君の耳を食べたい
アガタ
薔薇色の福耳
鬼は人間のこぶを取る。
何故って昔からそう決められているからだ。
少女は友達と小学校への道を歩いていた。少女は鬼だった。もう随分長い間小学生に擬態している。鬼の胸につけた名札が揺れる。
この名前も、今の姿も、全部仮のものだ。鬼は人間の「心のこぶ」を食べて生きる。嫉妬、怒り、孤独、後悔……人間たちが抱える負の感情は、私たちにとって甘い蜜のようなものだ。
だが、と灯は思った。私が今狙っているのは普通の「こぶ」じゃない。もっと特別なもの。
薔薇色の福耳。
福耳は、人間の中でも限られた人しか持たない。しかも、生きたままの福耳は滅多に手に入らない。病院で切除されたものなら時々手に入るけど、それはもう味気ない冷凍食品みたいなもの。やっぱり、あのぷにぷにとした生の福耳を直接口に入れるのが一番美味しい。
そんな最高のご馳走が、今私の隣を歩いている。
彼女はまんまるでふわふわとしていて、笑顔が絶えない、「良い子」だ。耳には薔薇色の福耳がぴょこんとついていて、見るだけで涎が出そうになる。
でも、めいは良い子すぎる。彼女と一緒にいると、福耳を奪いたいという衝動と、彼女を傷つけたくないという気持ちがせめぎ合う。
鬼はこぶを取る存在だ。それが灯たちの本能だ。
けれども灯は、福耳を奪えないでいた。
福耳を奪えば、彼女との関係は終わる。友達としての時間も、めいの笑顔も全部消えてしまうだろう。灯はそれが怖かった。
それでもあの福耳に唇を押し当てて、噛みしめる瞬間を想像するたびに、胸がざわざわして仕方がない。
朝の光が差し込む校門前では、生徒たちが笑い声を上げながら次々と校舎へと吸い込まれていく。どの顔も生き生きとしていて、これから始まる一日を心待ちにしているようだった。
めいに少し遅れて校門をくぐった灯は、ピンク色のランドセルを背負い、何気ない表情を浮かべながらも、周囲の空気を感じ取るように目を細めていた。彼女の視線が一瞬、校庭を走る生徒たちの方へ向く。人間たちが心から発する「こぶ」の匂いが、彼女の周囲に漂っている。彼女にとっての特別な朝食だ。
「灯ちゃん、いこ!」
めいが教室へ灯を引っ張る。灯はめいにつれられて教室に入った。ふわふわとした体型に、笑顔を浮かべためいの耳には、薔薇色に輝く福耳がついている。灯にとっては涎が出るほど魅力的なものだったが、めいの純粋な笑顔を見るたびに、その衝動を抑え込むのが灯の習慣になっていた。
「灯ちゃん!今日も一緒に図書室に行こうね!」
めいは無邪気な声で言った。彼女の目は期待に輝いている。
「図書室?」
灯が問い返すと、めいは頷いた。
「うん、『願いの日記』にまた何か書こうと思って!この前の願いはまだ叶ってないけど、きっと書き続ければ叶うよ!」
『願いの日記』とは、図書室の片隅に置かれた古いノートのことだ。生徒たちが願い事を書き込むことで、いつかその願いが叶うと噂されている。学園の七不思議の一つとして知られ、特にめいのような素直な生徒たちの間で人気がある。
「今日は何を書くの?」
灯が聞くと、めいは少し恥ずかしそうに笑った。
「えへへ。それは秘密。でも、すごく大事なこと!」
灯は彼女の笑顔を見つめながら微笑した。
午前中の授業が終わり、教室は昼休みのざわめきに包まれていた。生徒たちが机を寄せ合い、お弁当を広げる音が響く。
「大変だ!」
突然、教室に新聞クラブの猿田が焦った様子で駆け込んできた。
猿田の声は少し震えていた。
「どうしたの?」
灯が尋ねる。猿田は息を整えながら続けた。
「図書室の『願いの日記』がなくなったんだって!」
教室のざわめきが一瞬止まったように感じられた。灯は驚いた表情を浮かべながら、猿田の言葉を待つ。
「さっき図書委員が教えてくれた!今朝、図書室に行ったら、日記が置いてあった棚が空っぽだったって……」
猿田の言葉には、不安と動揺が混ざっていた。生徒たちにとって『願いの日記』はただのノートではないのだ。
