第40話 スターリンの大戦略
爆撃の後の敵陣地は凄まじい状況である。猛威を振るっていたソ連軍は今や肉片に変わり、あちらこちらで発せられる死に損ないの呻きと喘ぎ声がその光景を更に惨たらしいものに彩っていた。
脅威であった左岸の敵砲兵陣地も、未だに砲弾に誘爆が続いているのか爆発音が時折鳴り響き、紅蓮の炎と黒煙がたなびいている。こちらに向けられていたありとあらゆる砲火が沈黙していた。
西住は余りにも敵軍が呆気なく消え去ったので衝撃を受けつつも、冷静に命令を下した。
「全車前進! トーチカや壕の中にはまだ残存兵が居る可能性がある、最後まで気を緩めるな!」
原形を留めない鉄屑になった敵重戦車や、トーチカや火器の破片、設備の瓦礫、そして無数の屍を履帯で踏みならし、オイ車の群れは前へと進む。随伴歩兵がまだ息がある敵兵を弾を惜しんでか軍刀で処置し、降伏の意思があるものは拘束しながら、一つ一つ陣地の残骸を掃討していった。
無傷の対戦車砲や敵戦車と遭遇したり、対戦車地雷を踏むことも無く、部隊は遂にハルハ河が見える位置に到達した。左岸と右岸を結ぶ軍橋は先の爆撃で全て焼け落ちており、川面には火傷を負って水に飛び込んだソ連兵の成れの果てがぷかぷかと浮きながら橋の残骸にせき止められていた。
「酷い有様だ」
川岸に残っていた十数名程度の敵残存兵を西住は105ミリ砲で消し炭にすると、視界に入った装甲車らしき残骸に目をやった。その装甲車の開いたハッチから焼け爛れた上半身を見せている一人の亡骸、かなり高位の軍人だと思われる服装のそれに西住はほんの数秒だけ関心を向けたが、意識は北方と南方からこちらを目指して進んでくる味方部隊に向いた。
ノモンハンの勝者は、この日、言わずとも確定した。
※ ※ ※
8月31日、モスクワ、クレムリン宮殿。
「失礼します」
ノックをして執務室に入って来た連絡官は、緊張で張り詰めた声で、スターリンにノモンハンにおける戦闘の結果を報告した。
「そうか、ジューコフは敗けたか」
ソ連軍の極東の部隊は、前年に極東戦線が解体されて以降全て国防人民委員部の直属部隊として編入されており、同席していた国防人民委員のクリメント・ヴォロシーロフはその報告を聞いて即座に判断した。
「同志スターリン。シュテルンとジューコフにつきましては、早急に処分を致します」
スターリンは巻煙草を取り出し、火を点けると、一服してから返事をした。
「無論、モンゴル軍の軍紀も正す必要がある。この失敗の原因は彼らのみではないのだからな。同志ヴォロシーロフ、一刻も早く敗北の原因を究明し、その改善の策を講じたまえ」
「畏まりました」
ヴォロシーロフは逃げ出すように、執務室から足早に出ていった。後に残された面々は、スターリンの顔色をうかがって何も言い出せないでいた。
「...同志モロトフ、日本側との停戦交渉をすることは可能か?」
「はい、今回の戦闘では日本側も相当な損害を出したことが確認されています。向こうの内閣も事態の拡大を望んでいないようですし、難しいことでは無いでしょう」
少なくともスターリンにとっては、この戦いが日本側と停戦という形で実を結ばれるのならば、計画通りにはいかなかったとはいえ誤差の範囲だった。
「背後の安全は確保されたも同然だ、ヒトラーとの協定も取り付けた。これで安心して東欧に手が伸ばせるな」
スターリンの脳裏には、北欧からバルカン半島にまで広がる広大な地域、かつての帝国領の国々が、ソ連邦の版図に組み込まれる姿が浮かんでいた。
※ ※ ※
9月1日、皇軍省統合参謀本部。
「...によってハルハ河右岸の奪還は完了し、また左岸の敵部隊にも相当大なる打撃を与えたとのことです」
平沼首相に対し、皇軍大臣の宇垣一成が説明をする。政党政治への道はまだ長いが、着実に文民統制は形になりつつあり、現役軍人ではない宇垣が皇軍大臣に就任出来たのもその表れである。
「外務省にもソ連、蒙古側から停戦に向けての接触がありました。ソ連としては早期の合意形成を目指しているようで、ある程度の妥協、国境の後退も辞さない腹づもりのようです」
「そうか、それは良かった」
佐藤尚武外相が首相に報告をする。西澤は毎度同じく、議場の端の方の椅子に座って、会議の成り行きを静観していた。平沼首相は前首相のように事態が拡大することを恐れており、この結末は日本にとっても好ましいものであった。
「国境の策定については現在満州国と協議中でありますが、満州国としても事態の早期収束を望んでいるようで、現地民にも配慮し、ハルハ河左岸10kmの範囲を満州国に編入し国境として満蒙両国で策定する方向で動いています」
日ソ両国の
停戦自体の実現は早期に可能であるだろうが、国境の策定には時間がかかりそうだった。西澤は会議で逐次耳に入ってくるそれらの現況から、ソ連がやたらと何かしらの形で日本と停戦合意を求めていることを理解した。
「皇軍省としては、関東軍は命令無視、独断行動、造命など皇軍の軍紀を乱す行為を重ねており、近々解体し満州方面軍として再編、既存の正規の指揮系統に組み入れる方針で処理を進めております」
宇垣大臣は関東軍の処理について説明を続けるが、思考の深潭をまさぐる西澤の耳には一切入ってこなかった。
事態を拡大させたのは、関東軍の暴走もあるが、ソ連が大戦力を投入してきたからでもある。それほどまでに満蒙国境はソ連にとって重要なのかと思っていたが、石原が言ってソ連の外交戦略とやらがようやく解った。
ソ連は、勝てば日本に打撃を与え、近い内に攻撃が行われることがないという実証が得られる。敗けようが、日本側は損害を出すし、停戦という形を得られればそれでいい。
では、その形を得て、ソ連は何をするつもりなのだろうか。そこで西澤の頭に浮かんだのが、最近新聞で噂程度に掲載されていた『独ソ秘密協定』というものだった。
「そういうことか...」
会議にそっちのけで思考に耽っていた西澤を現実にに引き戻す音、会議室の扉が音を立てて大きく開かれ、一人の文官が会議室に入ってきた。警備が制止しようとするが、平沼首相が顎をしゃくりその場を通した。文官は手に持った紙を読み上げ始める。
「読み上げます! 本9月1日、現地時間午前5時前後、ポーランド回廊と自由都市ダンツィヒの割譲要求を拒否したポーランド政府に対し、国境付近でドイツ軍が攻撃を開始、ポーランドに対し侵攻を開始しました!」
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