第14話
外へ出ると、日が大きく傾いていた。
空の端が薄く橙色に染まり始めている。出発したときの空とは、もう別のものだった。
修平はスマートフォンを取り出した。美樹に一報を入れておく必要があった。
〈帰りが遅くなりそう。夜ご飯、先に何か食べておいてくれるか〉
送信して少し待つと、うさぎのキャラクターが片手を上げたスタンプが届いた。
あっけないやりとりに、修平は思わず「大丈夫か?」と打ち返していた。
〈大丈夫だよー。もうご飯くらい自分で食べられる〉
心配しているのはご飯のことではない、と送り返しそうになって、やめた。
〈そうだな笑〉
すると今度は、にっこり笑ったクマのスタンプが届いて、会話は終わった。
中三にもなれば、夕飯のひとつくらい自分でどうにかできる。それがありがたい、と修平は思う。真理子がいなくなった直後、美樹のことを考えない時間が一瞬たりともなかった。あの頃は、すべての時間を美樹を中心に組み立てるしかなかった。
今日知り得たことは、まだ伝えないでおこう。帰ってから、少し話そうと思った。
車を取りに戻る道を、長谷川と並んで歩いた。
「しかし、なんだかとんでもないことになったな」
修平が言うと、長谷川は空を見上げながら答えた。
「いつのまにか片足どころか、両足入り込んでましたね」
その目には、隠しきれない生気が滲んでいた。
「お前はいつも、最初から両足で飛び込んでるだろ」
「あははは」
長谷川が、夕暮れの路地に似合わない大きな声で笑った。
車を八坂家の前に回すと、石畳の入口に照子とフミが立っていた。
照子は小ぶりな旅行鞄を抱えている。準備の早さに、修平は少し驚いた。
照子が後部座席に乗り込む。「じゃあ、お願いします」という声は静かで、しかし迷いがなかった。
修平が助手席の窓を開けると、フミが顔を覗かせた。
「何としてもお願いね」
その言葉が誰に向けられたものか、修平にはわからなかった。車の中の三人へとも、あるいはもっと遠い何かへとも聞こえた。天に向けられた願いのようだと思った。
「はい」
三人は、それぞれに答えた。
車が動き出すと、修平は窓越しにフミを見た。小柄なその姿が、夕光の中でゆっくり遠ざかっていく。
国道に出るまでのあいだ、車内は無言だった。修平も、照子も、長谷川でさえ、黙ったまま外を見ていた。
「ところで、凪さんのところへはどう行ったらいいですか?」
高速道路の入口が見えてきたところで、長谷川が口を開いた。
「職場は新宿です。自宅は……参宮橋という駅から近いところです」
「そうなんですか」修平は言った。「じゃあ私の家からそう遠くないですよ」
「じゃあ、とりあえず西嶋さんの家のほうに向かいますね」
長谷川がアクセルを踏み込む。車が速度を上げた。
しばらく走って、修平は後ろへ向き直った。
「あの……そのアイコトバというものについて、もう少し聞いていいですか?」
「はい」照子は短く答えた。
「その……呪術というのは、本当なんでしょうか」修平は言葉を選んだ。
「正直、私はそういった類のものは信じないたちで、未だに半信半疑なんです」
「そうなんですね」
修平は、照子の言葉に少し安堵している自分に気づいた。否定も肯定もしない声だった。
「でも……母から聞いたこと、父に起こったこと、凪が実際に変わったことを目の当たりにすると」
照子はそこで口を閉じた。「信じざるを得ない」という言葉を飲み込んだように見えた。その分だけ、彼女の中でまだ整理がついていないのだろう、と修平は思った。
「照子さんは、アイコトバを聞いたことはあるんですよね?」
「はい。母から言い伝えられたときに一度だけ。ただ、なんだか奇妙な感じがして怖くて……ちゃんとは聞けなかったんです。それに、そもそも私は聞いていい状態ではなかったので」
「聞いていい状態、というのは」
「気分が落ち込んでいる状態ではなかった、ということです。アイコトバは、本当に生活もままならなくなるような落ち込みのときだけに使うと決まっていたようで」
「凪さんが、以前そうなったと」
「はい。それで帰省して休んでいるときに、母の勧めもあって聞かせました。すぐに見違えるほど元気になって……私も驚きました。だから東京へ戻る前に、スマホへの録音も許してしまったんです」
修平は照子の話を聞きながら、あることが引っかかっていた。
