第12話 約束

 数日がたちました。


 ヒロ坊は、滝の上のお婆さんに頼まれた約束のことが気になっていました。あの夜お母さんは、濡れたズボンを乾かしてくれたお婆さんの話をすると、

「そんな所へ近づいてはいけません」

ときつく言うので、タバコのことは言えなくなったのでした。ヒロ坊は、約束を守らなければ、と気が気ではなかったのです。

 お婆さんの名前は「オトラさん」と言うのだと聞きました。オトラ婆さんは変わり者で、ずうっと前から誰も寄せ付けないのだそうです。そのお婆さんが、

「タバコを採ってきて」

と見せた物はイタドリの葉っぱの干した物で、滝の上にはないのだと言っていました。ヒロ坊はそれを何とかして届けてやりたいと思っていたのです。


 お兄ちゃんはあの日以来学校からなかなか帰ってきません。帰りに五つ又や他の仲間のいる場所で遊んでから、日暮れの頃にようやく帰り着くのです。ヒロ坊が、オトラ婆さんのことを言っても、返事はあいまいで乗ってこないのでした。

 ヒロ坊は、もうお兄ちゃんを当てにせずに自分でイタドリの葉を集めました。お兄ちゃんと作った秘密の隠れ家に広げて干しておいたのです。

 お兄ちゃんの休みの日、ヒロ坊は朝寝坊のお兄ちゃんを揺り起こしました。お母さんは外の水屋に行っているようでした。

「ねえ、お兄ちゃんオトラ婆さんにイタドリの葉、届けに行こうよ」

と言うと、不機嫌に

「いかん!」

と言って相手にしてくれません。そこでヒロ坊は考えました。

「お兄ちゃん、僕滝へ行って見て来るき、お兄ちゃんの釣り道具貸してくれん?」

「どうするがヤ!」

「ウン、あそこで釣りよったらオトラ婆さんと遭えるか知れんき」

「そやったら持っていき」

と、お兄ちゃんはめんどくさそうに許可してくれたのでした。

 朝ご飯の後、ヒロ坊はお母さんに釣りの許可を貰いました。お兄ちゃんに教えて貰ってからこれまで何度も、一人で下の川で釣っていたので

「気をつけなさいよ」と許してくれました。


 ヒロ坊は支度をして

「いってきます」

と家を出ました。途中、下の畑のそばにある隠れ家から例のものを取って、ついでに畑の脇に積み上げた堆肥をほじくって、ハイカラミミズも取って、大岩の滝へ急いだのでした。


 大岩の滝までは近道を通ればヒロ坊の足でも三十分かかりません。滝つぼは朝日を受けて白い泡が緑に映えて輝いていました。ヒロ坊は持ってきた釣竿の糸をのばして、ハリにミミズを指して深みに入れました。

 ヒロ坊の手に掛るのは『ゴリ』と言うハゼの仲間の小魚で、洗面器の底一面が黒くなるほど釣れることもあるのです。海で生まれて五里(20キロ)川を上るから『ゴリ』と言うのだと、富美ちゃんのおじいちゃんが言っていました。

 でもこの日は釣りが目的ではなかったのです。ヒロ坊は釣糸を水に入れてから、上を見上げました。右の大岩の、この前登った木を見上げていたのです。

 ヒロ坊は眼で順に、あの枝に足を掛けその上につかまって、と登る手順を描いていたのでした。

 高いところは、どちらかと言えばお兄ちゃんより怖がらないで、家の前にある木に登って、枝先までいって揺すって遊んでいたのですが、お母さんに見つかり大目玉を貰いました。それもそのはずです。枝先のその下は真っ直ぐ谷まで何もなかったのです。お母さんは肝を冷やして、自分が後ずさりして尻餅をついていました。

 ヒロ坊はお父ちゃんの仏壇に約束したことも決して忘れた訳ではありません。でもそれは『危ないことをしません』と言う約束だったので、危なくないようにやれば大丈夫、だと思っていました。それで何度もシュミレーションをして、危なくないことを確認していたのでした。


 やがて、ヒロ坊は腹を決めて腰を上げたのです。竿を上げるとビビッと手ごたえがあってゴリが掛っていました。それを、滝のはずれの砂地にある湧き水の池に入れました。そこはいつも一時放流しておく場所でした。そして、竿に丁寧に糸を巻いて、手元の輪ゴムにハリをかけ、崖にさりげなく立てかけて隠しました。

 それから縄で縛ったイタドリを腰に巻きつけ、しっかりと準備が出来ると、崖の登り口に立って、この前、足場にした流木の根元を、少しずらして揺すってみました。ちょうどいい具合に石の間に挟まってほとんど動きません。

「よっしゃ」

と、独り言の大声を出して、ヒロ坊は登り始めたのです。

 ひと手ひと手、ひと足ひと足、ヒロ坊は懸命に慎重に登りました。たちまち岩のてっぺんと同じ高さになり、その上から横に移動しなければなりません。その横枝に移った時でした。

「こらー!ヒロ坊!待ちヤー」

と、またしても、この木の横枝で声をかけられたのでした。


「こらー!ヒロ坊!待ちヤー」 

声は下から見上げるお兄ちゃんの声でした。

「おんしゃー!またお母ちゃんに怒られるゾ」

「うーん、もう少しヤキ、まちよってー」

と、ヒロ坊はスルスルと枝先に行き、この前よりもっと先までうまくバランスをとって進み、ぶら下がって水溜りの向こうに降りました。そして滝の反対側に寝そべって顔を出し、

