第18話 弟

 博之は、学校では目立たないごく普通の生徒だった。


 通学途中はおのずと地域ごとの集団が出来て、その中の一人として自然に受け入れられ、なんとなく守られていたのは、兄の存在に負うところは大きいかもしれない。が、教室ではほとんどその影響 は及ばない。野生のサルの集団に見られるように、子供同士のもつれ合いじゃれあいの中からグループ形成ができ、力関係も認識されていくもののようだが、彼はその様などの集団にも属さず、かといって自らの存在を特に誇示することもなかった。それでいて孤立している訳ではなく、すぐに誰とでも友達になれたし特別毛嫌いされることもなかった。あの米屋のたかし君とは、すぐに打ち解けて友達になったが他にも等距離の友達が数人出来たので、そんな仲間の一人でしかなかったし、といって遠ざかることもなかった。

 要するに博之は当たり障りの無い、きわめて穏便な生徒だと言えた。彼にとって学校は、充分楽しいところで、勉強も嫌いではなく普通にやってさえいれば遅れることもなかったので、毎日楽しんでいそいそと通学していた。


 そんな六月のある日、博之が学校から帰ると富美ちゃんと宮村のおばさんが来ていて、

「お帰りヒロ坊、弟が出来たぞネ、」

と、教えられた。

 部屋に上がって、ついたての向こうに廻ると延べられた布団に母が横になっていて、その横に小さな赤ん坊の顔があった。

 博之は傍に座って覗き込んだ。赤い、くしゃくしゃの顔をした、不思議な生き物だと思った。が、口には出さなかった。それは意図的にではなく、どちらかと言えば本能的に、うかつな論評を避けた、とでも言えようか。その時点では弟が自分にとってどういう存在なのかまったく分からなかったからだった。見たところ変な顔をしたサルのようで、かわいいとはとても思えない所為せいでもあった。寄りそう母のそばで眼を閉じて、時折口元を動かしもぐもぐするのを見て、そっと立ってそこを離れた。そして富美ちゃんのそばへ近ずき、

(なんだろう?)

と、小腰をかがめる彼女の耳元で

「息しゆう!」(息をしている)

と、小声で言った。

 冨美ちゃんは、クスン!と笑う。そして傍にいた宮村のおばさんに、

「ヒロ坊が、『息しゆう!』やち、」

と教えた。

「そら、まっこと、息しよらな大ごとぞね!」

と、笑いながらヒロ坊の頭を抱きしめていた。


 弟の名前は「康郎やすお」となずけられた。それが、いつどのように、誰によって決められたかは博之は知らない。又、知る由も無いことであった。ただ確かなことは、このころ「父と呼びなさい」と言われた人は、ほとんど見ることは無くなっていた。


 弟、康郎やすおが家族の一員になってから数日は、朝早くから富美ちゃんや宮村のおばちゃんが来てくれて、照雄と博之を学校へ送り出してくれた。

 兄より先に学校から帰る博之は、家に入ると待ちかねていたように母にあれこれと小さな雑用を言いつけられて、それを素直に間に合わせていた。その用事の中には、泣いている康郎をあやす事や、哺乳瓶を支えてやること、おむつを運んであげること、汚れた物を洗い場まで運んで行く事、そのほか家事の手助けは何でも言われたままにやろうとして拒まなかった。それは兄の照雄とはまるで違う博之の資質で、言いつける側に抵抗を感じさせない気安さがあって、頼みやすかったからでもあるが、現実はそうせざるを得ないぎりぎりな状態ではあったのだ。自分がやらなければ母が困る、と、そのことは博之にも充分認識できた。

 康郎という名は、その父中野康久の一字を授けられた物で、中野家の長男の証であったと聞かされた。しかし、どういう訳か博之の計り知れない世界で、何か食い違いが起こっているようで、義父は顔を見せなくなっていた。


 肉親の情は、ただ単に血がつながっていれば湧くというものではない。それは、ふれあい、感じ合い、匂いをかぎ合って、初めて濃密に交し合えるものであって、言葉や文字によって伝えられるものではなく、双方が互いに会得する、いわば極意のようなものだ。誰かから授けたり与えたりするというのは違う。

 博之が弟を弟として肉親の情を覚え始めたのは、やはりそうしたセオリーによってであった。頬を触れてぬくもりを感じ、すがりつかれて重さを知り、オムツを替えて匂いを味わったことによって、会得或いは体得した「弟の実感」は、兄照雄には、ありそうで決してないものとなっていった。それは、ふれあいの時間と形による結果に他ならない。

 照雄には父親にしかられた記憶があると言うが、博之には無い。そうした、父を知らない自分と、生まれてこの方、めったに顔を見せない父を持つ弟、康郎との相似的な負の部分を、博之は自分が補ってやらなければならないと、実は、きわめて漠然とではあるが頭の片隅で考えていた。


 母はこの時期体調は悪くなかった。しかし、康久からの経済的な支援は次第に薄らぎ、ついに得られなくなっていった。戦災以来の状況は蓄えなど思いも寄らないもので、更に身を粉にしても、と言う「身」が思うにまかせず、やさしさにすがる思いで再婚した挙句のこの成り行き。どこで何を間違えたか、と問うもせんないことであった。こうした中で、弟、康郎は取り敢えず健やかに育ってはいた。

 一方、博之もまた、学童となってこの方、日を追う毎にこれまでにない成長を始め際限のない好奇心と,向学心らしきものの芽生えによるものであったが、それらすべてが好ましい事ばかりではなかった。


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