「そういえば、長谷川。お前もあの動画の音を聞いたんだよな」
「聞きましたね」
「普段から元気な部類ではあるけど、おかしなところは……」
修平はそこで、少し口をつぐんだ。
「なんで、そこで黙るんですか」
「いや。いつも多少おかしなところはあるかと思って」
「なんすか、それ」
長谷川が笑う。しかし修平は笑わなかった。口には出さなかったが、今日の長谷川にはいつもとは違う何かを感じていた。照子に向かって、そのことを続けた。
「照子さん。その……音を聞いても問題ないということがあり得るんですか」
「ああ」照子は静かに言った。「それには理由があると思います。アイコトバを聞くときの状況が関係しています」
「状況?」
「先ほど、儀式は山の中の小屋で行うとお話ししましたよね。あれには、密かに行うという理由のほかに……アイコトバをどう聞かせるかで、効果が変わるということがあったようなんです」
「どういうことですか?」
「儀式では、対象者を挟む形で呪術師がふたり座り、両側から同時にアイコトバを唱え続けます。そのとき、雑音や別の音が混じると、効果が出にくい。できるだけ無音で、アイコトバだけが集中して聞こえる状態。それを繰り返し、五分以上は必要だったと」
長谷川が反応する。
「なるほど。私はスマホで適当に流していただけですし、五分もちゃんと聞いてたわけじゃないですから。だから大丈夫だったということか」
「ただ」と照子が付け加えた。「条件が揃っていなくても、少しは影響することもあるようです」
修平は、何かが繋がる感覚があった。
「長谷川。今回、俺を誘ったとき、いつもよりちょっと強引だと思ったんだよ」
「そうっすか?」
「俺自身もあの土地へ行く口実を探していたのは確かだけど……お前のテンションが、いつもより少し高かった気はしてたんだ」
「気分が上がっていても、自分では気づきにくいようですから」
照子にそう言われ、長谷川は首を傾げている。その顔に、悪気も自覚もなかった。
「ところで、凪さんはアイコトバをどうやって聞いたんですか」修平が聞く。
「カセットテープの音をスマホで録音して、イヤホンをつけてしばらく聞いていたようです。今思えば、それで山の中の小屋の状況が再現できていたのかもしれません」
「それって」長谷川が何かに気づいたように口を開いた。「最近のイヤホン、性能が上がってるじゃないですか。特にノイキャンがついていれば、外の音が消えるんで……山の中に行かなくても、同じ状況をつくれるってことじゃないですか」
「ノイ……キャン?」照子が聞き返す。
「外の音をイヤホンが消してくれる機能なんですよ。性能が高いと、本当に余計な音が消える感じで。あの、エアポッズとか、聞いたことありません?」
照子は、少し困ったような顔をした。
「凪さん、白いイヤホンとか耳につけていませんでしたか?」修平が聞く。
「そう……言われれば、そんなような気も」
修平は、美樹にせがまれて買ったエアポッズのことを思い出していた。
「それに」長谷川が続けた。「インスタのショート動画って、放っておくと同じ動画が繰り返し流れ続けるんですよ。だから音も延々と……五分以上でも」
修平は息を呑んだ。
「つまり……ノイズキャンセリングのイヤホンとショート動画の組み合わせで、山の中の儀式小屋の条件がつくれてしまうということか」
「そうです。そう考えると、再生数もコメントもあったのに、おかしな行動をした人とそうでない人がいることにも説明がつく」長谷川が言った。「イヤホンをしていて、繰り返し長時間聞いてしまったかどうか、でしょうね」
車はそこで速度を落とし、ゆっくりと止まった。
前方に、いつのまにか渋滞の列ができていた。
修平はスマートフォンを取り出し、美樹へ打ち込んだ。
〈今日はショート動画を絶対に見るな。理由は帰ってから説明する。あと、イヤホンも使うな〉
打ちながら、なんだこのメッセージはと自分でも思った。それでも、送信した。
いつもすぐにつく既読が、なかなか現れない。
しびれを切らして、修平は美樹に電話をかけた。
発信音が鳴り続ける。
薄暗くなりはじめた高速道路の前方には、赤いテールランプが延々と続いていた。その先に何があるのかは、まだ見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます