目覚めの時

日暮喜平

第1話

戦国時代、多くの者が命を懸けて、戦いを繰り広げていた。


永禄3年(1560年)5月12日、甲相駿三国同盟により後顧の憂いをなくした、駿河・遠江・三河を支配する海道一の弓取り、今川義元が尾張制圧を目論み、2万5千の軍勢を率いて出陣した。


対するは尾張一国すら満足に支配できずにいる織田信長。

織田信長に従ったのは従来からの家臣だけであり、兵3000。


尾張統一の過程で家臣になった者や国人・豪族たちは義元を恐れて戦況を様子見するか、服部党の服部友貞のように今川方についた。


5月18日、今川義元は順調に進軍し、尾張の沓掛城に入城、同日夜、松平元康が指揮を執る三河勢を先行させ、大高城に兵糧を運び込ませた。


今川の大軍勢の接近の報せを受けた清須城では、重臣以下が集まって軍議を重ねていたが紛糾、林佐渡守が籠城を進言したが、信長はほとんど耳をかさず酒宴をひらいて能を見物。


そこへ松平元康が大高城に兵糧と供に入城した報せを受け取ると大高城の北に位置する丸根砦、鷲津砦に兵と兵糧を後詰めした以降、何の下知も降さず大あくびして寝てしまった。


これを見た家臣たちは、「知恵の鏡も曇ったか」と不安を募らせた。

清州城で待機を続ける家臣たちは、動けに動けず迫りくる今川軍に焦りと不安を感じていた。


翌5月19日3時頃、松平元康、朝比奈泰朝の部隊が織田方の丸根砦、鷲津砦に、それぞれ攻め寄せた。迎え撃つのは、丸根砦は佐久間盛重、鷲津砦は飯田定宗、織田秀敏。


早朝4時頃

清須城には両砦から、援軍要請が次々と引っ切り無しに届けられ寝所にて休みをとっていた信長のもとにも届けられた。


報せを受けた信長は飛び起き小姓に鼓を打たせ、幸若舞『敦盛』を謡い舞った。


人間五十年 


下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり


一度生を享け 滅せぬものあるべきか


「法螺を吹け! 具足を寄越せ! 出陣だ!」


信長は舞い終わると立ったまま湯漬けをかっ込み、出陣を知らせる法螺を吹きならせると、自ら具足を身に着けると兜をかぶり愛馬にまたがり、明け方の午前4時頃に居城の清須城から小姓衆五騎のみを率いて一目散に熱田神宮を目指し、駆け出した。


清須城を駆け出た信長に付き従ったのは小姓衆五騎のみだったが、熱田神宮までの

三里の道を乗り切るうちに、雑兵が二百ばかり従ってきた。


午前8時頃

清須城から熱田神宮に到着した織田信長はここでしばし兵の参集を待った。


それから続々と兵が追い付いて、およそ千騎ばかりになった。


そして、熱田神宮にて戦勝祈願を行うと戦場に向かった。

熱田からの真東の畷道を進み、途中の城塞の兵も引き連れ、

ただひたすらに走りに走りに走った。


午前10時頃

信長の軍勢は鳴海城を囲む善照寺砦に入って、およそ三千の軍勢を整えた。


同時刻

丸根砦は今川軍の先鋒である、松平元康率いる三河勢の猛攻を受けた。三河勢の攻撃により砦を支えきれないと考えた佐久間盛重率いる織田軍五百人余が丸根砦より打って出て白兵戦を展開。


この突撃により松平元康率いる三河勢はかなりの被害を受けて押し戻された。


一時は松平隊を押し戻したが、寡兵の佐久間盛重は衆寡敵せずに壊滅。

松平元康によって大将の佐久間守重が討ち死にし、丸根砦は攻め落とされ陥落した。


同じ頃、鷲津砦は籠城戦を試みたが朝比奈泰朝に攻撃により、飯尾定宗が討ち死にし、飯尾尚清が敗走した。


一方、今川義元は大高城周辺の制圧が完了した報せを受けると沓掛城から本体の軍勢を率いて出発し、大高城の方面に向かって西進した。


正午頃

今川軍本隊の中島砦への進軍により佐々政次、熱田大宮司家の千秋季忠らが迎撃に向かう。


それを見た織田信長は家臣たちに反対されるが、それを無視して最前線の中島砦に入る。丹下砦や善照寺砦から兵を抽出し、丸根・鷲津砦の残兵も収容した信長は軍を再編し隊を二つに分け、一隊を小姓衆の岩室重休を今川軍本隊の迎撃に向かった佐々政次、千秋季忠の援軍に出陣させた。


