逃げる女

とぶくろ

夜の森

 ひとけのない山の中、夜の闇に包まれた暗く静かな森の中。

 僅かに届く月明かりを頼りに、女はひとり、森を彷徨っていた。

 頻りに後ろを振り返り、何かから逃げるかのように、細い山道を行く。


 トレッキングかハイキングか。

 そんな恰好だが荷物は無く、何度も転んだのか全身を汚したまま、その女は夜の森を彷徨っていた。何度も何度も後ろを気にしながら、山の中の森を歩いていた。


 何度目か、振り向いた女が目を見開き、恐怖に固まる。

 その視線の先には、男が独り立っていた。


 山歩きの途中なのか、女と同じような格好だが荷物もなく、道から外れた木の陰から女を見詰めていた。その目は虚ろで、感情のない表情のまま、じっと静かに女をみつめていた。


「なんで……なんで」

 恐怖の余り、悲鳴すら出せなかったのか、女は呟くように『なんで』と繰り返しながら、震える足を引き摺るように歩き出す。


 ぷるぷると小刻みに震えながらも、懸命に歩を進めた。ただただ男から、その視線から逃れたい一心に見える。

 深夜の山中、街灯もない森の中で、黙って見詰める男に会えば、誰でも恐怖を感じる事だろう。女性でなくとも、ある意味、熊に出会うよりも怖いかもしれない。


 何に使われているのか、人の使用感のある小さな小屋があった。

 必死に、転がるように逃げていた女は、偶然見つけた小屋へ逃げ込んだ。

 偶々忘れたのか、誰でも利用できるのか、入り口のドアに鍵は掛かっていなかったので、女は小屋に転がり込むように飛び込んだ。


 内側のドアノブにツマミをみつけ、震える手で内側からドアに鍵を掛けた。

 ドアの鍵はごく普通のツマミを回す、サムターン錠であったので、殆ど見えない暗闇でも、震える手でなんとか施錠できたようだ。


 窓から真っ暗な外を覗く、女の目が大きく見開かれた。

 先程の男は追って来ていた。真っ暗な山道をライトも点けずに、まっすぐ山小屋へ向かって、ゆっくりと歩いて来ていた。


「ひっ……」

 小さな悲鳴を漏らした女は、窓から飛びのくように離れ、小屋の奥へ這って逃げ込んだ。小屋は倉庫代わりだったのか、元は売店でもやっていたのか、何もない二間だけの小屋であった。隠れる場所も、逃げ出す裏口もなかった。


 どん!

「ひぃっ」

 どんっ!

「ぃぃやぁ」


 表から、ドアを叩く音が聞こえる。

 ドンドンと激しく叩くものではなく、間を開けて大きな音が響く。

 まるで体当たりでもしているかのように。


「ひぃ、い、いやぁ。なんで、なんでなんで」

 女は奥の部屋でうずくまり、またも『なんで』と繰り返す。

「なんでよ……もういいじゃない。許してよ……もう、自由にさせてよ」

 女は顔をぐちゃぐちゃに歪めて、泣きながら許しを乞う。


 がしゃーんと、ガラスの割れる音が響く。

「きゃあああっ、いやぁああっ!」

 恐怖が限界を超えたのか、ついに女が悲鳴をあげて立ち上がった。


 先程の男が、窓ガラスを割って侵入してきたのだろうか。

 そんな恐怖に女は、表を確認する勇気もなく、どうしようもなく天井を見上げると、天井板が一枚ない場所があり、人が通れる程度に穴を開けていた。


 此処よりはマシだと、確認もせず天井に飛びつく。

 空の棚に足を掛け、必死に天井裏へ飛びつき、身体を引き上げる。

 天井裏は物置として作られたのか、そこには月光があった。

 屋根の大きな窓から、月明かりが差し込んでいた。


「なんで……いかなきゃ。そうだ、いかなきゃ」

 何かに気付いたかのように、そう呟いた女が、光が差し込む窓へ這い寄る。

 壁につかまって立ち上がると、屋根の窓に手を掛けた。窓を外へ、大きく開いた女は、今まで震えていたのが嘘のように、力強く窓によじ登った。


 何かを心に決めた女性は、鍛えた男以上の強さをみせるものである。

 暗い闇に躊躇なく飛び込む女。窓から出て、小屋の屋根から飛び降りた。


 女は今、登って来た道を下っていく。あれほど怯えていたのに、一度も後ろを振り向く事なく、男が追って来ないと確信しているかのように。


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