憧れた夏
長月将
第一話
旅に出ようと思った。理由は特にない。ただの衝動だ。
大学休業の夏休み。退屈な日々。友人たちも実家へと帰省している。親との折り合いが悪い俺は家に帰らずに、ただ暇な夏休みを怠惰に過ごしていた。教授から出された課題も早いうちに終わらせたため、もう何もすることがない。
そういうわけで旅に出ようと思ったのだ。本当にただの衝動だ。
まずは荷物を詰める。着替えにタオル。あとは日記用のメモ帳。
俺は日記をつけるのが日課だ。主に手書きで日記を付ける。スマホは使わない。
スマホはあまり活用しない。現代の技術ではスマホで何もかもが出来てしまう。でも俺はそれが怖く感じてしまう。スマホで何でも活用してしまうと、いざスマホが無くなった時に何も出来なくなってしまう。そう感じてしまったから、俺はスマホの活用を控えている。使う時は連絡や何かを調べる時用だ。まわりからは時代に取り残された感はあるが、仕方がない、それが俺だ。
さて、荷物の続きだ。あとはタオルと音楽を聴くための古いIPodを詰める。
俺は音楽が好きだ。どこに行くにも、何をするにも音楽を聴いている。イヤホンで耳を塞いでいない時は風呂に入っている時だ。耳をイヤホンで塞いでいないと気が済まない。音楽好きというよりかはそう言った病気かもしれない。それほど音楽好きだ。
また話が逸れた。荷物を詰めていかなければいけない。あとは……――。
もうだいたい詰め終わった。家を出よう。
〇 〇 〇
夏は好きだ。
何かが待っている。何かの出会いがある。そんな期待が、この季節になるたびに訪れていた。
……だけど今まで出会いなんか訪れたことはない。
それでも夏は好きだ。
毎年、夏が訪れるたびに、心が躍る。
夏が来てからいつもうずうずしている。何か面白い事、楽しい事、心が躍ること、跳ね上がることが起きないか。いつも何か起きないか楽しみになってしまう。
だけど時間はただ過ぎ去ってしまうだけだ。
そして夏は終わる。何も起きないまま……。そのたびに俺の心はがっかりする。
それは入道雲がいつの間にか薄くうろこ雲へと変わるように、俺の心も期待から諦念へと変わる。
そうして冬になり、春になり、また夏になる。また期待が始まり、諦念へと変わる。
だけど、夏が来るたびに思う。
何か楽しいことが、面白いことが起きないか。
今年も期待を胸に秘めていた。
〇 〇 〇
駅へと着いた。SUICAに目いっぱいのお金を入れる。目的地は決めていない。気の向くままに電車に揺られて、適当な駅で降りようと思っている。行く当てのない衝動的な旅だから、それが良いと思う。
ただ方角は決めていた。なんとなく南の方角に進んでみたかった。やはり理由はない。ただの衝動だ。
SUICAのチャージを終えた。二万円ほど入れておけば行き帰りまで保つだろう。
カードをかざして改札を抜ける。そのまま真っ直ぐホームへと向かう。
お目当ての電車へと乗る。人は多いが幸運にも座席に座ることが出来た。
音楽を掛ける。イヤホンからビートルズの「一人ぼっちのあいつ」が流れる。ビートルズの中ではお気に入りのナンバーの一つだ。
古い洋楽が好きだ。中学の頃にビートルズに出会って、それからはまってしまった。そして大学生の今に至るまで様々な洋楽を聴き続けた。今は初心に帰って、ビートルズを聴き返している。
アナウンスが流れ、電車が出る。
電車は行く。南へとどんどんと下っていく。
音楽に耳を傾けながら車窓から外を眺める。都会の風景から、自然が増え、田んぼが見え、田舎の風景を見せ始める。
たくさんいたはずの人々が、その数がまばらになる。
イヤホンからは「シーズリービングホーム」が流れている。別に家出ってわけではないが、どんどんと住んでいた場所から遠くへ行く感じは、どこか解放されると言うか、自由になるって感じになる。どんどんと遠くへ行きたい、そんな想いに馳せる。
やがて電車は終点駅へと着く。だがまだまだ進みたい思いが馳せる。電車を乗り継げばまだ先へと進めるみたいだ。
南へと進む電車へと乗り換える。この電車もこのまま終点駅へと向かおう。
やがて瞼が重くなる。その眠気に身を任せる。やがて意識は手放した。
目覚めてみれば、車窓の外は海が広がっていた。
まばらだった乗客の数も、数人になっていた。
時計の針は夕方近くを指している。そして次の駅が終点駅らしい。
よし、ここで降りよう。
降りる準備をする。忘れ物が無いか確認する。
アナウンスが流れ、車両が徐行する。やがては停車し、ドアが開く。
数人の乗客と共に、俺は電車を降りた。
潮の香りがする。耳からイヤホンを離す。海の音が聴こえてきた。
〇 〇 〇
駅から出て駅前を歩く。こぢんまりとした駅前通り。都会ほどではないが人で賑わっている。でも都会の賑わいに慣れた俺にとっては、このこぢんまりとした町並みがなんだか物足りない。
前から子供たちが歩いてくるのが見えた。子供がこちらへとやって来る。すると子供たちがこちらを指差してこそこそと言っているのが聞こえてきた。
「あのあんちゃんは誰だ? 見なれない奴だな?」
「おしゃれな格好をしているな? 都会者じゃないか?」
「じゃあ、お金持っているんじゃないか?」
「そうだ、カツアゲしようぜ」
「ジャンプさせようぜ」
……なんだか恐ろしい事を言っている。
俺はくるっと回って来た道を戻り始めた。
すると子供たちも俺の後を付いてきている。
――なんで付いてくるんだ?
俺は歩く足を速める。後ろを付いて歩く子供たちも、俺の速度を合わせるかのように足を速めている。
俺の足は次第に早歩きから駆け足になった。子供たちも駆け足になる。
――俺はなんでこんな所で走らなければいけないんだ?
徐々に後ろの子供たちとの距離が離れていく。
やがては後ろに付いていたはずの子供たちが見えなくなった。
諦めてくれたか……。
辺りを見渡してみる。砂浜に立っていた。目の前に海が広がっている。
夢中で走って気づかなかった。
壮大な海の景色に、俺は目を奪われた。俺はこれまで海に来るという事はなかなか無かった。だから海を眺める機会なんて滅多にない。
海の先、水平線が見える。俺の目は水平線の彼方に吸い込まれていた。なんて目が奪われる光景なんだ。海の景色がこの先へと続いているんだ。
もっと景色の良い所でこの海を見たい。そう思った俺は、周りを見渡した。小高い丘が目に映った。これはいい。あそこから見渡したら、さぞかし良い光景なのだろう。
丘の方へと歩いた。
途中立て看板が目に映った。
『早まるな』
なにやら物騒な事が書かれた立て看板。なにを『早まるな』なんだろう?
