第4話
篠原は瑞輝が中華粥を食べ、篠原がつまみに頼んだエビシュウマイを食べたので、瑞輝の食欲が出てきたことを見越して、追加オーダーをする。
「エビチリと……瑞輝。春巻き好きか?」
「うん、好きだよ」
「わかった。じゃあ、エビチリと、春巻き。あと、空心菜の炒めたのも出してくれ。あと、俺にビール頼む」
篠原は店主にそうオーダーした。
「空心菜?」
「お前、まだ本調子じゃないだろ?あんまり肉とか食わねぇ方がいいぜ。それにしてもよ……かれこれ半年になるか?お前がうちに来て……よ」
「そうだね。夏の終わりだったもんねぇ……もう、冬だよ」
「半年も一緒に暮らしてて、メシも一緒に食ったことなかったもんな」
「生活パターンぜんぜん違うもんね」
篠原はヤクザ稼業のためか、出掛けるのは夕方からだ。帰りは明け方近いし、瑞輝が寝入ってから戻って来ているようだ。
瑞輝の方はと言えば、朝はキチンと起きるし、コンビニに食事を買いに行って食事をしてから、あとはずっとひたすらにスケッチブックを開いてデッサンをしている。これはというデッサンが描ければ、直接キャンバスに向かってしまう。そうなると瑞輝は外界に一切興味が無くなる。食事どころか水を飲むこともなく、一心不乱に絵を描いている。
瑞輝にとってありがたいことに、その状態の彼には、篠原はあえて声をかけないようにしてくれているらしく、気が付くと丸一日キャンバスに向かっていたこともあった。
そんな瑞輝と篠原に接点があるはずもなく、半年も同居していたにもかかわらず、一緒に出掛けたのは今日が初めてだった。
「まあなぁ。お前はちゃんとしてるもんなぁ」
「俺がちゃんとしてるかどうかは置いといてさ、篠原さんっていっつも誰か連れてるもんね」
「好きで連れてるわけじゃねぇよ。俺はこれでも一応、龍沼組の若頭って立場だからな。一人でウロウロはできねぇんだよ」
「若頭って、偉いんだよね?」
「まぁ、組長の下だな」
「ナンバー2ってこと?」
「ああ。オヤジは……組長は大抵は組本部にいるだけで、何もやらねぇでいいんだよ。だけどその下のモンは上納金があるからな。稼がなきゃならねぇ」
「そうなんだ……ヤクザさんも大変なんだねえ」
「大変だとも。お前って、育ち良さそうだから、ヤクザの知り合いなんざいないだろう。親、何やってんだ?」
「うちの親は普通のサラリーマンだけど」
「だろうな」
「篠原さんって、やっぱり本当にヤクザさんだったんだ」
瑞輝は何を今さらと言うような感想を述べた。
「関東を仕切ってる誠心会系列の龍沼組の若頭だよ」
「俺、そんな人にペンキかけちゃったんだ……」
「今の総長ってお人が、戦争とか警察沙汰とか嫌いなお方でな。ましてや、カタギの人間に手ぇ出したら、即破門って人なんだ」
「ヤクザなのに?」
「ああ。元がカタギだって聞いてる。先代が亡くなって、内部抗争を止めるために組を継いだとか……」
「面白い人だね」
ヤクザになりたくなかったヤクザ。
「ドラマみたいだ」
「Vシネマみたいだろ?実際、最近はカタギさんの方が怖いわ。却って怖いもん知らずでな。ヤクザの流儀も何もあったもんじゃねぇからな」
「やっぱり、ヤクザって大変そう」
「大変じゃねぇ仕事なんか、ねぇだろ?体がエライか頭使うか……さもなきゃ法律の網を掻い潜るってリスクがあるか。金を稼いでしのぐってのは、楽なこっちゃねぇんだよ」
「俺、本当はバイトもしたことないんだよね」
瑞輝は正直に告白した。
瑞輝は自分の家が特別裕福だったとは思ってはいない。
だが、生まれてこの方、金銭に困った事がないどころか、アルバイトさえしたことがない。両親は仲が良かったし、一人いる年の離れた兄も瑞輝をかわいがってくれていた。