「誰かが持っていったの?」
灯が静かに尋ねると、猿田は小さく頷いた。
「たぶん……でも、誰がそんなことを……」
灯は考え込むように目を細めた。日記が消えた。誰かが持ち去ったのか……
「図書室に行こう」
灯は立ち上がり、めいの手を引いた。
図書室は、昼休みの喧騒とは対照的に静まり返っていた。
棚の前に立っていたのは、図書委員の白石美沙だった。彼女は俯き加減で、じっと『願いの日記』があった場所を見つめている。
灯とめいが近づくと、美沙ははっとしたように顔を上げた。その目には、不安と後悔の色が浮かんでいる。
「美沙ちゃん、『願いの日記』が本当にないの?」
めいが尋ねると、美沙は小さく頷いた。
「朝、棚を確認したら……いつも置いてある場所に、何もなかったの。昨日の放課後には、確かにここにあったのに……」
美沙の声は震えていた。彼女は自分が日記を守る立場であることに責任を感じているのだろう。
灯は棚をじっと見つめた。
「誰かが持っていったんだろうか?」
灯が問いかけると、美沙は力なく首を振った。
「わかんない……」
めいが心配そうに彼女の背中に手を置いた。
「大丈夫だよ、美沙ちゃん。きっと見つかるよ。ね、灯ちゃん?」
めいが灯に目を向ける。灯は静かに頷いた。
「探してみるよ。誰かが持っていったなら、きっと手がかりがあるはず」
その瞬間、灯の鼻先に甘い香りが漂った。それは人間の「心のこぶ」が発する匂い――罪悪感、不安、失望。誰かが何かを隠している。
真実はきっと、この匂いの先にある。
図書室を出た灯とめいは、廊下を歩きながら誰が日記を持ち去ったのか話し合っていた。
「誰かが本当に盗んだのかな……。でも、どうして?」
「何か理由があるはずだよ。『願いの日記』をただのノートだと思っている人なんていないだろうし」
灯は静かに答えたが、心の中では別のことを考えていた。図書室で感じた「心のこぶ」の匂い。あれは間違いなく、誰かが何かを隠している証拠だ。灯の嗅覚は鬼としての力であり、これまで一度も裏切られたことはない。その匂いの正体を突き止めれば、日記を盗んだ犯人にも近づけるはずだ。
「まず、誰が怪しいか考えてみようよ」
めいの提案に、灯は頷いた。
「最近願いの日記に関係していた子たちに話を聞くか……」
昼休みが終わる前、灯とめいは校庭でサッカーボールを蹴っている風間翔太を見つけた。彼はクラスでも人気者で、いつも明るい元気な奴だ。
風間くんは最近『願いの日記』で願いを叶えたと噂されていた。
「風間くん!」
めいが手を振ると、風間はボールを止めてこちらに向き直った。
「おー、めいちゃんに灯ちゃん。どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
めいが言葉を選びながら話し始めた。
「図書室の『願いの日記』がなくなったの。風間くん、何か知らない?」
風間は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに笑顔を作った。
「あー、あのノートのことか。俺は知らないよ。そもそもあんまり興味ないし」
「でも、最近『願いが叶った!』って言ってたよね。」
灯が静かに指摘すると、風間の笑顔が一瞬ぎこちなくなった。
「あれは……まあ、冗談みたいなもんだよ」
「冗談?」
灯は風間の顔をじっと見つめた。彼からは微かな罪悪感の匂いが漂っている。
風間は目を逸らしながら言った。
「俺、サッカークラブ行ってるだろ?そこのレギュラーになりたいって書いたんだ」
風間がしどろもどろに喋り出す。
「これから言うこと、みんなに黙っててくれるか?」
「なあに?」
「内容による」
「だー!もう……厳しいこと言うなよ!つまり俺、レギュラーになる願い叶えたって言っちゃったけどさ、ほんとはまだレギュラーじゃないんだ」
「えっ?そうなの?」
