第20話

 篠原が服役している間。瑞輝は何も手が付かなった。

 生きていることとイコールだとまで言っていた絵を描くことにすら向き合えない。

 一日一日がひたすら長く、永遠に一年後が訪れないのではないかとさえ思ってしまう。

 そんな瑞輝を見かねてか、誠志郎は頻繁に連絡をくれていた。

 携帯が鳴ったので、瑞輝は電話に出た。

 「はい」

 『食事に行かないか?』

 電話の相手は、誠心会総長である財田誠志郎その人だった。

 「誠志郎さん……」

 『どうせ、また何も食べていないんだろう?』

 「そんなこと、ないんですけど……」

 『嘘言うなよ。坊やが一人でメシ食うわけがないだろう』

 誠志郎は決めつけたが、それは間違いではなかった。

 確かに、瑞輝は先日誠志郎と一緒に食事をして以来、何も食べていなかった。

 『坊やの身に何かあったら篠原がキレるぞ。好きなもの食べさせてやるから、とにかく出ておいで』

 「……はい」

 一人でいたくない瑞輝は誠志郎の誘いに乗った。

 マンションの下まで降りると、もう見慣れた高級車が停まっている。運転手がドアを開けてくれたので、礼を言って乗り込むと誠志郎がそこにいた。

 「いつも誘ってくださって、ありがとうございます」

 「坊やに飢え死にでもされたら、篠原に面目立たないからな」

 誠志郎は笑った。

 「坊やはとにかく、篠原に心配かけないようしないとな。あいつがいない間は、俺が篠原の代わりだ」

 あれだけ篠原と切れろと言っていた誠志郎だったのに、最近はまったく言わなくなっていた。

 篠原の代理だと本人が言うように、何かと言えば瑞輝を食事に誘ってくれる。

 味さえ良ければ店構えに頓着しない篠原とは違って、誠志郎が瑞輝を連れて行くのは高級店ばかりだ。

 「何食べたい?」

 「俺は、何でも……」

 瑞輝の返答に誠志郎は微笑う。

 「じゃあ、お任せでいいか……坊や、和食好きだよな。前に行った店でいいか?」

 「俺は、ホントに、どこでもいいんです」

 その結果。

 連れていかれたのは料亭だった。

 一皿ずつ運ばれてくる美彩な料理は見た目も美しく、味も良かった。

 誠志郎は食事も摂るが、何よりアルコールを好むらしく、今日も水のように冷酒を飲んでいる。

 瑞輝の前にも冷酒の入ったガラスの盃が置かれているが、彼はほとんどそれに手を付けない。

 人見知りの瑞輝が誠志郎の誘いを断らないのは、誠志郎と時間を過ごしていると、瑞輝も少しだけ気がまぎれるからだった。

 それに、誠志郎から聞かされる篠原の近況は、瑞輝にとって重要な情報だった。

 「篠原さんはどうしていますか?」

 「何も変わったことはないよ。ちゃんと模範囚をやってる。中で問題を起こしたら、出所が延びるからな。篠原もそれは重々承知しているだろう」

 「そうですか……」

 瑞輝には想像もつかない刑務所での生活。

 「俺は、服役したことがないから、中の様子はよく知らないんだよ。まぁ、総長が服役してるようじゃ、組もお終いだけどな」

 「そういうもんなんですか?」

 「ああ。今は暴対法が改正されて、使用者責任なんてものがあるが、それでも親を守り切るのが子分連中の大義だ。第一、うちは素人さんに迷惑かけないってのが一番だしな。先だっての一件だって、坊やにはいい迷惑だっただろうが、うちの力をよそに見せつけるいい機会になった。当分はうちにケンカ売ってくるバカは出てこないだろう」