優しい両親と、年齢の離れた兄に甘やかされて育った瑞輝。
小さな子供の頃から絵を描くことが好きで、絵画教室にも通わせてもらい、高校卒業後、上京して絵の専門学校に通いたいと言った時も、一人暮らしをすることを危惧されたくらいのことで、あっさり許された。
もちろん、住む場所も生活費もすべてが親がかりだった。
「だろうな。浮世離れしてっるって言うのか……世の中の汚いとことか、苦労とか。そういったことするりとすり抜けて生きてそうだ」
「本当だったら、俺。あの夜にボコボコにされて野垂れ死んでたのかもしれないんだ」
「ちっと前ならな」
篠原が、少し凄むような口調で言った。
ここで、瑞輝はやはり篠原の予想を越える反応を示した。脅えるかと思いきや、ふわりとそれはそれはキレイな笑顔を浮かべる。
「ラッキーだったんだ」
「……まあ、そうだな」
だから。
そんな無敵の攻撃を……それも不意打ちで食らわされては心臓に悪い。
体の関係ができたからか、違うのか。瑞輝は表情が豊かになった。
笑顔を、めったに見せることのなかった笑顔を今日だけで何度見たことだろう。
篠原はこの笑顔をずっと見ていたいと思っていた。
追加オーダーのエビチリと春巻き。それから空心菜の炒め物を瑞輝はほぼ一人で食べた。
もちろん、瑞輝は篠原にも食べるように勧めたが、いいから好きなだけ食えよ、と言う篠原の言葉で、華奢な外見に似つかわしくなく、瑞輝はぺろりと平らげた。
「腹、ふくれたか?」
「うん。もう、お腹いっぱいだよ」
瑞輝の笑顔。
篠原は今までになく幸せになった。
「そうか。だったら、お前の服でも買いに行くか?」
時間を確かめて、篠原は言った。
まだ『出勤』までには時間がある。
「服?」
「ああ。お前、着たきり雀じゃねぇか。たまにはちゃんとした仕立ての服も着ろよ」
そんなことに使う金があるくらいなら、画材でも買いたい。瑞輝の無言の抵抗を篠原は一蹴した。
「篠原さんが買ってやるよ」
「いいよ」
瑞輝がすかさず言うのへ、篠原は畳み掛けた。
「遠慮すんなよ。らしくねぇぞ。赤の他人の、それもヤクザのうちにず~っと居座ってる肝っ玉があるくせに」
この篠原の言葉に瑞輝は真っ赤になった。
「待て、ちょっっと待て。意地悪言ってんじゃねぇんだから。その泣きそうな顔はやめてくれ。ちょおっとからかっただけじゃねぇか。な?」
大慌てで。
はっきり言ってしまえば大いに焦って篠原は取繕った。
「悪かった。謝るから。な?」
あんなことをうっかり口に出してしまったせいで、もし瑞輝があの部屋から消え失せてしまったら。そう考えただけで篠原は心底寒気がした。
何もかも、きっかけはほんの些細なことにすぎないことを、篠原は今までの人生で嫌というほど経験してきたはずなのに。
「篠原さんが謝るようなことじゃないよ。俺が、図々しく居座ってるのは本当のことだもの」
瑞輝の感情が読めない。
それはいつものことだった。
しかし。
かろうじて伝わってくるマイナスの波動は篠原を焦らせるに十分だった。
瑞輝が怒っているのか悲しんでいるのかは分からないが、少なくとも篠原のうっかりした発言で、先ほどまでの丸い空気は跡形もなく消えてしまったのは間違いない。
「だから。それが悪いなんて言ってねぇだろうが。頼むよ。俺が悪かった。だから機嫌直してくれよ」
誰かに許しを乞う自分。
それも、こんな子供に。
舎弟共が見たら目を疑うであろうことは承知していたが、今の篠原にとっては彼自身の評価より瑞輝の『ご機嫌』の方が百倍も大切だった。
篠原の、必死な訴えが功を奏したのか、瑞輝がくすりと笑みをもらした。
「変なの、篠原さんって」
「変か?」