俺はそれを横目に見ながら丘を登った。
〇 〇 〇
景色を眺めるのが好きだ。
何かを考える時、誰かに恋をした時、失恋した時、泣きたくなる時……。
何かが浸るたびに、俺は遠くを眺める。
空でも、遠くでも、地面でも、とにかく景色を眺めるのが好きだ。
そして思いを募らせる。もしくは気持ちを切り替える。
不器用な人間なりの、処世術だ。
〇 〇 〇
「すっげー……」
声が出た。声が出るほど、その光景に心を奪われた。
先ほど見た海よりも、さらに視界が広がった。遠くの水平線が広がっていた。はるか彼方に船が見える。何の船だろうか? 漁船? 客船? とても大きそうな船に見えた。空には海鳥が見える。海鳥が矢じりのように並んで飛んでいる。
「こんな光景、初めて見た……」
息を飲んだ。
やがて涼しい風を浴びる。ぶるっと震える。少し体が冷えてきた。
冷えた体を抱えるように、両手で両脇を抱く。もうそろそろ戻ろうか……。
ふと下を向く。自分が立っている場所、そこは崖だった。崖のはるか下には、水しぶきが上がる海。岸壁に打ち付けられた波がざぱーと音を立てている。
ごくっと喉が鳴った。視線が崖下へと吸い込まれていく。落ちたらどうなるのだろう? 体が落ちた先に、海に打ち付けられて、木っ端微塵に砕け散るのだろうか? それとも弾丸のように海の底へと突き抜けるように落ちて行ってしまうのだろうか? 想像しただけで体が震えた。どちらにしろただでは済まないだろう。
「そこにいると危ないよ」
声が聞こえた。
振り向くと、そこには女性が立っていた。
俺を見つめている女性。不思議そうな表情を浮かべている。
彼女の声を聞いて、俺は初めて後ずさる。
「君、ここの人じゃないよね? 旅行者?」
女性が尋ねてくる。
「そうですよ」
俺は答えた。
「そう。でもここはあまり見る所なんて無いよ。それにこんな場所に立っていると危ないよ? いろいろな誤解を受けると思うよ? 私じゃなくて警察の人が話しかけていたら、君は警察署に連れていかれていたと思うよ?」
「そ、そんなこと……」
言われて気が付いた。先ほどの立て看板。ここはそう言う場所なのだろう。
「ほら、早くここから去ろう」
女性が手を差し伸べる。俺はその手を取った。
女性と共に崖を下りる。砂浜へと戻ってきた。もうすっかり夕方だった。
ぎゅるると腹が鳴る。そう言えば、駅を出てから何も食べていない。
「お腹が減ったの?」
女性がこちらを見つめる。
「……そうみたいです」
俺は、お腹が鳴った恥ずかしさに、ボソッと答えた。
「…………」
女性が思案気に黙り込む。やがて……。
「ここから近い所に美味しいラーメン屋があるんだけど、食べに行く?」
女性の提案に、俺は頷いた。
〇 〇 〇
俺の親父は言っていた。腹が減った時にすぐに飯を掻っ込めと。
腹が減った時は、やる気が陥るらしい。だから急いで何かを食べる必要があるらしい。
腹が減ったのを放置するのは恥だとも言われた。
何かをする時、何かを為したい時、腹に何かが入っている状態でなければいけない。
そう親父は言っていた。
……無茶苦茶な理論だと思う。
だけど、その話を聞いた時、いかにも親父らしくて笑ってしまった。
〇 〇 〇
ラーメンをすする。ヌードルハラスメントお構いなく、ずるずると吸い込まれるように口の中へと流れ込む。一噛み、一噛み、麺の感触を味わいながら麺を噛む。弾力のある麺。その歯ごたえのある麺を、ゴクンと飲み込む。
スープを飲む。ずずずと音を立てスープをすする。スープが口から胃へと流れる。熱と共に魚介ベースのしょう油の味が舌を刺激した。
当たりだった。その美味さに舌鼓を打った。女性が言う通りにここは美味いお店だった。
俺の隣の席で女性が麺をすする。ヌードルハラスメントよろしくと言った豪快な食べっぷりだった。
「どう、ここのラーメンは?」
「美味いです」
女性の質問に、俺は正直に答えた。
美味いものは美味いとしか言いようがない。
「私も食べたいと思ってたからね。これで心残すことなく食べることが出来たよ」
女性が豪快に器を持ちながらスープを飲み干す。
その豪快な食べっぷりに感激する。
俺も負けじと麺をすすった。
「良い食べっぷりだね」
「そちらこそ」
俺たちは共に称え合った。
そして俺の器も空になる。
「なんか気が乗っちゃったし、まだまだ時間があるよね」
女性が腕時計を見る。高級そうではないが、そこら辺で安く売ってそうな赤色の可愛らしい腕時計だった。
女性は立ち上がり、俺の手を引っ張る。
「ほら、次行くよ」
女性の手によって、立たせられて、会計へと向かった。
〇 〇 〇
女性と町中を歩く。
大きくもなく、しかし小さくもない町。だけど女性が言うには「それでも何でも揃っている」らしい。
「君、ビリヤードって出来る?」
俺の顔を見て女性が聞いてくる。
「いや、やったことないですよ」
俺は正直に答えた。
「あれって難しそうじゃないですか?」
ビリヤードをプレイする人を見るたびに、なんて難しそうなことをやっているんだろうと感動を覚えてしまう。
端から見たら高度な遊びをしているように見えた。
「それじゃあ、私が君の初めてを奪ってあげよう!」
……言い方が卑猥だ。
「大丈夫大丈夫。私がじっくりと教えてあげるから!」
行先が決まった。
〇 〇 〇
ビリヤードの歴史はとても古いらしい。
起源の一つとしては、紀元前のギリシャにて地面に丸い棒を突く競技というものがあったようだ。日本の歴史で言うとどの時代に値するんだろうか? 縄文か弥生時代だろうか?
