第13話 ドラゴンの母
これは……?
ふとした瞬間、全身を覆うように不思議な感覚が襲ってきた。
それは、はっきりとした痛みや重さではなく、心の奥底に染み込むような、どこか懐かしさを伴う違和感だった。まるで身体そのものが軽くなり、現実から切り離されたかのような感覚だった。
頭の中で何かがざわめき、目の前の景色が一瞬ぼやけて揺らぐが、しかひその感覚に覚えがあった。
以前、ブラックホーンがパシパエになったあの瞬間と同じだ。
何かが入れ替わるような、不自然なずれが生じるような、まるで自分の存在が他の誰かにすり替えられるような錯覚で、意識がふわりと持ち上がり、自分自身がどこか遠くにいるような感覚が全身を包み込んでいく。
不思議な感覚が漂う中、俺は夢を見た。
それは、言葉にできないほど悲しい夢だった。
目の前に立つのは、赤い髪をした女性。涙が頬を伝い、彼女の目からは絶え間なく涙がこぼれ落ちている。
彼女が泣き叫ぶ声は、まるで爆音のように耳をつんざき、その悲痛な叫びが空気を震わせる。
周囲には、血のように赤い炎が激しく燃え盛り、空気は熱く、息をするだけで胸が苦しくなる。
燃え上がる炎が、まるですべてを焼き尽くすかのように周囲を包み込んでいき、その炎は、女の涙と対照的に冷徹なまでに強く、無情に揺らめいていた。
「どうして、こんなに悲しんでいるんだ?」
その問いをかけると、彼女は首を横に振り、冷たく答えた。
「悲しんでいるんじゃない……私は、憎んでいるのよ。」
その声は、低く、渦巻くような怒りに満ちていた。突然、足元の大地が震え、まるで地面さえも彼女の怒りに反応するかのように揺れる。
「どうして、そんなに怒っているんだ?」
思わず再び尋ねると、彼女は赤く染まった目で鋭く俺を見つめ返し、強い口調で言い放った。
「どうしてって!? 奪われたからよ!!」
その言葉は、俺の胸を貫くように響いた。焦げた空気、焼け焦げた大地、そして炎の中で激しく舞い散る灰が、俺の視界をぼんやりと覆っていた。
「奪われた? 何を?」
俺が問うと、彼女は顔を上げ、深いため息をついた。その顔には、深い憎しみと怒りが浮かんでいた。
「私の子よ!! あいつは、私の子を奪ったのよ!!」
その言葉とともに、彼女の目から放たれる紅蓮のような炎が、さらに激しく燃え上がる。その炎は彼女の体を包み込み、次第にその姿が変わっていく。
彼女の背中からは、巨大な真紅の翼が広がり、周囲の炎さえも一層激しさを増した。
「私の子供は、ミノスに奪われたのよ!! 魔神の怒りを鎮めるために、殺されたのよ!!」
彼女の体が、まるで焦げた木が爆ぜるようにひび割れ、鱗が舞い散り、次第に人間の形ではなくなっていく。怒りに染まったその体が、全身を覆う鱗とともに、女性は真紅のドラゴンへと変貌した。
「私を見て、見てよ!! ここにいる全てを焼き尽くしてやる!!」
彼女の声は、もはや人間のものではなく、爆音のように轟き、空間を震わせる。炎がその言葉を受けて、一層激しく燃え上がり、周囲の世界を赤く染め上げる。
その瞬間、炎に包まれた空間で、俺の身体は震え、心臓が鼓動を速めた。熱くて息が詰まりそうで、目の前の光景が次第にぼやけ、煙と熱気が充満する中、ただ立ち尽くすしかなかった。無力さが、冷たい手で心を掴んで離さない。
しかし、その時、俺の胸に感じたのは、恐怖だけではなかった。無意識のうちに、俺は彼女の方に一歩踏み出していた。
「……お願い……落ち着いて。」
言葉が自然に出た。恐怖や焦りとは裏腹に、心の中で彼女を支えたかった。
そのとき、炎の中にあった彼女の目と俺の目が合った。
彼女の赤い瞳は、一瞬だけ、まるで本来の姿を取り戻すかのように静まり返った。
だが、すぐにその瞳は再び激しく燃え、燃え盛る怒りの炎を宿す。それでも、俺はそれに怯むことなく、ゆっくりと彼女に近づいた。
「お前の痛み……俺が受け止めるから。
だから、安心して……」
俺はそのまま、彼女の腕を優しく掴み、無理にでも抱きしめた。燃えるような熱が伝わるが、その熱の中で、俺は力を込めて彼女を抱きしめ続ける。
「大丈夫……お前の怒りも、悲しみも、全部俺が受け止めるから。」