「つい見栄張って言っちまったんだよ、でもいいだろ、いつかなりゃ、願いは叶う」
風間はそう言ってうそぶく。灯は彼をじっと見つめたあと、軽く頷いた。
「分かった。ありがとう」
風間はホッとしたような表情を浮かべ、再びサッカーの練習に戻っていった。
午後の授業が終わったあと、灯とめいは教室の隅で日誌を書いている佐藤亮介に近づいた。彼はクラスの学級委員で、クールな大人っぽい男の子だ。亮介が最近教室で、『願いの日記』なんか嘘っぱちだと友達に言っていたのを、灯は聞いていた。
「亮介くん」
灯が声をかけると、亮介は本から顔を上げた。
「何?」
「『願いの日記』がなくなったの、知ってる?」
亮介は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに肩をすくめた。
「あんなの、なくなったって別にどうでもいいだろ」
「亮介くんも日記に何か書いたことあるよね?」
めいの言葉に、亮介の表情がわずかに硬くなった。
「……ああ、昔な」
「どんな願いを書いたの?」
「……家族が仲良くなりますようにって。でも、あんなもの信じるだけ無駄だ」
亮介の声には冷たさがあった。灯は亮介のこぶの匂いを嗅いだ。こぶには、深い失望と苦悩の感情が隠れているように感じられた。
灯はじっと亮介を見つめた。彼から漂う「心のこぶ」の匂いは強い。
「亮介くん、本当に日記のこと、何も知らない?」
灯が問い詰めると、亮介は視線を逸らし、低い声で答えた。
「知らないよ、日誌書いてるんだから邪魔するなよ」
そう言うと、彼はぷいとそっぽを向いた。
灯とめいがは、顔を見合わせて亮介にお礼を言って彼から離れた。
「灯ちゃん、どうしよう」
「放課後、図書館に戻ろう」
午後の授業を受けて、灯とめいは放課後、図書室に向かった。
ドアをあけると、美沙がいた。彼女は机に座り、じっと本を見つめていたが、その目はページを追っていないようだ。
「美沙ちゃん」
めいが声をかけると、美沙はびくっと肩を震わせた。
「あ、めいちゃん……灯ちゃんも」
「少しだけ話を聞いてもいい?」
美沙は少し迷ったようだったが、静かに頷いた。
「美沙ちゃん、日記がなくなったの、どう思う?」
めいの問いかけに、美沙はしばらく黙り込んだあと、小さな声で答えた。
「……私、守りたかったの。日記を。私が守らなきゃって思ったの、でも日記、なくなっちゃった……」
美沙の声は震えていた。彼女からは強い孤独感の匂いが漂っている。日記を失ったことで、彼女自身はとても傷ついているようだった。
「ありがとう、美沙ちゃん。話してくれて」
めいが優しく微笑むと、美沙は小さく頷いた。その姿を見ながら、灯は心の中で次の手がかりを探していた。
夕方、校舎の廊下には誰もいなくなり、静寂が広がっていた。灯は一人で歩いていた。めいは先に教室に戻っていて、帰る準備をしている。
吹き抜けのピロティに、灯は立った。風が巻き起こり、灯の黒い髪を撫でて、そよがせた。
灯の心の中には、風間、美沙、亮介、それぞれの言葉が渦巻いていた。
「風間くんの罪悪感は、虚栄心からのものだった。美沙ちゃんは日記を守りたかっただけ。そして亮介くん……」
亮介の冷めた態度と、諦めに満ちた声が頭を離れない。ただの失望以上の何かが隠れているように思えた。
「灯ちゃん!」
後ろからめいの声が響き、灯は立ち止まった。振り返ると、めいが息を切らしながら駆け寄ってきた。
「一人で考え込んでたんでしょ?」
めいは柔らかい笑顔で言う。優しいめいが、灯は大好きだ。
「ねえ、何か分かった?」
「まだ、はっきりとは……」
ピロティの風に吹かれて、めいの薔薇色の福耳はつやつやと輝きを増している。
強烈な香りが、灯の鼻をくすぐる。
――それはめいの福耳から放たれる甘い香りだった。
その瞬間、灯の中で抑えていた衝動が弾け飛んだ。
「灯ちゃん……?」