笑顔を浮かべた瑞輝に、ようやくホッとした篠原は応じた。
「うん。だって、篠原さんって、エライ人なんでしょ?いっつもお付の人が一緒にいて。そんな人が俺なんかにそんな風に言って……変だよ」
「だってお前は、カタギの人間じゃないか。俺は、素人さん脅かす趣味はねえぞ」
篠原は慌てて取り繕った。
「俺、篠原さんを怖いと思ったこと、ないよ」
あっさりと、瑞輝は言った。
「俺みたいにどこの誰とも分かんない人間を家に置いてくれて、食べさせてくれて、服まで買ってくれるんだから。そのおかげで俺は、アパート代も、着る物の心配もせずに、家からの仕送りで絵を描いていられるんだもの」
「……前に住んでたとこ、追い出されたって言ってたな」
「追い出されたって言うか……2ヶ月も家賃滞納したんだから、しょうがないかなぁって思うけど……」
「仕送りもらってんだろ?」
「俺。考えなしだから」
瑞輝は言って微笑う。
「仕送り全部画材に消えちゃったんだよ。女の子じゃないんだし、夏だったし。べつに野宿したって平気だったし」
血統書つきの猫がふらりと外に迷い出て、帰り道が分からなくなった……そんな様を篠原は連想した。
「お前……親はサラリーマンって言ったけど、母親は何やってるんだ?」
「普通の、専業主婦」
「家は?」
「え?別に……普通の一戸建てだけど?」
このご時世に。サラリーマンの父にパートに出る必要もない専業主婦の母。一戸建ての実家。それらを『普通』と言い切る瑞輝は今まで金の苦労などしたことがないだろう。
しかし、瑞輝のこの透明な美しさはただ金の苦労をしたことがないだけで身につくものではない。
いつだったか、同居生活がまだ始めの頃だった。明かりを落としたリビングで、ただ月の光だけを頼りにスケッチをしている瑞輝を見たことがあった。
その時。
篠原はぼんやりと思ったのだ。
月の光が形になったみたいだ……と。
浮世離れどころか現実離れしている瑞輝。
どうかこのまま消えずにいてくれと、篠原は心から願っていた。
「さて、出るか。篠原さんが服買ってやるからさ」
「……あのね」
「うん?」
「俺。絵の具買いたいんだよね。切れそうなんだ……」
「いいぜ。絵の具でも」
「いい。絵の具は自分で買う」
妙なこだわりを見せて、瑞輝はきっぱりそう言い切った。
「画材屋がここから近いから、寄りたいんだよ」
「やっぱり変わったやつだな、お前は……いいぜ、分かった。絵の具は自分で買いな。その代わり、服は篠原さんが買ってやる。それには文句つけるなよ」
「……ホントにいいの?」
「ああ。お前って放っとくと着たきり雀だからな。せっかくかわいいんだから、いい格好しろよ」
言ってから、篠原は思いなおした。
そうか。ただでもかわいいから、あえて着飾る必要がないのだ、と。ファッション誌とにらめっこして『決めて』いる町の若者より、ありあわせの服を着ているだけの瑞輝の方がよほど目立つのだから。
しかし。その瑞輝が着飾ればさぞかわいくなるだろうと篠原は思った。
これは、気合をいれてかからなければならないな、とも思ったが、きっと楽しい仕事になるだろうとも思った。
「これ、似合うな。お姉さん。これも貰うよ」
3件目のブティックで、ハンガーにかかったシャツを瑞輝の体に当てて、篠原はそう言った。
「篠原さん……まだ買うの?」
瑞輝はすでにうんざりしていた。
「何だよ。文句言うなって言っただろ?」
「だって、こんなに買うなんて、思ってなかったからさ。こんなに買って、どうするんだよ」
「お前が着るに決まってんだろうが」
篠原が買った服の量は、瑞輝が10人いても足りないくらいの数だ。
回った店の数は3件だったが、どの店でも篠原は10着ほど服を買っていた。