俺の声が、炎の轟音にかき消されそうになる。でも、俺は彼女を支えようと、ただ優しく彼女の背を撫でた。
彼女の動きが少しずつ、ゆっくりと収まっていくのを感じ、激しい震えが、彼女の体から少しずつ抜けていく。
すると、何かが変わった。その熱を帯びた体から、次第に炎が引いていき、真紅の鱗が少しずつ消えていく。
翼も、炎を消すようにふっとしぼみ、彼女の体が再び人間の姿に戻っていく。
赤い髪がゆっくりと落ち着き、目元にはかすかな涙が浮かび、ドラゴンの姿だった彼女の面影が、静かな優しさを取り戻していく。
「……ごめんなさい。」
彼女の声が、小さく震えていた。まるで、あの激しい怒りと苦しみが、俺の腕の中で少しずつ静まっていくようだった。
「大丈夫だよ。」
俺は静かに、彼女の頭を撫でながら、再びささやいた今度は、優しく、温かく。
彼女の目が、まだ少し赤く染まっているが、その瞳にはもう、あの恐ろしい怒りの炎はなかった。
彼女は静かに、顔を上げ、深く息をついた。その姿に、ようやく少しずつ安堵の色が浮かび、目の前に広がる炎の残り火も、今はただ小さく揺らめくだけだった。
やがて炎は、静寂と共に暗闇の中に消えていく。
__________
……はっ!!?
そのとき、俺の思考は一筋の光が射すように、突然、夢から覚めた。胸の中にはまだ冷徹な炎の感覚が残り、息が荒く、汗が額に浮かんでい
頬には涙が伝い、心臓はまだ激しく鼓動している。
俺は一体、何をしたんだろう……
意識が遠のく寸前、俺は釈迦の新たなスキルを使った気がする。しかしその後のことは、はっきりと覚えていない。
あぁ、ダメだ……。
いつものように頭がうまく回らない。体調が悪いのか、それとも発熱しているせいか、頭の中が、モヤがかかったようにぼやけている。
それでも、何故か心地良さも感じる。まるで母の胸に抱かれているような、温かく、柔らかな感覚が全身を包んでいた。
「……海のように優しい子よー、ミノスの白い心の持ち主よー。」
その時、詩を奏でるような美しい歌声が、優しく響いてきた。どこかで聞いたことがあるような、懐かしい声だ。
この歌を聴いていると、混乱していた思考も徐々に整理がついていく。
あぁ、そうだ……思い出した……
これは母ドラがよく歌ってくれた歌だった。この歌を聞くと、不思議と心が安らぎ、夜泣きも収まる。あの夢も、いつの間にか忘れてしまうほどに、心が穏やかになった。
「起きたかしら、坊や……」
包み込むような優しい声が、耳元でささやかれる。その声を聞いて、俺はゆっくりと目を開けた。
ーー視界がぼんやりと定まる。
すると最初に見えたのは、見知らぬ女性の姿だった。
「え……?」
パシパエではなく、容姿も雰囲気も全く違う女性だった。彼女は、まるで天使のように、柔らかい光に包まれて座っている。丸い癖毛を帯びた真っ赤な長髪が、肩にかかり、鮮やかな色を放っている。
まるで血のような深い赤だが、どこか温かみを感じさせ、その瞳は、まるでルビーのように輝き、深い奥行きを持っていて、優しく静かにこちらを見つめていた。
その目を見た瞬間、なぜか胸の奥に安心感が広がる。怖さや不安のかけらも感じさせない、ただひたすらに優しい光だけが、そこにあった。
「坊やは、キョトンとした顔も可愛いわね。」
彼女の声は、まるでオペラ歌手が歌うように澄んでいて、その響きが耳の奥に深く残った。
「リシュア……ママの宝物よ。」
輝く優しい笑顔でそう言う、彼女。その言葉が、脳裏に強く響き渡り、心の中に不安と疑問が、一気に湧き上がった。
まさか……!?
その瞬間、全身を駆け巡ったのは、どこか懐かしくも奇妙な感覚。
デジャヴだ……!
あの時の夢が、まるでこの瞬間のことのように蘇ってきた。パシパエがブラックホーンだったとき、あの不安げで混乱した空気と、どこか似ている。
「ドラゴンのママ……?」
思わず口に出てしまった、その言葉。そして、彼女の口元に柔らかな微笑みが浮かぶ。
「そうよ、リシュア……あなたのママよ。」
その言葉には、どこか温かさと優しさが、込められていて、思わず安心してしまいそうになる自分がいた。
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