今川軍本隊の迎撃は佐々政次、千秋季忠双方ともに討ち取られ戦死するなど、戦いは苛烈を極めた。



今川軍本隊は桶狭間山に布陣して休息していた。桶狭間山の中腹にある本陣で休息中だった今川義元のもとに佐々政次、千秋季忠の首が届けられた。また、丸根砦・鷲津砦の陥落の報せを受けた。数々の戦闘に勝利したこともあって、今川義元は大いに喜び謡をうたわせた。



その頃信長は密かに中島砦より出撃し、今川軍本陣を目指していた。


昼過ぎの13時頃、

信長率いる奇襲隊が、桶狭間近くまで進出したとき俄かに黒雲が広がり暴風雨がふきつけてきた。 


織田軍はこれに乗じて兵を進めた。

この豪雨が敵の前衛部隊を迂回して接近する軍勢の音を消し去り、今川軍は敵の接近を察知できなかった。


さらに、今川勢は分散して休憩をしていた。


視界を妨げるほどの石水混じりの豪雨が降る。


ついに、織田軍は義元の本陣に到達した。

敵本陣を目の前にして信長は槍を握り


「かかれぇぇぇ!」


そう大声で号令を発すれば軍勢は一丸となって今川軍本陣に向かって攻めかかった。



突然の奇襲により今川軍は大混乱に陥った。今川軍は、右往左往するばかりであった。


信長本隊の接近を知らない今川軍本陣は信長の軍勢の鬨の声を最初、はじめは雑兵の喧嘩騒ぎや失火と勘違いした。


初期対応の遅れは致命傷になった。


織田軍による幾度にもわたる突撃により、今川義元の本陣周りは打ち崩されていく。


雑兵は逃げ散り今川軍の本陣は統制を失い乱戦になった。


今川義元は旗本三百騎を率いて桶狭間山の本陣から撤退を図った。


無論、信長は追撃をかける。三度四度と遮二無二に攻撃を仕掛けた。


そのたびに旗本は倒れた。


信長自身も馬を下り、自ら槍をとって突撃して行った。


「首は打ち捨てよ‼ 狙うは義元の首、ただ一つ!」


今川軍は必死に応戦したが、織田軍の勢いは止まらなかった。


信長の勢いに押され、今川軍の陣形が崩れた。ついに今川義元が見えた。


多くの兵が一斉に今川義元に殺到した。

今川義元は自ら太刀を抜いて応戦した。


旗本の陣形が崩れた隙を突いて服部子平太が前に出て槍を突いた。

そしてついに、刃が届いた。


「服部子平太‼ 一番槍‼」

今川義元は槍に突かれ、傷を負った。


だが、なおも討たれまいと刀を振るって反撃し、強く抵抗した。

服部子平太が二突目を繰り出す前に足を切りつけ、膝を叩き割った。


倒れた子平太に代わり、新たに、毛利新介が襲い掛かってきた。

義元は組み伏せられた。

毛利新介の指を嚙み千切った。

だが、反撃及ばず、首を討ち取られ死亡した。


「今川義元討死」の報は全軍に瞬く間に駆け巡った。

織田軍に押され、打ち負けていた今川軍は総大将の討ち死の報により、戦意を失った。


散り散りに敗走していく。信長は追わない。散らばっていた軍勢を集め勝鬨をあげた。

およそ午後四時頃。三時間にわたる戦闘だった。



桶狭間の戦いは織田信長の勝利に終わった。



この戦いにより、今川家の実質的な当主であった今川義元を初め、松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将が討ち死にした。


これらの有力武将を失った今川軍は浮足立ち、残った諸部隊は駿河に後退していった。


また、今川方で参戦していた服部党の服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、敗走した。


大高城内にいた松平元康にも、今川義元討死の報が伝わった。


元康は物見を出して桶狭間での敗戦を確認した。


同日夜に大高城より岡崎城を目指し、撤退した。


岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺の大樹寺に入った。ほどなくして今川軍は岡崎城から撤退。23日、元康は岡崎城に入城した。


尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗していたが、織田軍は今川軍を破ったことで勢いずき、6月21日、沓掛城を攻略し、近藤景春を死に追い込むなど、今川軍の占領地を一挙に奪還していった。


桶狭間の戦いにより、尾張から西三河に至る地域で今川方の勢力が一掃され、また、岡崎城に入城した松平元康が今川氏から自立し、松平氏の旧領回復を目指し始めた。


永禄五年(1562年)になると、松平元康は今川氏から完全に離反し、織田家と講和し、同盟を結んだ。これにより東から攻められる危険が回避できるようになり、美濃の斎藤家との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させることになった。



この戦の勝利により、織田信長は天下人への道を急速に歩んでいくことになった。

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