三十歳過ぎてから発達障害だと診断されても既に詰んでるって話

谷地雪@第三回ひなた短編文学賞【大賞】

一話

 発達障害。

 この言葉が認知されるようになってから、様々なエッセイが世の中に登場した。

 今更、と思われるかもしれないが、私は去年2024年に発達障害の診断を受けた。

 三十代、独身、実家暮らし、非正規雇用。

 このワードだけでも、なかなか詰み具合が窺い知れるのではないだろうか。

 皆、なるべく自分に近いケースを探したり、自分より酷いケースを見て安心したりしているものだ。なら、これも数多ある中の一つのサンプルとして役に立つかもしれないと、筆を執っている次第である。

 尚、筆者は女性だが、理解のある彼くんは登場しないので安心してほしい。


 発達障害、という言葉自体は、十年以上前からあった。

 2004年に発達障害者支援法が公布されたが、この頃はまだそれほど知られてはおらず、世間に広まったのは2016年に同法が改正された後、徐々に浸透していったように思う。

 

 今でこそ多様性という考え方により、障害者も受け入れられつつあるが、平成以前はもっと冷ややかだった。特に精神障害者というのは、イコール異常者くらいの偏見があった。私の通った小学校にも障害者学級はあったが、誰の目にも明らかな児童のみが通う場所であった。目に見えない障害、などは存在しなかった。

 全員が平均であることが求められ、逸脱することは許されなかった。我が子が普通の子と違うことは恥であったし、不登校など世間に顔向けできなかった。

 学習に大きな問題のなかった私は、両親に「普通の子」として育てられ、世間にもそのように扱われた。


 しかし、私自身は幼少から生きづらさを感じていた。他の子と違う、という自覚があった。

 子ども心に最も問題だと思っていたのは、コミュニケーションの不得手だった。

 これは子ども社会では由々しき問題で、私は友達が少なかった。その数少ない友達ですら、あまり仲が良いとは言えなかった。楽しかった記憶はなく、嫌な思い出ばかりが残っている。


 コミュニケーションが不得手な者には、「コミュ障」という呼び名が与えられる。

 コミュ障には様々なパターンがある。わかりやすいパターンは二つ。

 一つは、コミュニケーション不足。失敗のトラウマなどにより人と関わることを避け続けたがために、圧倒的に経験値が足りずに、一般的な基準より理解が劣る。

 これは単なる経験値不足なので、無理やりにでもコミュニケーションをとっていけばやがて解決する。学習により克服できる。

 もう一つは、生まれついての性質。人の言葉が理解できない。感情を読み取れない。思ったことをそのまま口に出してしまう。これは、残念ながら具体的な解決策が無い。

 私は後者だった。後者だった、ということが、生きていく内にわかっていく。

 そんな馬鹿な、気をつければ治る、学習できる、と思うだろう。私もそう思っていた。必死で努力した。しかし、これが治らないのが、障害なのだ。

 必死の努力の甲斐あって、大人になる頃には、そこそこの擬態はできるようになった。特に女性の場合、集団に溶け込めないことは死を意味するので、擬態が上手いケースが多いという。ただその擬態のために並々ならぬ努力をしているため、常にひどく疲弊している。

 

 コミュ障というのは、口下手な者を指すのではなく、言わなくていいことを言ってしまう者のことだ、と指摘する言葉が相次いだ。これぞまさに、発達障害の特性である。

 どんな障害も一律同じ症状が出るわけではない。全ての発達障害者に当てはまるわけではない、という前提は当然のものとしてある。

 その上で、傾向として言うが、元々はお喋りが好きな者が多いようだ。自己開示をしすぎるのも特性で、言わなくていいことまでべらべら喋ってしまう、話題を自分の方へ持って行ってしまう、などがある。

 けれど成長するにつれ、これはおかしいぞ、と気づける者もいる。何故だかいつも嫌われる。私が話すと空気が悪くなる。周りが嫌な顔をする。

 

 ならば喋らない!!