 「俺にはよくわからないけど、篠原さんが危ない目に合わないなら、それが一番です」

 瑞輝のこの言葉に誠志郎は微笑う。

 「まったくだ。平穏が一番いいよな。のんびり食事して、飲んで。一年も酒もタバコもダメだなんて、俺に服役は無理だな。そのうえ、食事がまずいときている」

 誠志郎が本当にイヤそうに言ったので、瑞輝は思わず笑ってしまった。

 「コンビニ弁当よりまずいんだぞ?篠原もああ見えてグルメだからな。相当こたえてるんじゃないか」

 誠志郎のこの言葉に瑞輝は真顔になる。

 「篠原が出てきたら、また付き合ってやってくれ」

 誠志郎はふわりと微笑う。

 「俺でも坊やと食事してると楽しいんだから、篠原からしたらもっと嬉しいんじゃないか?」

 「俺も……篠原さんと出かけるのはすごく楽しいです」

 「篠原が聞いたら喜ぶよ」

 「そうでしょうか?」

 篠原には迷惑をかけた記憶しかない瑞輝が問う。

 「当たり前だろう。坊やが攫われた時の篠原ときたら、とても見ていられなかった。ほとんど寝てもいなかったんじゃないかな」

 「俺……正直言うと、まさか篠原さんが助けに来てくれるとは思ってなかったんです。だって、もう二度と自分とはかかわるなって言われてたし……」

 瑞輝の言葉に誠志郎は微笑う。

 「篠原がそう言ったのは、それが坊やのためだと思ったからだ。俺も口を酸っぱくして坊やとは切れろって言ってきたからな。俺が恐れていた通り、素人さんの坊やを巻き込んでしまった」

 ふっと、誠志郎はため息を落とした。

 「まったく、素人さんを巻きむなんて、な。坊やにはどんなに詫びても足りないよ」

 「そんな……俺がちゃんと気を付けてなかったから、あんなことになったんだし……」

 「素人さんがそんなこと、言うもんじゃない。表の社会で気を付けて生活する必要なんかないんだよ」

 「でも……」

 「本来ならな、俺らみたいな裏社会と坊やの住む表の社会は混ざっちゃいけないものなんだ」

 誠志郎は静かに言う。

 「だからこそ。俺はずっと坊やに篠原と切れと言っていただろう?」

 確かにそうだった。

 だが、近頃誠志郎はそういうことを言わなくなっていたので、それも瑞輝には不思議なことだった。

 「あの……誠志郎さんは、最近はそれ、言わなくなりましたよね」

 「言っても無駄だとわかってることを言い続けるほどの気力はないからな」

 誠志郎は微笑う。

 「坊やはいくら言っても、篠原の元を離れる気はないんだろう?」

 「はい……篠原さんが俺のことが邪魔だと言わないなら、ずっと一緒にいたいです」

 「それが不思議なんだよな。所詮あいつはヤクザで、坊やはどうしたってカタギの人間じゃないか。なんでそんなに篠原にこだわるんだ?」

 「俺は……篠原さんみたいに優しい人に会ったことがありません。いつもいつも、俺のことを気遣ってくれて。篠原さんに会えてなかったら、俺は入選作を描くこともできなかった。俺は何の役にも立たないどころか、足を引っ張ってしまったのに、篠原さんは助けに来てくれた。俺は、篠原さんには感謝しかありません。篠原さんの存在を無視して、所詮世界が違うんだって切り捨てて、自分一人新しい世界には行けません」

 「なるほど……ね……」

 言って、誠志郎は冷酒の入った盃を干した。

 「坊やに取っちゃ恩人ってか?」

 「はい」

 篠原の気持ちを知っている誠志郎からすれば、いっそ篠原に同情したくなるような話だ。

 「誠志郎さん?」

 「いや、なんでもない」

 「……」

 「なあ、坊や。篠原に会いたいか?」

 「もちろんです」

 瑞輝は即答した。

 面会になんか来るなと言われていなければ、瑞輝は毎日でも面会に行っただろう。

 しかし瑞輝は篠原が収監されている刑務所がどこなのかも知らない。

 それを思って気持ちが暗くなった瑞輝に誠志郎が言う。

 「淋しそうだな、坊や」

 「淋しいって言うか……俺のせいで篠原さんが不自由な思いしてるから、気持ちがふさいじゃって……」

 「自業自得だよ。俺は坊やを助け出す前に、篠原には言ってあったんだ。絶対に手を出すなってな。仮にも総長命令だぞ?それを無視した。本来なら破門だよ」

 「誠志郎さん……それは……」

 「俺はそうしてやるのが、結局は篠原のためなんじゃないかと思うよ。だが、坊やが言うように今更篠原にカタギは無理だってこともわかる。結局のところ、俺も甘くできてるわけだ」

