第3話 代表作の闇と周囲の秘密
朝霧悠真は、事務所に戻るやいなやパソコンの画面に向かった。
日向斗真の代表作『逆さに沈む月』を改めて読み込み、その中で描かれる犯行の流れを丁寧に追おうとしている。
画面にはカクヨムの原稿フォーマットが映し出され、血の気のない月夜のシーンから物語が始まっていた。
「この作品、発売当時から斬新なトリックで話題になったんですよね。」
朝霧は小さくつぶやきながら、テキストスクロールをゆっくり進める。
重要な箇所にはマーカーを引きつつ、被害者のもとに巧妙なメッセージが届く描写を読み返していく。
『突然送りつけられる暗号文』と、その後の犠牲者が襲われる展開。
朝霧はそこに、今回の日向殺害事件を連想させる嫌な空気を感じ取る。
「やっぱり、この手口と似ている…。ただ、作品ではあくまでフィクションの演出として描かれている。それを現実で再現した奴がいるとしたら…。」
そうつぶやきながら、再度作中シーンに目をやる。
『逆さに沈む月』では、被害者が犯人から暗号めいた連絡を何度も受け取るのに、周囲はそれを“物語のネタづくり”だと思い込み、真剣に取り合わない。
そして、被害者が切実なSOSを発し続けても「また作家の奇をてらった演出だろう」と放置され、やがて何者かに襲われる。
今回の日向も「助けてくれ、殺される」と投稿していたのに、ほとんどの読者がメタ表現だと受け取ってしまい、結果的に彼が本当に殺害された事実が後から明るみに出た。
この“被害者の警告を誰も信じないまま殺人が起きる”という構図が、作品と現実で共通している。
朝霧は首を振り、資料を横へ寄せる。
犯人像に関する情報は少なく、まだ断定できる要素はない。
スマホのバイブが軽快な振動を響かせた。
画面を見ると、SNS分析チームからのメッセージが届いている。
「日向先生のSNSログを洗ったところ、オフ会以外にも個人的に誰かと会った形跡がありました。詳細はまだ調べきれていませんが、投稿のタイミングから見て深夜に出かけている可能性があります。」
簡潔な文面だが、朝霧の思考は刺激される。
深夜に会った相手がいるのなら、日向があれほどまでに追い詰められていた理由を知っているかもしれない。
事務所を出ようとしたところで、同僚が声をかけてくる。
「朝霧、そろそろ水瀬紗英さんのインタビュー時間ですよ。時間、大丈夫ですか?」
朝霧は腕時計に目をやり、うなずいた。
事件当日に行われた居酒屋でのオフ会に水瀬や真壁も参加していたらしい。
そのメンバーのひとりである水瀬から事情を聞くのは大きな手がかりになりそうだ。
タクシーで移動した先は、都会の片隅にある落ち着いたカフェ。
ドアを開けると、店内にはスイーツを勧める看板がいくつか並び、どこか甘い香りが漂っている。
ウェーブヘアが印象的な女性が、窓際の席でスイーツのパフェを前にして待っていた。
彼女が水瀬紗英であることは、プロフィール写真で確認していたので間違いない。
「はじめまして、水瀬紗英です。朝霧さんですよね。お話をうかがうと聞いています。」
そう言ってにこりと笑うが、どこか落ち着かない仕草を見せる。
黒のブラウスとカーディガンを合わせ、長めのスカートが柔らかな印象を与えている。
けれど、その目には薄暗い影がちらついているようにも感じられた。
「お忙しいところ申し訳ありません。捜査に少しご協力いただければと思いまして。」
朝霧が名刺を渡すと、水瀬は丁寧に受け取り、小さく息をつくような笑みを浮かべた。
「私に話せることがあるか分かりませんが、何でも聞いてください。日向先生とは、長い付き合いでしたから。」
そう言いながら、水瀬はパフェに添えられたスプーンをくるくる回す。
「先生とは、オフ会でよくお会いしていました。あの居酒屋での会合にも顔を出していたんです。今回の事件当日も、夕方からみんなで集まって飲んでいました。先生があんな投稿をしていたなんて、まさか本気とは思わず……。」
言葉の端々にぎこちなさがあり、水瀬は目線を下にそらすようにしている。
朝霧は、なるべく柔らかな口調で尋ねた。
「日向先生が『助けてくれ、殺される』と書き込んでいたのはご存じですよね。あれについて何か聞いていたり、心当たりはありませんか。」
水瀬は短く息をのんでスプーンを置く。
「もちろん知っています。でも、最初はいつものメタフィクション手法だと思っていました。先生、よく作品に入り込んで、そういう演出をカクヨムやSNSでもやっていたから……居酒屋でも、ずいぶん疲れているようでしたけど、特に深刻そうには見えなくて……。」
カフェの照明が控えめに落とされているせいか、水瀬の表情はよく見えない。
