった。


 夏休みになると、博之は昼に間に合うように弁当を作って、学校の隣の母の仕事場まで届けた。文江は午前中に花を売り歩いて、その時間にはこの仕事場まで戻りミシンを踏んでいた。午後の三時ころには康郎を迎えに行かなければならず、その役目も博之がやることになった。校庭に行き、たいがい二~三人は居る友達と遊んで、時間を見計らって迎えに走っていた。

 ある日、遊びに夢中になって、迎え時間を二時間も遅れてしまった。一人取り残された子を予定外に見てくれていたシスターに小言を言われ、オムツを汚してしまって予備もなく、汚れ物とお尻スカスカの弟を連れて、みじめな思いで夕暮れの道を帰ったこともあった。


 そんな中でも博之は、遊びの種に事欠く様なことはなかった。

 雨上がりの朝はお宮の近くの川べりで、トノサマガエルを二匹捕まえて皮をはがし、細紐で足を束ねて、両手で包むほどの石を重りにつけ、増水したにごり水の流れに放り込んでモズクガニを釣る。

 爪に毛の生えた大物を、昼前に十匹も釣り上げることがあった。晴天続きで水の減った時は、箱ビンと言った底面にガラスを張った木箱で、水中を見ながら淵の底に居る手長えびやゴリを、手製の水中銃(自転車のスポークの先を尖らせ竹筒を通して輪ゴムで飛び出すようにした)で獲った。

 照雄兄がいなくなって、大掛かりで荒っぽい川干し(初夏に水田に注ぐ小川をせき止めて、大目玉を食ったこともあった)などは出来なくなったが、以前、ダシちゃんに貰ったうなぎの穴釣り道具で、こまめに石垣の隙間を探って大うなぎをしとめたりした。

 お宮から大岩の滝まで、谷川は完全に博之のテリトリーになっていた。そうして手に入れた獲物は、ささやかな動物性たんぱく質の補給の一助には成っていた。


 そんなある日、康郎の迎えのない日で、十二分に遊んで夕方家に帰ると、そこにはすでに帰っていた母と康郎の他に、もう一人見たことのないおじさんが来て、開け放たれた窓に向かって、ちゃぶ台の前にどっかりと胡坐をかいて座っていた。

 母、文江はその時36、母である前に一人の女、いや、その前に一人の人間としても、もうこれ以上の孤独には耐えられなかった。そのことに何の不思議もない。

 博之の計り得ない世界があって、その中で出会った、心の拠りどころを共有できる相手がこの人だとすれば、博之にも康郎にも、きっと照雄にも、いなを唱える権利はなかった。

 母は、特にはなにも言わなかったが、その人は家族の一員のように夕食の席に着き、めずらしく徳利でお酒を沸かして、

「あなた、どうぞ」

と小声で呼びかけ、お酌をしていた。その人は何杯か呑んだあと

「お前もどうだ」

と盃を渡し、ちょっと意地悪そうな目をして母に酒を勧めた。しばしの後、母は薄っすらと頬を染めていた。


 次の日から、その人は家族になっていた。

 時計修理職人で、どこからか仕事を持ってきて家でそれを修理していた。博之の夏休みの宿題に、ブリキの舟の工作を教えてくれたりもした。


 その秋、一家は突然町へ引っ越すことになった。

 あまりに突然の出来事で、博之はなにがなんだか分からないまま、学校の友達やお宮の遊び仲間に、さよならも言えず別れることになってしまった。引越し先は市内のお城の西で、ある宗教団体の建物の傍らに、通りに面した小さな店があり、店の奥の一間がそれからの住まいになった。店は、その日から仕立て屋と時計屋を兼ねていた。

 博之は、山の家に何か大事なものを忘れてきている、そんな思いがそれからずっと消えなくなっていた。だがそれが何なのか、いくら考えても思い出せないのだ。

 新たな小学校に転校した初日、体操の時間に一人の生徒に悪戯で指をひねられ、抗議して止めさせた。その日の帰り、校門の前でその生徒と三~四人の仲間が待ち伏せしていた。塀の影に連れて行かれて、一対一でケリをつけろと言うのだ。

 こんなことが中学生では当たり前にあることは前にダシちゃんから聞いていた。ダシちゃんは高知中の中学生とけんかをして回り、勝てば相手の学帽を貰って帰るのだと言っていた。博之を囲んだ数人は、見届けるだけで手は出さないのが様子で分かった。やむなく博之もカバンを置いて身構えた。

 前に、ダシちゃんの従弟と同じ事をやったのがチラッと思い出された。相手が殴りかかってきた。博之が上体をそらせてよけた。その時、校舎のはずれに担任の伊藤先生の姿が見えた。博之は一歩引いて拳を下ろしていた。もともと博之に相手を攻撃する理由はない。相手は後ろから来た先生に気付かず、もう一度殴りかかりそうになったが、

「こら、何をしてるんだ!」

と言う声に、危うくのめりそうになって手を止めた。

 立ち会ったのはクラスのリーダー格の三人だった。一部始終を見ていた彼らはその顛末を先生に問われるままに答えていた。ケンカをする理由が特にあった訳ではない、相手は、新参の博之を自分より下の序列にしようと思ったらしかったが、思惑は外れたようで、その後そのことについては一切触れることはなかった。互いに痛みを与えず、恨みを残すことが無くて良かったのだ。

