ヘリオトロープ・ロマンチカ〜香水草は恋の香り〜

蒼河颯人

ヘリオトロープ・ロマンチカ〜香水草は恋の香り〜

 あれは、何年位前のことだっただろうか。僕は学問を修めるため、下宿先で書生をしていたころのことだった。


 学校から急いで下宿先に戻る途中、何かにつまづいたのかつんのめり、地面が間近に迫ってきて……気がつくと、目の前に星がちらついていた。そう、文字通り。ああ、我ながら一体何をしているのだろう。僕は思わず絣やシャツの袖口や袴に目をやり、破れた跡はなさそうなのを確認し、大きく安堵のため息をついた。ちらと右脇の方へと視線を向けてみたが、帆布製の肩掛けも無事そうだ。僕の実家は決して裕福ではない。着物などそう簡単に新調したり出来ないから、綻びを拵えると、自分で繕って長持ちさせるようにしている。あの頃は、贅沢さえ出来ない状態だった。


 さて、無駄な時間を潰すわけにはいかない。僕は身を起こすと、異変に気が付いた。何かがおかしい。視線を右の足元に向けると、鼻緒が足にくっついているものの、台が足から外れているという、大変おかしな状態になっていた。下駄を新調すべきだったが、ついつい疎かにしていたツケが回ってきたようだ。


(あああ、どうして急いでいる時に限って……)


 僕はつい頭を抱えたくなったが、その時、カランカランと軽やかな音が響いてきた。いけない。そう言えば、ここはカフェーの前だった。このままではひとの往来の邪魔になると、下駄を脱いで立ち上がろうと思ったその時、金糸雀カナリアのような美しい声が、僕の耳に入ってきたのだ。


「そこのお方、どうなさいまして? ……珠江さんごめんなさい。私に時間を少しちょうだい。こちら、何かお困りのようなの」


 その声がした方へふと視線を向けてみると、紫の矢絣の着物に海老茶色の袴、そして黒の編み上げ革靴ブーツを身につけた娘の姿が視界に入ってきた。近所の高等女学校に通う女学生だろうか。彼女は友人と思しき人に自分の巾着袋を持たせ、急ぎ足で僕の元に駆け寄ると、袴の裾が汚れるのも厭わずしゃがみ込み、僕の足元に視線を送ってきた。


 庇髪に結い上げた艷やかな前髪の下には、雪のように透き通るような肌の瓜実顔があった。薔薇色の頬で、まつ毛が長く、美しく澄んだ榛色の目元が、心配そうに僕を見つめてくる。緑の黒い後ろ髪が、肩からさらさらとこぼれ落ちて来るのが見えた。心臓が痙攣しているのか、大いに痛んだ。ああ、何ということだ。彼女に思わず目が吸い寄せられてしまう。そんな僕の気持ちなど知ってか知らずか、海老茶袴の娘は小さな桜色の唇を動かすのを止めようとしなかったのだ。


「あら大変。鼻緒が……それでは歩けませんわ。ちょっとお待ちになって。これをお使いになると良いわ」


 その娘はすかさず懐から白いものを出した。どうやら絹の手巾ハンケチのようだ。彼女はそれを丁寧に細く折り畳み、こよりのようにして下駄の台の眼に通し、抜け落ちていた鼻緒をすげてくれた。折角親切にしてくれていると言うのに、僕ときたら、再びぼうっとしていて、その間に彼女が話してくれていた言葉が、一文字も頭に入って来なかった。


 何故かって? 彼女の周りから漂う、柔らかく甘い香りが、静かに僕の鼻腔をくすぐってきたのだ。言葉ではどう言ったら良いのだろうか。扁桃アーモンド桜桃チェリーと言った、ふんわりとした、柔らかなヴァニラの香りが近いようだ。恐らく、今流行っている仏蘭西フランスからの舶来品、ロジェ・ガレ社の「ヘリオトロープ」という名前の香水だろう。この前友人の付き合っている相手が、そう言う名前の香水を手巾ハンケチにつけて使っていると言っていたのを、思い出した。その優しい香りが、今まさに彼女と、自分の足元を包み込んでいるのだ。なんて良い香りなのだろう。すると、再び僕の心臓がきゅっと締め付けられた。やっぱりおかしい。医者に診せるべきだろうか。