とりあえず、そんな昔からビリヤードの原型と言うものがあったみたいだ。
そしてやがてビリヤードはヨーロッパに広まり、今の形になったらしい。
しかし日本に伝わったのがだいぶ後で、初めて伝わったのが江戸時代だと言うのが驚きだ。あの侍たちが蔓延る時代に、そんな西洋の競技が伝わったのだ。当時の日本人たちはどんな興味を持ってプレイしたのだろうか? 刀を差したちょんまげの侍が静かにビリヤードをする姿を想像したら、少し可笑しい気持ちになった。
明治時代になると、東京に最初のビリヤード場が出来たらしい。それから昭和には全国に広まり、戦後になると一般的なスポーツとして広く楽しまれるようになった。
そんな歴史を、帰った後に調べてみた。
〇 〇 〇
「それじゃあナインボールをやろうか?」
「ナインボール?」
「あぁ、そっか。ルールをまだ教えていなかったよね?」
女性からルールを教えてもらう。
ナインボール。
一から九まで数が書かれたボールを一から順番にポケットという穴に落としていき、最後に九を落としたプレイヤーの勝利、と言ったゲームだ。
「それじゃあ、私からブレイクしていくね」
そう言って女性は壁に掛かれたキュー――ボールを突く棒状の道具を手に持つ。そしてキューで白のボールを狙い、突いた。突かれた白のボールはボール群に向かい、そして弾いた。弾かれたボールたちはバラバラとなり、ビリヤード台の上を散開する。
「それじゃあ、君から一から順次ボールを落としてって」
俺は言われるままに、白のボールを一と書かれたボールへ向けて突いた。しかし突かれたボールは一と書かれたボールとは違う方向へと向かった。
「ファウルだね、それ」
そう言って女性は白のボールを突く。ボールは真っ直ぐ一のボールへと向かい、当たった。そして一のボールはそのままポケットの中へと落ちて行った。
「次も私だね」
そして女性はまた白のボールを突く。次は二へ向けて。弾かれた二のボールもそのままポケットの中へと落ちて行った。
「今日は私調子良いみたいだね」
そう言って女性は再び白のボールにキューを向ける。
このゲーム、ボールを落とした人が連続してボールを突けるみたいだ。
そして白のボールを突いたが、ボールは三ではなく六に当たった。
「あちゃー、違うのに当たっちゃったね」
残念そうな顔を浮かべて、女性は椅子へと座る。
「君の番だよ」
どうやら俺の順番のようだ。
俺は三のボールに向けて、白のボールを突いた。白のボールは三のボールへと向かっていく。白が三を弾いた。しかし三のボールはポケットへと届かなかった。
「待った。それノークッションだね」
「ノークッション?」
「台の外枠にボールが届かなかった場合だね。それもファウルになるよ」
「なるほど……」
ファウルの種類もいろいろとあるもんだな。
「ちなみに、三回連続でファウルを取ったら一ラック失うから気を付けてね」
「ラック?」
「ゲームの点数みたいなもんだよ。それじゃあ、続きをしていこうか」
いわゆるゲームのチュートリアルは続いた。
「これでルールは分かった?」
「はい」
「それじゃあ、本番と行こうか」
「わかりました」
「じゃあ、負けた方がお酒を奢ってもらうことにしよう」
「いいですよ」
そう言った賭けのルールも悪くない。
負けられない勝負が始まった。
そして、負けた。
〇 〇 〇
「それじゃあ、乾杯」
こつんとコップをぶつけ、口を付ける。酒の苦みが口の中に広がる。
ビリヤードで俺に勝った女性は、勝利の味を楽しむようにごくごくと飲み進めて行った。