瑞輝は身に着けるものにまったく興味がない。ブティックを何軒も連れまわされて、正直疲れていた。
「何だ、疲れたか?」
「疲れてないけど……ちょっと、呆れてはいる……」
篠原は、いったい何軒ブティックをまわるつもりなのか。
あれもこれもと山のように瑞輝の服を買う篠原に、瑞輝ははっきり言ってあきれ果てていた。
「せっかくかわいいんだからよ、もうちょっといい恰好しろよな」
「ねぇ、もういいよ……」
「そっかぁ?まぁ、いっか……お姉さん。会計して」
3件目のブティックでようやく会計までたどり着いて、ようやく瑞輝は息をついた。
シャツにパンツにジャケットに。
篠原はセンスはいいのだろうが、金銭感覚は壊れているようだ。通りがかった店にふらりと入っては、目についた服を瑞輝にあてがっては買う。を繰り返していた。
篠原が店を何件もまわって、あれもこれもと服を山のように買って、さてこの大荷物をどうするのだろうと瑞輝が考えていると、篠原が携帯電話をかけている。
「ちょっと来い」
ひとこと言って、電話を切ってしまう。
場所も何も言わないので、瑞輝は思わずきいてしまった。
「今のでわかるの?」
「俺が見えるところにいるからな。言ったろ?一人で出歩けないって。誰なとついて回ってんだよ、俺には」
篠原の言葉通り、すぐに男が一人かけつけてきた。
「兄貴、なにか」
「荷物持ちだよ」
「へい」
ブティックの紙袋を両腕に提げて、男は頭を下げてどこかへ行ってしまった。
「なんか……悪いな……」
「何が?」
「だって、俺の荷物なのに……」
「俺が買ったもんだから、いいんだよ。その証拠に瑞輝の絵の具はもたせなかっただろうが」
そういう問題だろうか。
「おっと、もうこんな時間かよ。俺、一旦部屋戻るわ。シャワー浴びて、着替えて、シノギに行かにゃあならん。お前、どうする?」
「一緒に戻るよ。ねえ」
「うん?」
「あの人……ずっとついてくるんだよね?どうして一緒に歩かないの?」
「あんな小僧っ子とか?冗談言うなよ。あれはまだ新入りの行儀見習いだ。俺がこっちこいって言うだけで、緊張しちまうくらいの、な」
瑞輝の知らないヤクザのしきたりというものだろうか。
さっき見た限りでは、そう瑞輝と年齢が変わらないように見えたから、篠原から見れば自分も小僧っ子なんだろうな、と瑞輝は思う。
瑞輝がヤクザじゃないからこそ、篠原は優しくしてくれるのかな、と瑞輝は思った。
篠原の思いなど、まったく分かっていない瑞輝だった。
ブティックが並ぶ繁華街から、篠原の自宅までは少し歩かなければならない。
瑞輝はブティックに行く前に買った画材を手に、帰路についた。
絵具なのでさして重い物ではない。
重い物ではないが、篠原が言う。
「荷物、持ってやるよ」
「いいよ。重いもんじゃないし」
「いいから。お前は絵を描く人間なんだからよ。手は大事にしないといけないだろ?ほら、寄こしな」
「いいよ」
「いいから」
「……ホントにいいの?」
「いいって。ほら、寄こせよ」
「ありがとう……」
瑞輝は篠原に包みを渡した。
篠原は渡された荷物をひょいと持って言う。
「画材屋なんて、初めて入ったぜ、俺」
「まぁ、絵描きとか漫画家とか、絵を描く人間しか入らないだろうね」
「何が何だか、まったくわからなかった。でも、服買ってた時よりお前が楽しそうでさ、ああ、お前の世界はそこなんだなぁって思ったよ」
言いながら、マンションにたどり着いた。
篠原はシャワーを浴び、再び部屋を出ていく。
瑞輝は一人静かにホッと息を吐いた。
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