めいが不安そうに声をかけるが、灯はめいの耳から目が離せないでいた。ただ福耳の存在だけが意識を支配している。
「めい……」
「きゃっ!」
灯がめいを押し倒す。めいは驚きの声を上げながら、倒れ込んだ。灯の瞳は赤く染まり、額からは二本の角がにょきにょきと飛び出していく。唇が裂けるように開き、鋭い牙がむき出しになった。鬼としての本性が、灯の理性を奪おうとしていた。
「めい……!」
灯の声は、いつもの柔らかなものではなかった。喉の奥から低い唸り声のような音が漏れる。
「灯ちゃん……!」
灯の口元から涎が垂れる。
「いいの、灯ちゃん」
その言葉に、灯の手が一瞬止まった。
「私、知ってたよ。灯ちゃんが鬼だって」
その一言に、灯の動きがピタリと止まる。
「……なに?」
赤く光っていた瞳が揺れる。灯は驚いたようにめいを見つめた。
「ずっと前から知ってた。私、見たんだ。灯ちゃんが、他の人のこぶ食べてる所。灯ちゃんが普通の人じゃないことも、私の福耳を狙ってることも知ってる……でもね、それでも私は灯ちゃんと友達でいたいって思ったの」
めいは怯えるどころか、静かに微笑みながら言葉を続けた。
「だから、願いの日記に書いたんだ。『灯ちゃんとずっと一緒にいられますように』って」
「……私と、一緒に……?」
灯の赤い瞳から光が薄れていく。額から生えた角が少しずつ縮み、牙も元の唇へと戻り始めた。
「灯ちゃんが鬼だって、全然怖くないよ」
めいはそっと灯の手を握った。震える手の温かさが灯の中の暴走を静かに鎮めていった。
「私、灯ちゃんのことが好きだよ。鬼だろうと、人間だろうと、そんなの関係ない。灯ちゃんは灯ちゃんだもん」
言葉は優しく、そして力強かった。灯はその言葉を聞きながら、心の奥底にあった欲望が消えていくのを感じた。
角は完全に引っ込み、牙も消え、灯は再び人間の姿に戻っていた。
「ごめん……めい……」
灯は崩れるようにめいの肩に顔を埋める。
「大丈夫だよ、灯ちゃん」
めいは灯の頭をそっと撫でながら、柔らかく微笑んでいた。
二人はしばらくその場に座り込んでいた。傾きかけた夕焼けの光がピロティを包む。
めいが、ゆっくりと切り出した。
「ねえ、灯ちゃん、日記を持ち去った理由があるとしたら、それって犯人の願いが叶わなかったからなんじゃない?」
「願いが叶わなかったから……?」
「うん。もしすごく大事な願いを書いたのに、それが叶わなかったら……きっとすごく悲しくて、その日記を見たくなくなるかも」
灯はその言葉にハッとした。
めいの言う通りだ。犯人が日記を捨てた。それだけ犯人が日記に対して大きな期待を抱いていたからだ。
「でも、犯人は日記を捨てたり壊したりする勇気はなかった。だからどこかに隠したのかもしれない……」
灯の推理にめいは目を輝かせた。
「それなら、どこに隠したんだろう?」
灯は一瞬考え込んだあと、ある場所を思い出した。
「ゴミ捨て場だ」
「ゴミ捨て場?」
「犯人は日記を捨てようとしたけど、捨てきれなかったのかもしれない。でも、そのまま放置しておけば、誰かが片付けてくれると思ったのかも」
灯が立ち上がる。
「めい、行こう!」
二人は手を繋いでゴミ捨て場にかけて行った。
校舎の裏にあるゴミ捨て場は、すっかり暗くなった空の下でひっそりと佇んでいた。
灯とめいが近づくと、古い段ボールや紙くずが山のように積まれているのが見えた。
「本当にここにあるのかな……?」
めいが不安そうに呟く中、灯は匂いを嗅ぎ取るように周囲を見回した。ゴミ捨て場全体に漂う雑多な匂いの中に、微かに甘くて重たい「心のこぶ」の匂いが混ざっている。
「探そう」
灯がそう呟いたとき、背後から足音が聞こえた。
「……よくここがわかったな」
振り返ると、そこには亮介が立っていた。彼の表情は暗く、目はどこか諦めたように沈んでいる。
「亮介くん……?」
めいが問いかけると、亮介は小さく息を吐いた。
「『願いの日記』を盗んだのは僕だよ」