「初めてのビリヤード、どうだった?」
「なんと言えばいいのか……なんだか圧倒されました」
初めてのビリヤードなのにあんなに完敗されて、軽くトラウマを植え付けられてしまった。しばらくはやりたくないって思いがあった。
「君って学生さん?」
少し酔った女性が、顎に手を乗せながら聞いてくる。少し色気があった。
「そうですよ。絶賛大学生ですよ」
口に含んだ酒をゴクンと飲み込みながら頷いた。
「そっかそっか……いいなぁ、大学生。青春って感じだよね……」
「……そうでもないですよ」
これまでの大学生活を思い出す。
学校に行っては講義を受けて、ノートに噛り付いては口を開けて欠伸をする。いつの間にか眠ってしまい講義も終わっている。
友人もいるにはいる。たまに遊びに行ったり一晩中酒を飲み交わしたりと、そんな生活を送ったりしている。
たしかに青春っていうほど、それらしいのは送ってはいなかった。
「それで、なんだってこんな辺鄙な町に来たの? ただの旅行?」
「それは……ただの暇つぶしですよ」
ただの暇つぶし。自分で言って内心そうだと納得した。
ただ乗っていた電車を降りただけ。旅らしい旅をしたくなっただけの、ただの暇つぶし。暇な夏休みに、何か刺激的なもの与えたかっただけ。そうとだけしか言えなかった。
「ふーん……」
急に興味を失くしたかのように、女性はコップに口を付け、ちびちびと酒を飲む。
そう言えば、と思い出す。
こうして出会ったこの女性の事も、俺は何一つ知らなかった。
あの海越しの崖で出会って、共にラーメンを食べて、ビリヤードをして、こうして酒を飲んでいる。すでに知り合いを超えてしまっているような感じだ。言ってしまえばもう友人関係だ。それなのに、俺はこの女性の事は、なに一つ知らなかった。ましてや彼女の名前すらも知らない。
そうだ、お互い自己紹介もしていない。
「あの……」
「あ、私の事を知るようなことはしないでね」
俺の考えていたことを見透かしたのか、彼女は釘を刺してきた。
「私はただの女。ただのどうしようもない女だよ」
すっかり酔いしれた女性がコップに入った酒を揺らしながら、遠い目を浮かべていた。その姿が、どこか儚げだった。手を伸ばしても彼女は透けてしまう。そんな感じを抱いてしまった。
ふと彼女はズボンのポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。酔っているはずなのにその慣れ切った仕草に、目を奪われた。
煙草に口を付けて、煙を吐き出す。
「君も煙草をやる?」
こちらに煙草のケースを向ける女性。
「いや、俺はやらないですよ」
「……うん、それが賢明だよね」
ふっと苦笑を浮かべながら、煙草のケースをポケットに戻す。そして煙草を吹かした。
ふと昔のフォークソングの『プカプカ』という歌を思い出した。自由気ままな女性の男性を愛して止まない曲。最後は悲壮を思い浮かべる曲。彼女を見ていると、そんな歌を思い出してしまった。
彼女の浮かべる顔が、どこか儚げに見える。どうしてそう思ってしまったかは知らない。
どう言えばいいか分からないが、まるで彼女が自分のいる世界とは程遠い場所に存在しているかのような印象だ。
なぜそんな印象を抱いたのだろう。あとで振り返ると、かすかにこの後見る結末に手を触れかけたかのような、そんな印象を察知したのかもしれない。
その後言う彼女の言葉も、どこか奔放的な感じだった。
「君は、経験ある?」
「え? なんの?」
「あっちの経験だよ」
あっちの経験。あっちとはアレなのだろうか? この場合下世話な話の。