「お兄ちゃーん!」

と呼んだのです。

「上手くいったがか」

滝音の静かなほうへ回ったお兄ちゃんが、上を向いて言いました。

「お兄ちゃん、チョッと待ちよって、ボク、オトラ婆さんの所へすぐ行ってくるき、」

「そこまで登ったがヤキ、行ってきや、けんど、ここから戻ったらいかんヨ!」

「けんど、遠廻りやき、」

「いかんちや!絶対いかん!」

「分かった。お兄ちゃんは来ンガ?」

「一人でいてきや」

「わかった、お母ちゃんに言う?」

「言いやせんき、はョ帰りヤ」

「うん、お兄ちゃん、釣竿そこにあるよ、そこ。」

ヒロ坊はお兄ちゃんが釣竿を取り出したのを見て立ち上がり、岩上から茂みに入って行きました。


 ヒロ坊がおトラ婆さんの小屋まで来ると、中に人の気配がします。ヒロ坊は木の扉をこぶしで叩きました。

「だれぞネ」

と声がしてしばらくして扉が開き、暗い中からヌーとお婆さんの白髪頭が出てきて、ゆっくり顔を上げました。

 深いしわの彫りこまれた顔が、しばらくヒロ坊を見てやがて、ニイーと黄色い歯を見せて笑い、

「おサルの坊主かね」

と言いました。

「おトラ婆さん、ボクおサルやないき」

ヒロ坊は抗議しました。

「おお、そうかね!そうかね、よう来たネエ、まあ入り」

と言って中へ入れてくれました。

 お婆さんは何か仕事をしていたと見えて、そこらに物が散らかっています。薄暗がりに眼が慣れてくると、その中ほどに大きなザルがあって、そこに沢山トカゲが並べられてあったのです。

「おまんもひとつ食べや、」

と、お婆さんはその一匹をつまんで、ヒロ坊の前に差し出したのでした。

「ヒーヒーヒッ!」

とオトラ婆さんは笑いました。

「ひとつ食べやー」と出されたトカゲのようなものを見て、入口まで飛び逃げたヒロ坊のあわてぶりがよほど可笑しかったのでしょう。

 しばらく扉につかまって様子を伺っていたヒロ坊は、やがて恐る恐る近寄って、

「これ、ナニ?トカゲ?」

と聞きました。

「これかえ、これはお婆の命の元よ」

といって、光にかざして見せるのです。黒い干からびた胴体は、ヒロ坊の中指ほどの大きさで足が四本有ります。家の周りで時々見かけるトカゲと同じだと思いました。それが食べられるとは思いもしないことでした。

「これはねや、この沢のここから上におるがジャ、下にはおらん」

と言って、オトラ婆さんは大事そうに、それをまたザルに戻したのです。

 われに返ったヒロ坊は、腰に縛り付けた縄を解いて、持ってきたイタドリの葉っぱをお婆さんに渡しました。少し気味が悪くなって、早く帰りたくなっていたのです。

「おおきに!おおきに、コリャたまらんぜよ」

と、オトラ婆さんはとても大げさに見えるほど喜んでくれたのでした。

「ボク、かえるき」

と出ようとした時、オトラ婆さんが呼び止めました。

「坊!名はなんてがや?」

「うん、みんなヒロ坊ってよぶが」

「ヒロ坊か、ヒロ坊これもっていき」

オトラ婆さんは寝床の後の小棚から何か取って渡しました。ヒロ坊は受け取ってちょっと見ると、それは小さな石でした。

「うん、これなに?」

五センチほどの平たい石で、なにやら模様が見えました。

「お婆が見つけて、とっちょったがよ」

「ありがとう、おおきに、ほんなら帰るき」

と、それをポケットに入れて別れを告げ、ヒロ坊は走り出していました。

 草原の先で大岩の上に出る小道と、東の土佐山道へ出る小道に分かれます。大岩はすぐ近くです。ヒロ坊は右へ曲がって大岩の上に出て滝つぼをのぞいて見ました。そこにはお兄ちゃんはもういませんでした。

 ヒロ坊は一瞬迷いました。ここから降りればほんの三十分で家に帰れるのです。でもお兄ちゃんと約束したことだし、頭の上の枝先は飛び上がっても届きそうにありません。

 あきらめたヒロ坊はいま来た小道を一散に走り出していました。土佐山道に出て見晴らしの良い所から村のほうを見ると、西の土佐山道の下に平川さんちの近くの、村一番の鍛冶屋の白い石垣が見えて、手前にお宮の大杉のてっぺんが足元に見えていました。


 その夏のことでした。

 お兄ちゃんは夏休みになっても、学校の仲間が沢山いるのでなかなかヒロ坊と遊んでくれません。朝から誰かが下の道から「テカッー」と呼ぶのです。名前が照雄なので、テカテカや!と学校で付いたあだ名なのです。ついでに言うと、お兄ちゃんの仲間はみんなあだ名で呼びあっていました。

 二つ大きい大将が「ダシちゃん」本名はタダシというのだそうです。そのほかコブに、デコ、エッポ、アキヤン、キョウベー、と、ヒロ坊が聞いているだけでも、ちゃんと名前らしく呼んでいるのは、お清ちゃん、ぐらいしかいませんでした。そんな二、三人がいつも下から「テカー!」と呼ぶと、お兄ちゃんは飛び出していってしまうのです。

 仕方なくヒロ坊は、いつもお宮まで一人で遊びに行きました。お宮の境内は涼しい木陰で、近所の小さい子どもがよく遊びに来ていました。四~五人は女の子でヒロ坊より大きく、男の子はチョットと小さい子が3人いつもの顔ブレで遊んでいたのです。



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