 そんな僕の気も知らずに、美しい白い手がせっせと下駄の世話を焼いてくれている間、彼女の黒髪の上に宿った大きな茜色のリボンが、ひらひらと、蝶のように羽ばたいていた。そのまま空に飛んでいきやしないかと、そんなくだらないことをつい考えてしまった。今日の僕は、やっぱり何だかおかしい。そうあれこれ考えていると、いつの間にか、彼女は一仕事終えたような表情をしていた。右足指に加わるいつもと違った圧迫感が、この時間の終わりを告げようとしている。


「ちょっと歩きにくいでしょうけど、これで何とかなるはずですわ」

「……す……すみません。どうもありがとうございます」


 僕は少しどもり気味になりながら礼を言うと、目の前にある美しい顔は安堵の笑みを浮かべた。その艶々とした口元には、真珠のように白く美しく並んだ歯がこぼれ落ち、時が再び止まってしまいそうになる。再び、僕の心臓がぎゅっと締め付けられた。今まで発作なんて出たことなかったのに。医者に診てもらうにしても、お金がないから今は無理だ。ああ困ったなぁ。


 そんなことを頭の片隅におきつつ、僕は傍に転がっていた真っ黒な学生帽を慌てて拾い上げた。帽子についた土ぼこりをばたばたと音を立てて落としつつ、何とかしてこの時間を保たせるために言葉をつなごうと集中した。彼女との時間は、正直まだ終わって欲しくなかった。


「よ……宜しければ、お……名前を……おし……教えて下さい」

「名乗るほどではありませんわ」

「でも、僕なんかのために貴女の手巾ハンケチを使わせてしまって……」

「お気になさらないで下さい。困っている方をお助けするのは、当たり前ですわ。それは戻されなくて大丈夫です。どうぞお使いになって……」

「いえ、それでは、私の気がおさまりません。せめて……せめて貴女のお名前だけでも教えて下さい。いつかお礼を致しますから……僕は、朔太郎。中島朔太郎と言います」


 この時の僕は、彼女との縁を何とかして繋ごうと思ったのだろう。兎にも角にも会話を途切れさせぬように必死だった。


「綾小路俊篤の娘、貴美子と申します」

「……綾小路……貴美子さん……」

「それでは中島さん。人を待たせておりますので、私、これにて失礼致します」


 そう言うやいなや、彼女は花の綻ぶような微笑みを残すと矢絣の袖を翻し、待たせていた友人の元へと颯爽と歩いて行った。背に流れ落ちる黒髪が豊かに波打ち、柔らかな香りを残す様は、まるで月へ帰ってゆくかぐや姫のようだった。やっぱり、今日の僕の頭の中は、愉快なことになっている。


(貴美子さん……)


 その場に一人残された僕は、時間を忘れてその場に立ち尽くしていた。足元から柔らかで甘い香りが立ち上ってきて、まだ彼女と二人で一緒にいる気がしてならなかった。どういうわけか、近い内にまた会えるような、そんな気がしたのだ。


 ふと空を見上げると、何故か雲が薔薇色に染まっているように見えた。いつも見ているのと大して変わらないはずなのに、その日のは一段と美しく見えたのを、昨日のように、今でもよく覚えている。


 

 ──完──


※「ヘリオトロープ」は、明治時代の日本に初めてきた、実在する香水の名称です。フランスのロジェ・ガレ社の製品で、実在するものです。


※貴美子のイメージイラストはこちらになります

https://kakuyomu.jp/users/hayato_sm/news/16818093092858281415


※朔太郎のイメージイラストはこちらになります

https://kakuyomu.jp/users/hayato_sm/news/16818093093044317767


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