思索する俺の顔を見ながら、女性は笑みを浮かべた。
「もうちょっと時間はあるよね?」
彼女の誘いを意図してしまった。
「…………」
思わず俺は無言のまま頷いてしまった。
それを見て彼女は小さく笑みを浮かべる。しかしその笑みはどこか悲しそうだった。
〇 〇 〇
とあるホテルのベッドの上。
彼女は俺の上で、巻いていたタオルを外した。
その綺麗な素肌に俺は見惚れた。
そして彼女は動いた。
思わぬ形での、俺の初めての経験だった。
〇 〇 〇
朝、目を覚ますと、彼女の姿はなかった。
ただテーブルの上には書置きがあった。
『ありがとう』
それだけの書置き。
それを見てため息を吐いた。
〇 〇 〇
近くのカフェで朝食を食べる。
もうここにいても仕方ないと感じた。
「帰ろう」
そう口にした。
ふと彼女の事が思い浮かぶ。
帰る前に、もう一度会いたい。
しかしどこに行けばいいのか、どこで彼女と会えるのか分からなかった。
ふと思い出す。彼女と初めて出会った場所。
思い出した途端、俺の足は歩き出した。
そこに行けば、また会えるかもしれない。
ゆっくりと足は海へと向いていた。
〇 〇 〇
海に着くと騒がしかった。
救急車と警察車両が止まっていて、人だかりが出来ていた。
俺は人だかりの中の一人に声を掛けた。
「どうしたんですか?」
「飛び込みだってよ」
飛び込み……。
その言葉を聞いて、ここに立てかけられていた立て看板を思い出した。
『早まるな』
どうやら、その言葉の意味は、そう言う事なんだろう。
ふと救急隊員が担架を抱えて現れた。
担架には何かが乗せられていた。その上にはシートが敷かれて、中の物が見えなくなっている。
ふと救急隊員の足が何かに躓き、担架が揺れた。そしてシートの中から何かが飛び出してきた。
人だかりが騒然となる。
それは腕だった。シートから零れ出た腕が、その腕に巻かれてあるのは、高級そうではないが、そこら辺で安く売ってそうな赤色の可愛らしい腕時計。
見覚えがあった。
……そう言う事か。
彼女が昨日あそこにいた理由。昨日、俺がいなかったら、したであろう彼女の行動。
そんな思いに至って、俺の心は急激に冷めていった。
「帰ろう」
救急車に積まれるであろう担架を見守ることもなく、俺はその場を後にした。
〇 〇 〇
電車は走る。帰路の線路を走る。
俺の耳にビートルズの「ザロングアンドワイディングロード」が流れていた。その歌詞と俺の心が浸透する。
まるで俺の心も曲がりくねった道を走っているみたいだった。
決して消えることはない経験をしてしまったと思う。
車窓の外を眺める。景色が移り変わっていく。
それを眺めながら、ただ心の中は様々な思いが巡り巡っていく。頭がぐるぐると回る。
彼女と初めて出会った時。ラーメンを食べた時、その食べっぷり。ともにビリヤードをプレイした時。お酒を飲んだ時。初めて経験した夜。
彼女の一つ一つの仕草が脳裏にこびりついていた。彼女の言葉が頭に響く。彼女の身体が目に焼き付いていた。
彼女との出会いは、俺の長年待ち望んでいた夏の憧れだったのかもしれない。
だけど、もうそんな夏も過ぎて行ってしまった。
だからもう考えるのにも疲れた。
俺は考えるのを放棄して、目を瞑る。
曲が終わりへと差し掛かって来る。もうビートルズのプレイリストも終わりかと思いながら、静かにまどろみの息を整えていく。
憧れた夏 長月将 @SHOW888
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