灯とめいが驚いて亮介を見る。灯が彼に尋ねた。
「……どうして?」
亮介がゴミを蹴った。
「どうしてだろうな……。たぶん、あのノートを見てるのが耐えられなかったんだと思う」
「耐えられなかったって……?」
「俺、家族が仲良くなりますようにって書いたんだ。でも、何も変わらなかった。むしろ、悪くなる一方だった。あのノートはただの紙切れだ。俺がバカだったんだよ」
亮介の声は震えていた。その言葉の裏に隠された深い孤独が灯の鼻先に香る。
「でも、壊す勇気もなかった。だからゴミ捨て場に置いて……誰かが片付けてくれるのを待ってた」
亮介は苦笑した。
めいが彼の言葉にどう応えればいいのか分からず困惑している中、灯は静かに一歩前に出た。
「亮介くん」
亮介が顔を上げると、灯は彼の目をじっと見つめた。
亮介が、一瞬怯む。すぐに目の焦点があわなくなり、口元がゆるんでだらりと下がる。灯の、鬼の幻惑が、亮介を支配していた。
灯はそっと亮介に近づき、彼の胸に漂う「心のこぶ」に手を伸ばした。それは暗い紫色をした塊で、重たく冷たい感触だった。灯はそれを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
こぶを飲み込むと、亮介の顔から緊張が解け、どこか穏やかな表情に変わった。
ハッとして、亮介が正気を取り戻す。
「……なんだか、少し楽になった気がする」
亮介は、小さく呟いた。その姿を見て、めいもほっとしたように微笑んだ。
「それで、日記はどこ?」
「ここの影に置いたんだ」
亮介がしゃがみ込んで指さす。
灯とめいは、物影になっている場所を覗き込んだが、日記はどこにもなかった。
「ないよ、亮介くん」
「そんなはずない、確かにここに置いた!そんなはず……」
亮介が埃だらけの段ボールや紙くずを漁る。灯とめいも加わったが、どこを確認しても、目的のノートは影も形も見当たらない。
「おかしい……ここにあるはずなのに」
「誰かが持って行った……?」
灯は眉をひそめた。亮介が日記を捨てたことは事実のようだが、問題はその後だ。誰かがそれを拾い、別の場所に隠した可能性が高い。
「灯ちゃん、次はどうする?」
めいが不安そうに尋ねる。灯は少し考えたあと、ふと先ほど図書室で美沙が見せた表情を思い出した。
「美沙ちゃん……」
彼女が「守りたかった」と言った言葉が、灯の中で引っかかっていた。守るために日記を隠したのだとしたら、彼女がどこに隠したのかは簡単に推測できる。
「めい、温室に行こう」
「温室?」
「美沙ちゃんが日記を隠すとしたら、誰も来ない静かな場所。この学園で、そう言う場所と言ったら、温室だ」
校舎裏にある温室は、普段あまり生徒が訪れることのない場所だった。植物が育てられているが、生徒たちはほとんど足を踏み入れない。
夕焼けの光がガラス越しに差し込み、温室全体をオレンジ色に染めていた。そっと扉を開けると、湿った空気と土の匂いが漂ってきた。
灯は温室の奥へと進み、植物の間を注意深く探し始めた。
「めい、ここだ」
灯が指差したのは、隅に置かれた植木鉢の山だった。その間に、小さな布で覆われた何かが隠されているのが見えた。
「これって……!」
めいが駆け寄り、布を取ると、そこには埃をかぶった『願いの日記』があった。美沙が書いた「大切に扱ってください」というメッセージが、消えかかって表紙に残っていた。
「やっぱりここにあった……」
灯が呟いたそのとき、温室の入り口から足音が聞こえた。振り返ると、美沙が立っていた。
「……どうして、ここにいるの?」
美沙の声は震えていた。彼女は灯とめいを見て驚きと焦りを隠せない様子だった。
「これ……あなたが隠したの?」
めいが日記を掲げて尋ねると、美沙はしばらく沈黙したあと、力なく頷いた。
「……そうよ。私が隠したの」
「どうして……?」
美沙は俯きながら、小さな声で話し始めた。