 先生は事情を聞いたが、特に咎めることはなく解散を命じた。三人のうちの一人、マンネンとはその後親友のような付き合いが始まる。


 そんなことの後、家に帰ろうと思ったが、いきなりのアクシデントでうろ覚えだった朝来た道がどの方向だったかまるで分からなくなってしまった。正門の前から三方に分かれる道は、どれもまだ見覚えがなく途方にくれて門前に立ちつくした。そこへ一人の女の子が寄ってきて声をかけた。同級生だと言う。博之は救われる思いでその子を見たが、そこで自分の住所を知らない事に気付いた。それでまた立ちすくむ。まるで予測していないことだった。女の子はかなり年上のお姉さんの雰囲気で世話を焼いてくれて、ようやく宗教団体の協会の名前が出て、道順を教えてくれた。

 こんな形で町子の生活が始まった。今までの山郷では五つ又から上あたりの子どもを、山子と呼び、平地の子を町子と子どもたちが面白がって呼んでいたものだ。    


 その年の暮れも大分押し迫っていた頃、家の中の様子が少しずつおかしくなってきた。母とその人との間が上手くいかなくなっているのが博之にも分かった。そしてある日、その人の姿が、フッと見えなくなっていた。

 その数日後、博之は学校から帰って、教会の敷地で遊んでいた。そこへこの教会の子どもが寄ってきた、一学年下で同じ学校に通っているその子に、たまたま独楽こま遊びを教えることになって、博之は得意の肩掛けという技を手をとって教えていた。

 木ゴマに紐を巻き、上下に振って、ヒモを肩に架け、うえに飛ばした独楽の軸をヒモで受けるのだが、何度やっても上手くできず、間の悪いことに、何回目かの時その子が思い切り振り出した独楽と博之のコマが空中でぶつかり、跳ね返ったものが顔に当たってしまった。見ると目のすぐ脇に軸の先が当たった傷が出来ていて、その子は泣いて家に駆け込んでいった。その事件が悪い方向に重なっていったことを、博之は知らなかった。


 店は、時計屋のその人が居なくなって、母の仕立物だけでは到底維持できる家賃ではなかった。その時点ですでに何がしかの支払いが滞っていたものを、その暮れに清算できる見込みも、母にはもう無かった。そのことと孫を怪我させられたことへの報復が加わったのだろう。

 その時突然教会の関係者が、何人かの人を連れてくるなり一家のものを手当たり次第に外へ放り出し始めたのだ。

 ウムを言わさぬ、あっという間の出来事で、母はただ呆然として見ているばかりであった。屈強な男たちはすべての物を放り出すと、文江の鼻先で戸を閉めて鍵をかけた。

 学期末の最後の日で、博之が帰ると母は悄然として荷物を片寄せていた。博之の顔を見て何か言おうとしたが、唇をプルプルと震わせただけで言葉にならず、その顔と放り投げられた家財を見て、博之は察するものがあってなにも言わずに手伝った。


「このままでは死んでしまうわ、付いてきなさい」

と、母は意を決したように、かたずけもそこそこに立ち上がり、康郎をオブって歩き出していた。行き先は市役所で市営住宅の空きは無いものか、駆け込んで泣きついたのだ。

 戦後の住宅事情の悪いその時期、にわか作りのバラック住宅さえ充分に行き渡らず、住宅難はまだまだ解消されていなかった。

 そこへ今夜のねぐらの相談は如何にも無理な話で、若い役人は迷惑顔でもてあましていたが、その地区の住宅管理をしている事務所を紹介してくれた。親子はその事務所へ走った。午後もすでに三時は過ぎ、空は今にも降り出しそうな雲が低く重い。

 事務所は学校の近くに在って、張り紙だらけの引き戸を開けると、一人の初老の男の人が小さな机に向かっていた。事情を話すと、じっと聞き入っていたが、やがて、

「今、空きはひとつもないがよ、けんどひとつだけ、わしが居るところの端に物置があるが、そこやったら取り敢えず雨露はしのげるが、どうじゃろか」と言った。

 一も二もなかった。何とかそこを使わせてください、と頼み込んだ。時間がないことを察してくれたその人は事務所を閉めて、直ぐに案内してくれることになった。戦争で片脚を無くしたと言う。義足の足でガチン、ガチンと音を立てながらゆっくりしか歩けない。三十分ほど歩いて、学校の東一キロほどのところの、田んぼの端に立ち並ぶ住宅地に着いた。 

 低い屋根の長屋を、十軒ほどに板で仕切っただけのバラックが、じめじめした空き地をはさんで二棟むきあっていた。間の空き地に、中抜けの小屋があって、共同の炊事場になっている。男の人はここに住みながら、管理も任されて居るのだと言って、一番奥の片側の板戸を開いた。

 そこは、長屋の端の壁に、三尺ほどのひさしを出した物置で、一応ざっとした床があり、ガラクタが積み上げられていた。ここなら、役所には内緒で使えと言う。なまじ届ければ許可されないだろう、と言った。

 頼み込んで近所でリヤカーを借りてもらい、親子は荷物を採りに走った。文字通り懸命に走る親子のうえに、空から、ちらちらと白いものが舞い降りて来た。


 南国土佐に降る雪も冷たい。

 寝ぐらを追われる母と子には、その冷たさは一入ひとしおであった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る