 誠志郎は微笑った。

 「俺も、望んで総長の座についてるわけじゃないが、仮にも親分子分だからな」

 「相手の方が、年が上でも?」

 「うん。立場上、俺はうちの傘下の連中の親なんだよ。結婚もしてないのに、子供だけは山ほどいるわけだ」

 誠志郎は軽口をたたいた。

 瑞輝も微笑う。

 「子供がたくさんいるんですね」

 「まったくだ。全然かわいくもないおっさんでも俺の子供だってんだから、割り切れないよな」

 「誠志郎さんは結婚しないんですか?」

 「結婚かぁ……俺の場合は政略結婚になるんだろうな……」

 「え?」

 「どこか、関東以外のどっかの地方の割と大き目なヤクザの娘とかと結婚するかもしれないな」

 誠志郎はまた、くいっと盃を干す。

 「そんな……会ったこともない人と?」

 「坊やは坊やだな。俺みたいな立場になれば、結婚なんか好き嫌いでするもんじゃないよ。まぁ、相手がヤクザじゃないにしても、陰陽師の方で血筋を残せとか言われそうだしな」

 結婚とは、双方が思いあってするものだと思っている瑞輝には驚くべき言葉だった。

 「……坊やはホントにいい子だな。ホントに、世の中の汚いとことか見ずに過ごしてきたんだろうなって、そう思うよ。だけど、世の中なんてものは、所詮汚いものだ」

 「……」

 「まあ、坊やにそれを分かれっていう気はないよ。それに、坊やはいつまでもそのままでいてくれ。それが篠原の望みだろう」

 「あの……そろそろ、一年になります。篠原さんは、まだ……?」

 「どうかなあ……篠原は素人じゃあないし、刑期の短縮はないだろうしな。もう少しかかるだろう」

 「そうですか……」

 瑞輝がふっと息を吐くと、誠志郎は慰めるような笑みを浮かべた。

 「まあ、奴もプロのヤクザだ。素人の坊やが心配するようなことにはならないよ」

 「あの……」

 「どうした?」

 「手紙を書いてきたんです」

 瑞輝は横に置いていたかばんから手紙を取り出した。

 「坊やは俺と会うたびに篠原に手紙を書いてくるな」

 「面会にも行けないし、せめて手紙だけでもって思って……」

 「俺が言ったことは守ってるか?」

 「もちろんです。名前とか、個人が特定されるようなことは何も書いていません」

 「いい子だ」

 誠志郎は言って、手紙を受け取る。

 「篠原には返事を書くなと言ってあるから、返事はないけど、ちゃんと篠原の手には渡っているから安心してくれ」

 「はい……誠志郎さんのことは信用していますから」

 その素直さこそが瑞輝の美点なのだろう。

 本当に、素直で真っすぐで。

 どちらの仕事でも、歪みまくってる連中ばかり相手にしている誠志郎からすると、本当にホッとする。

 彼が瑞輝を気にかけているのは篠原のこともあるが、誠志郎自身が瑞輝に会うことで気が休まるからだった。

 篠原も、もしかすると瑞輝のこの伸びやかさに魅かれているのかもしれないな、と思う。

 しかし、この伸びやかさに魅かれてしまえばヤクザは終わりだろう。とも思う。

 一方で瑞輝はと言えば、長すぎる篠原の不在に気が滅入っていた。

 篠原は今どうしているのだろうか。

 瑞輝が書いた手紙を読んでくれているのだろうか。

 不安が表情に出たのか、誠志郎は微笑った。

 「読んでるに決まっているだろう。宝物にしているさ」

 見抜かれて、瑞輝は顔を赤くした。

 どうして篠原にしても誠志郎にしても、瑞輝の心が読めるのだろうか。

 そう思った心の内も見抜かれてしまう。

 「坊やが素直だからだな。思ったことが全部顔に出ている」

 誠志郎が笑って言ったので、瑞輝は顔を赤くしたまま、自分はそんなにわかりやすいのだろうかと思っていた。