 

 発達障害者は思考が極端なので、こうなる。そしてろくに会話すらしない愛想の悪い人間が出来上がる。

 しかし、専門医からしてもこの「会話を避ける」というのは有効な手段らしい。

 会話に限らず、他の様々な困りごとに対しても、あらゆる具体的な対策を考えていくことになる。その中で、最も意味のない対策は「気をつける」である。

 つまり、臨機応変さが求められる会話では、毎回決まった対策が取れるはずもなく、「気をつける」では特性に由来する問題を回避することはできず、結果「黙る」が最適解ということになる。

 

 なんとか改善できないかと、PDCAを書き出したり、日記をつけてみたりしたこともある。人間関係も仕事と同じだと。起こってしまったことを分析し、何が問題だったのか、次はどうすれば良いのかを考えていけば、その内パターンが掴めるのではないかと。

 駄目だった。「やってしまった」ことはわかるのに、その改善策が浮かばない。「次はこうすれば大丈夫」の答えがないから、対策が取れなくて、何度も同じことを繰り返す。

 自分で考えるから駄目なんだと人にアドバイスを求めても、具体的な解決策は得られない。ケースバイケース。空気を読む。それができないから、悩んでいる。けれど人間関係に明確な答えなどない。

 答えの出ることは簡単だ。日本語が理解できないわけじゃない、文章から読み解くことはできる。だから国語は得意だった。文章からなら、いくらでも心情理解はできる。だって答えが書いてあるから。なのに現実は、どこにも答えがない。

 

 なんということだ。発達障害者は、友人と気兼ねなくお喋りすることすらできないらしい。

 発達障害者にも感情はある。一人は寂しいし、友達は欲しい。楽しい時間を共有したいし、喜んでほしいし、当然傷つけたくはない。しかし不用意に会話をすると相手を傷つけてしまう。友達でいたいなら、一生懸命気を遣って、なるべく自分は話さないようにしながら、相手には楽しんで喋ってもらわないといけない。

 この状態をキープし続けるのは、大変な労力を要する。


 ならば友など要らない!!


 こうして立派なぼっちが出来上がるのである。

 必要な会話は最小限で済ませる。相手に喋らせようとするので、初対面の人間とは意外に会話が弾んだりもする。しかし二度目はない。私の場合は顔と名前が覚えられない特性も加わって、二度目の対面は恐怖だった。また、相手が寡黙な場合は沈黙に耐えられず、結果余計なことをべらべら喋り出したりもする。

 文字にすると不思議に見えるだろうが、「空気が読めない」と「悪い空気に敏感」というのは両立する。

 空気が読めないというのは「気が利かない」という意味であり、「相手がなんか怒ってるな」みたいなピリつきにはむしろ敏感だ。そのため怒りを緩和しようとして要らないことを言い、火に油を注いでいくのである。

 もう本当に、対策は「喋らない」しかない。だから私は、一時期壁一面に「黙れ」と書いた紙を貼っていた。

 とにかく、黙っていなければと思った。口を開けば全て失敗に繋がる。可能な限り、口を閉ざしていなくては。余計なことは、何もしちゃいけない。良かれと思ったことはほぼ裏目に出る。

 私の発言は求められていない。私の意志は求められていない。私はいつも間違ってしまうから。

 他人の要求にだけ答え続けていかなくては。他人の方が圧倒的に正しいのだから。正しいものに従わなくては。

 

 この考え方は、モラハラの餌食になりやすい。それでも、自分が劣っているという自覚があるため、自己肯定感が低く、軸を他者に置くのが癖になっていた。案の定あちこちで目をつけられ、純粋なミス以外にも異常に怒られやすい、目を付けられやすい、槍玉に上げられやすい人間が出来上がっていく。

 加えて発達障害者は感情が表に出にくい。感情がない、とも言われたりするが、当然感情が全く無い人間など存在しない。感情がないなら、発達障害の二次障害に鬱が多いはずがない。

 落ち込んで見えない、反省して見えない、だから叩いても平気。そう思われて、普通より更にひどく怒られる。

 もうそうなると病むしかない。

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