第五話

 街の中心からやや外れた歓楽街は通りを一本外れただけで姿を変える。 建物同士が密集していて太陽が昇ったばかりだというのにすでに妖しげな雰囲気が漂いはじめていた。


 きつい香水の香りと煙草の匂いとすえたような臭いが混じった刺激臭が鼻をつく。


 娼館や酒場が軒を連ねるこの一帯は、いわゆる『オトナの街』だ。夜になれば娼婦たちや客引き、彼女たちを目当てにした男たちでごった返すらしい。今は酔いつぶれた客が身包みを剝がされて道の端に放置されているくらいでほとんど人通りはない。


 パンツ一丁で転がされている男たちの山を尻目に僕は目的地であるマダム・スタルカの娼館『女帝の玉座』へ向かって歩みを進める。


 乾いたゲロやカラの酒瓶が転がっている、すり減って手入れのされていない石畳を気を付けながら踏みつける。ところどころから土が顔をのぞかせていて酔っ払いの栄養を吸った草が元気に生い茂っている。下手なところを踏むとひび割れに足を取られてコケてしまいそうだ。顔から吐瀉物に突っ込んでしまったら目も当てられない。


 明かりの消えた看板をいくつか横切り、さらに奥の小道に入ったところで男女のいさかいの声が耳に飛び込んできた。


「おいおい、姉ちゃんいいじゃねえか。ちょっと相手してくれよ」

「悪いけど、ウチはそういうシゴトやってないんだ。ほかを当たってよ」


 酔っ払いらしい男のだみ声に応えるトゲトゲとした女の声。女のほうに心当たりがあった僕は、慌てて声のするほうへ走り出す。やがて辿り着いた路地では、大男たち数人が赤い髪の小柄な女性を取り囲んでいた。ひとまず様子を見るために近くのごみ箱の陰に身を隠し、そっと覗き込む。


「そういうなって。金ならあるぜ?ほらよ」


 リーダー格の巨漢はシワが目立つ高級スーツのポケットから裸の金貨を数枚、地面に落として顎で指した。『拾えよ』とでも言わんばかりにニヤニヤとした下卑た笑みを張り付けている。

 けれど、女性――孤児院で一緒に過ごした僕の義姉の一人、スカーレットは落ちた金貨を一瞥もせずに男を睨み上げている。

 長く伸ばした赤い髪を揺らして男の前にズンと踏み出し、鼻を鳴らした。深いスリットから艶めかしくほっそりとした脚が覗く。背中がざっくりと開いた煽情的なドレスに男たちが生唾を呑んだ。


「そんなはした金、拾う価値もないわ。さっさと帰りな、成金野郎。たしか住所は……ブタ小屋だっけ?」

「なんだと!てめえ、女だからって……」


 にっこりと首をかしげて見せるスカーレットに男が掴みかかろうと動くのを見て、僕はもう隠れていられなかった。普段の運動不足が祟って息は苦しい。けれど、ここで止めに入らなければ取り返しのつかないことになる。




 僕は、孤児院時代の数々の“災害”を思い出していた。


 いつも先生がいないタイミングを見計らってケンカを始めていたエルとスカーレットの災害級の破壊跡。

 その当時からすでに大人顔負けの身長と体格で最年長のエルに対して一方的で理不尽な理由を吹っ掛けていたスカーレット。彼らのケンカの後にはハリケーンの通過跡のようにひっくり返ったテーブルや椅子と巻き込まれた被害者たちが積みあがっていた。タンスが半分窓から飛び出していた時もあった。

 ケンカの理由は覚えていない。配給の量が多いとか少ないとか、そんなものだったと思う。どうしてケンカなんてしていたのかは覚えていないけれど、子供のケンカなんてそういうものだ。


 毎回先生が帰ってきてから二人そろって連れていかれていたけれど、彼らはそれでも小さな争いごとの火種を見つけては大暴れしていた。




 ここで止めに入らなければ取り返しのつかないことになる。そうだ。助けなければ。あの男たちを。

 僕は腕を必死に振り回しながら彼らのあいだへ割り込んだ。


「ストップ! ストップ! ここはマダム・スタルカのお膝元ですよ! あの『女帝』の! 命は大事にしましょう!?」


 マダム・スタルカの名前を借りるのは卑怯かもしれないと思ったけれど、構ってはいられない状況だ。けれど、これで引き下がってくれればという希望は男の酒臭い息で吹き消された。


「なんだよ、このガキ。マダム・スタルカだぁ?それがどうしたってんだ。お前、ファルコーネファミリーに逆らおうってのか?いい度胸じゃあねえか、なあ!?」


 取り巻きたちも「そうだそうだ」と安っぽい同意の声を上げる。

 その様子を見て確信する。どうやら本物のファルコーネ構成員ではなく、聞きかじった噂で名前だけ拝借しているらしい。

 そもそもファルコーネの名を軽々しく出すような人間が、本物の裏社会の恐ろしさを理解しているわけがない。よくよく見れば男のスーツはよれてサイズも合っておらず、真新しいネクタイだけが場違いに浮いている。それっぽい格好を真似しているだけだ。喜劇の役者なら満点だろう。


 僕の登場から急に静かになったスカーレットのほうを振り返ると、彼女はなんだかニヤニヤと趣味の悪い笑みを浮かべていた。まるでアリの巣に水を流し込んで遊ぶ子どものような、捕まえてきたカエルの口に爆竹を詰めている悪ガキのような無邪気で邪悪な顔だ。

 そんな表情のまま僕のすぐ後ろに近づいて背中から抱き着いてきた。ヒュッと僕の口から息が漏れる。


「やぁ~ん、スカーレットこわぁい。助けて~」


 背筋がぞわりとするような甘ったるい猫撫で声を出しながら腕を絡ませてくる。僕にとっては艶めかしいというよりも蛇や蛸が獲物を締め上げるような恐怖でしかない。けれど見るものによっては違う感想を抱かせるらしい。


「「「なにイチャついてんだゴラァ!」」」


 男たちの声が汚く重なった。否定しようにも締め上げられた肺の中には空気が残っていない。声を出すことができない。呼吸もだ。スカーレットはいたずらっぽい笑い声を吐息と共に吐き出し、僕の耳元でささやいた。


「動いちゃダメよ」


 彼女の声とどちらが早かっただろうか。バサバサと布がはためく音とともに僕の頭上を影が走り、頭の上から何かを被せられた。

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