第32話 空の旅

――しょーちゃん、て、はなさないでね!?

――う、うん。いちかこそ、はなすなよ!?

 子どもの頃、そんな風にお互いの手を握り合いながら、支え合いながら、俺たちは観覧車から下を見下ろした。

 落ちたらひとたまりもない高さ。少し動くだけで揺れるゴンドラ。

 初めての時は、景色を楽しむなんて殆どできなかったと、改めて思い出していた。

「ねえ、しょーちゃん」

 対面に座った、すっかり大きくなったいちかが俺を呼ぶ。あの頃と同じ、幼い呼び方で。

「今日、楽しかった?」

「ん、ああ」

「真剣に聞いてるんだけど」

「こっちだって別にふざけたつもりはないけど……真剣に、楽しかったよ」

 彼女の目を真っ直ぐ見て、ちゃんと答える。

 すると今度は納得してくれたのか、どこか照れくさそうに少し目を細めながら、「あたしも」と頷いた。

「あたし、やっぱりしょーちゃんと一緒にいるの、好き」

「なんだよ、いきなり」

「今日はそれを確かめたかったの。先輩と一緒にいるときは、そりゃあ楽しかったけど、やっぱりしょーちゃんと一緒の方が楽しいって思った。でも、隣の芝生は青いって言うでしょ? しょーちゃんと一緒にいたら、逆に先輩との方が楽しかったって思うかもしれないじゃん。まあ、もう告白ははっきり断っちゃったから、後悔しても遅いんだけどさ」

 いちかはそう苦笑する。

「それで、どうだったんだよ」

「うん。今日はさ……やっぱりしょーちゃん以外の人は、誰も浮かばなかった」

 いちかはそう、窓の外を眺めながら答えた。

 ……たぶん、嬉しいと思ってしまうのは間違いなんだろう。

でも、妙に気恥ずかしくて、俺も彼女から顔を逸らしてしまう。

「……そっか」

「うん、そう。……しょーちゃんは?」

「俺は……俺は、最初からいちか以外いないから」

 誰か思い浮かべるような人がいるか探そうとして、すぐに諦めた。

 もちろん家族や友達、仲が良く、大切な存在というのはありがたいことに何人かいる。

 けれど、誰かと一緒に遊んでいて、急に比較してしまうような……そういう感じじゃない。

 でも、もしも俺がいちか以外の、同年代の女の子と二人きりで遊びに行ったら……「いちかとだったらこうなのに」と比較しない自信はない。

 たぶんそれは俺にとって、いちかが隣にいるのが当たり前だからだ。

「えへへ、そうだよねぇ」

 いちかはしたり顔と照れ笑いの中間のような、曖昧だけれど嬉しそうではある表情を浮かべつつ、対面から横へと移動した。

 四人がけのゴンドラに、高校生が二人。

 狭くはないけれど、重心が傾いて少し不安定になった感じがする。

 隣に座った彼女が俺を見ると同時に、俺も彼女に顔を向けた。

「ね、しょーちゃん。気付いてる? 前後のゴンドラさ」

「ああ、誰も乗ってない」

 だから、ここで俺たちが何をしたって、誰にも見られることはない。双眼鏡で見張られでもしていない限りは。

 普通の暮らしの遙か上空。両サイドには鮮やかな町並みの景色が広がっている。

 開放的でありながら閉鎖的なこの小部屋で、何をしたって……。

「しょーちゃんってば、えっちな顔してる」

「そんなのお前だって」

「そうだね……そうかも。だって今日、昨日……一昨日からずっと我慢してるんだもん。でもね、この間ほどの衝動に襲われてるって感じじゃないんだ」

「まあ、一日短いからな」

「それもあるかもしんないけど……でもちょっと違うかな」

 いちかはそう言って、自分の胸に手を押しつけた。

「あたし、ドキドキしてる。したいのに、するのが少し怖いくらい」

「……少し分かる」

 ここ最近、特に思う。

 いちかは、そりゃあ中学時代も注目を集めていたけれど、特に高校生になってからモテるようになった。

 冷静に分析すれば、普通に美少女の部類だけれど高嶺の花というほどじゃない。気安い性格で近づきやすい。そんなところが余計にそうさせるんだろう。

 いつかいちかは別の誰かと一緒になる。そして俺からは離れていく。

 それは分かってる。受け入れている。彼女が幸せになるためなら、俺とずっと一緒にいてほしいなんて、そんなことは思わない。

 けれど、一番怖いのは――。


 いつか、俺がそういう意味でいちかを好きになってしまうかもしれないこと。

けれどいちかは俺にそんな気持ちを向けないままなことだ。


 もしも俺にいちかを独占したいという欲望が生まれてしまったらどうすればいいんだろう。

 今はまだ、そういう気持ちはない。けれど、絶対にいつまでもこのままなんて確信もない。

 いちかはきっと、どんどん綺麗に、可愛くなっていく。

 そんな彼女の一番側にいて、毎日キスだってして……それで好きにならないでいられるんだろうか。

いくら生まれたときから一緒にいる家族のような存在でも、本当に血が繋がっているわけじゃないんだ。


(こんなこと、考えたくないのにな……)


 いちかが別の誰かと手を繋いで歩く。

 その姿を見て、嫉妬に狂う自分……そうなったら最悪だ。俺という幼馴染みはいちかにとって害でしかなくなってしまう。


 だから、いちかをそういう目では見ないと決めていた。今は意識したって恋愛感情は持てない。

 ならば一生、そうであるよう意識的にも考えることを避けてきた。

 ただ……この空気は、その避けてきた懸念を思い出せるものだった。


(いちかの怖いは、きっと違うんだろうけどな……)


 心の中で自嘲しつつ、彼女の目を見返す。

 その奥に揺らめく感情が、俺には分からない。人の心なんて読めるはずもないが、いちかのことなら大体分かるつもりだ。

 けれど今は、その大体に当てはまらない。

 ただ、覗き込んでいるといつか吸い込まれてしまいそうな……そんな怖ろしさがあった。


「……しょーちゃん、見て」


 不意にいちかが視線を逸らす。

 俺から窓の外に、外の世界へと目を向ける。


「もう天辺だよ」

「……そうだな」


 ほんの少しの寂しさを覚えつつ、彼女にならって外の世界を見た。

 青々とした海が広がっている。まだ夕暮れ時には遠いけれど……昼の光に照らされたこの青も十分見とれるに足るものだ。


「……っ」


 いちかの頭越しに海を見ていると、不意に、喉をごくりと鳴らす音が聞こえた。

 けれど、それに思考を向けるより先に――


「ん……っ」


 いちかが振り向き、唐突にキスをしてきた。

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