彼女はおずおずとスプーンを取って、パフェをすくう。
「日向先生にはずいぶんお世話になりました。私の作品をSNSで絶賛してくれたことがきっかけで、多くの読者に出会えたんです。正直、感謝しかないんですけど……先生があまりに成功しているのを見て、羨ましく思っていたのも事実です。ファンアートやSNSでの人気はそこそこあるけど、アニメ化やコミカライズなんて私には遠い話で……。」
朝霧はその言葉を聞きながら、水瀬の中にある複雑な感情を感じ取る。
「先生と最後に言葉を交わしたのは、オフ会当日になるんでしょうか。」
すると、水瀬は少し考え込んでから答えた。
「はい……夜9時頃までは先生と居酒屋の個室で話していました。だけど先生、急に席を立って先に帰ってしまったんです。何かあったんじゃないかと思って心配だったけど、あまりしつこく聞けなくて……。」
水瀬によれば、真壁怜治も同じオフ会に参加していたらしい。
しかし水瀬は締め切りを抱えていたせいもあり、日向とじっくり話す時間はなかったという。
朝霧は水瀬の言葉をメモしながら、SNSのタイムラインで見かけた噂を思い出す。
「真壁先生の様子はどうでしたか。二人、何かトラブルとか……。」
水瀬は困ったように眉尻を下げる。
「真壁先生は正直、日向先生に対してライバル心が強かったと思います。居酒屋でのオフ会でも口調が強い時があって、場がピリッとすることがありました。でも、最後は普通にお開きのはずでしたよ……。」
話を一通り聞いた朝霧は、礼を言ってカフェを後にする。
水瀬が抱える嫉妬や戸惑いを感じつつ、次なる相手は真壁怜治だ。
オフ会に参加していた真壁が、日向の最後の様子をどう語るのかが気になる。
夕刻、指定された場所は都心にある喫茶店。
朝霧が入店すると、奥の席に立派な体格の男性が座っていた。
スポーツ紙を読んでいるらしく、テーブルにはコーヒーカップが置かれている。
「真壁怜治先生でしょうか。朝霧と申します。お忙しいところすみません。」
真壁はゆっくりと視線を上げ、深い声で返事をする。
「聞いてるよ。オフ会で一度会ったことがあるかもしれないな。何が知りたいんだ?」
彼は筋肉質の腕を組み、座ったままでも背筋をぴんと伸ばしている。
朝霧は椅子に腰を下ろし、穏やかな声で切り出す。
「日向先生の件でお話をうかがいたいんです。事件当日に居酒屋でお会いしていたそうですね。先生が亡くなる前、どのようなやりとりがあったか教えてもらえますか。」
真壁は少しだけ目を細め、テーブルの上のコーヒーカップを手に取る。
「確かに夕方から夜にかけて一緒にいた。最初は普通のオフ会だったが、あいつが途中で急に帰るって言い出したんだ。俺は残ってたけど、アイツのことだからまた“ネタづくり”とか、変わった演出のためかと思ってた。」
言葉を短く切るところに、隠せない焦燥がにじむ。
「ところで、あのカクヨム投稿は何だ。『助けてくれ、殺される』だって? 日向のやりそうなことだと思ったから、深く考えなかったが……。」
朝霧は真壁の表情を観察しながら答える。
「実際に日向先生は何度もその投稿を繰り返していました。事件との関連を調べていますが、今のところ詳細はなんとも言えません。」
真壁は苛立ちを隠せないのか、スポーツ紙を丸めるように握りしめる。
「俺はバトルアクションが専門で、ああいうミステリーじみた演出はあまり得意じゃない。正直、日向の成功に嫉妬してたのかもしれないが、だからって殺人はしない。俺にもプライドがあるんでな。」
朝霧はその言葉を聞き、微かに息をのむ。
真壁は自分の作品が一時期売れ行きで伸び悩んでいたと噂があったが、真実はわからない。
ただ、この男の強い自尊心と、日向との確執が事件にどう関わるのかは推測の域を出ない。
用件を終えた朝霧は、喫茶店を出る前にSNSの通知を確かめる。
カクヨムのコメント欄には、日向先生の作品解析をするユーザーが急増していて、『逆さに沈む月』のネタバレ考察が相次いで投稿されているらしい。
真壁との対話で気づかされるものはなかったが、まだ何か手がかりを見落としている気がする。
少し足早に通りを歩く朝霧は、スマホを片手に見上げるように夜空を確認する。
あの作品で描かれていた闇の深さは、どこまで現実に影を落としているのだろうか。
彼は考え込むまま、次の捜査方針を頭の中で組み立てようとしている。
手がかりの断片を追うごとに、日向斗真という作家の抱えていた秘密が、オフ会での出来事を境に少しずつ輪郭を帯び始めている気がした。
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