 「ところで坊や、仕事の方はどうだ?」

 「えっと……」

 「うまくはいってないようだな」

 誠志郎は瑞輝の表情だけで、瑞輝が迷っていることを悟った。

 「何か、気が逸れちゃって……」

 「篠原は、坊やが絵を描いてるのは眺めているのが好きらしいぞ」

 「そうなんです」

 瑞輝は静かに口を開く。

 この話は何度も誠志郎には話したことがあった。

 「篠原さんはいつも俺が絵を描いてるのをすごく優しい目で見てくれていて……俺、それが当たり前になっちゃって、絵を描かなきゃいけないのに、全然その気になれなくて……」

 「そうか……」

 「俺、自分で思っていた以上に篠原さんに依存してたみたいです」

 「篠原が聞いたら、涙流して喜ぶだろうな」

 「まさか。お前も一人前の男なんだから、しゃんとしろって怒られると思います」

 誠志郎はそれに対して何の論評もせず、手酌で冷酒を注いで、くいっと飲み干した。

 「食えよ、坊や。坊やに栄養失調で倒れられでもしたら、親を親とも思わない篠原に俺が逆ねじ食らわされる」

 「あ……はい……」

 瑞輝は卓に並んだ皿の一つに手を付ける。

 「篠原は、本当に坊やのことを思っているんだな」

 「何で俺なんかをそんなに大事にしてくれるのか、俺にはわからないですけど、本当に篠原さんにはよくしてもらって……」

 こと、ここに至っても、篠原の恋心に気づかない瑞輝はいっそ見事なものだと思える。

 「まあ、そういう縁だったんじゃないか」

 「俺にはすごくラッキーだったんですけど、篠原さんにはいい迷惑ですよね」

 「何言ってるんだよ、坊や。篠原にとっちゃ、坊やは自分の命より大事な存在だよ」

 「なんだって、そんなに俺のことを大事にしてしてくれるんでしょう」

 「篠原に会ったら直接訊くんだな」

 「篠原さんに会いたいです」

 「会って、どうする?」

 「どうって……」

 「まあ、篠原は出所したらとにかく坊やに会うのが一番だろう。坊やもこうして奴を待ってる。篠原が出所して、会って、どうするんだ?」

 「どうって……俺は、今まで通りです。朝起きて、一緒に朝ごはん食べに出て、俺がスケッチブックに絵とか描いてるのを篠原さんが眺めてて、夕方食事に出かけて……篠原さんがそうしてくれるなら、今まで通り、そのまま……」

 「それが坊やがやりたいことなのか?」

 「はい」

 「なるほどねぇ……」

 誠志郎はタバコに火を点けて深く吸い込む。

 「篠原が出るときは連絡するよ。もう少し、待ってな」

 「はい、お願いします。誠志郎さん……」

 瑞輝にとっては、篠原にしろ誠志郎にしろ、ヤクザだと世間で言われている人間であっても、彼に危害を加えることはないので怖くはない。それどころか、瑞輝を精一杯気遣ってくれる、とても大切な相手だ。

 特に篠原は、最初の出会いから考えれば、ありえないほどに優しい。

 今も、誠志郎は瑞輝を気遣って言ってくれる。

 「ちゃんと食えよ」

 「あ、はい……」

 誠志郎も、ほとんど接点がなかったにもかかわらず、こうして優しくしてくれる。

 自分は本当に恵まれているのだろうと思う。

 「なあ、坊や」

 「はい」

 「坊やは篠原のこと、好きか?」

 「ええ」

 「……そうか」

 好きだと、そう言う瑞輝の言葉は迷いがないだけに、篠原の気持ちが通じているとは思えなかった。

 愛や恋では絶対にない。

 きれいきれいで篠原を好きだと言う瑞輝。

 誠志郎は二人の行く末を思って、黙って盃を干した。

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