「亮介くんが日記を捨てようとしているのを見たの。ゴミ捨て場に置かれた日記を見たとき、どうしてもそのままにしておけなかった……。だって、大事なものなのに……!」
彼女の声は次第に震え、涙が頬を伝い始めた。
「でも……誰にも言えなかった。私が勝手に持ってきたなんて知られたら、きっとみんなに怒られると思って……」
「だから温室に隠したんだね」
灯が静かに言うと、美沙はまた小さく頷いた。
「私は……いつも一人だった。日記だけが、私の気持ちを聞いてくれてたの。だから、誰かに壊されたり捨てられたりするのが怖くて……」
美沙の言葉には、深い孤独と不安が滲んでいた。灯はその場に漂う濃い「心のこぶ」の匂いを感じ取る。それは、これまでにないほど重たく、そして悲しい匂いだった。
「美沙ちゃん」
めいがそっと彼女の肩に手を置いた。
「日記を守りたいって思ったのは、美沙ちゃんの優しさだよ。でも、隠していたらみんなも困っちゃう。それに、日記はみんなのものだから……一緒に返そう?」
めいの言葉に、美沙は涙を拭いながら顔を上げた。
「……返しても、私……みんなに嫌われるかもしれない……」
灯が一歩前に出た。
「そんなことないよ。正直に話せば、みんな、きっと分かってくれる」
灯が、舌なめずりする。美沙の両の目が虚になった。
「だから、その不安を私にちょうだい」
灯は美沙の胸に漂う「心のこぶ」にそっと手を伸ばした。それは黒くねじれた形をしており、彼女の孤独や恐怖が凝り固まったものだった。
灯はそれを優しく取り除き、ゆっくりと口に運んだ。こぶは今日食べたどの感情よりも複雑で、切なく、けれどどこか甘い味がした。
美沙の表情は徐々に柔らかくなり、肩の力が抜けていった。
○
朝の教室はいつもと違う空気に包まれていた。誰もが落ち着かない様子で、昨日の「願いの日記」失踪事件について小声で話している。机を囲む生徒たちの顔には、不安や疑問が浮かんでいた。
亮介と美沙は教室の入り口に立っていた。
「……行こう」
亮介が小さく呟き、二人はゆっくりと教室の中央に歩み出た。教室内が静まり返る。全員の視線が二人に注がれていた。
亮介は一瞬だけ視線を上げたが、すぐに俯き、深く頭を下げた。
「みんな……ごめん。日記を捨てようとしたのは俺だ」
生徒たちの間にざわめきが広がる。
「俺、あの日記に『家族が仲良くなりますように』って書いた。でも、何も変わらなかった。俺の両親、離婚するんだ。だから、あんな日記なんて意味がないって思って……捨てようとしたんだ」
亮介の声は震えていた。
「でも、捨てられなかった。ただゴミ捨て場に置いて、誰かが片付けてくれるだろうって……あんなことした。本当にごめん」
彼の声には、後悔と罪悪感が滲んでいた。
次に、美沙が一歩前に出た。彼女の手は日記を握りしめたまま小刻みに震えている。
「私も……ごめんなさい」
小さな声で美沙が続ける。
「亮介くんが捨てた日記を、私が拾いました。壊されるのが怖くて……私、ずっと一人だったから……日記だけが私の話を聞いてくれる存在だったの。だから、誰にも渡したくなくて、温室に隠してしまいました」
美沙の目には涙が浮かんでいた。
「でも、そんなことをしても、みんなが困るだけだって分かってた。だから……本当にごめんなさい」
彼女も深く頭を下げた。
「亮介くん、美沙ちゃん……」
沈黙を破ったのはめいだった。彼女は優しい目で二人を見つめていた。
「正直に言ってくれてありがとう。私は、日記が戻ってきただけで嬉しいよ」
めいの言葉に続いて、他の生徒たちも次々と声を上げ始めた。
「そうだよ、戻ってきたんだからそれでいいじゃん!」
「私たちも日記をもっと大事にしなきゃいけなかったんだよね……」
「亮介も超悪気あって取ったわけじゃないし」
生徒たちの声で、教室全体に温かい雰囲気が広がっていった。
「美沙ちゃん、温室に隠してくれてありがとう。壊されなくて良かったよ」
そう言ったのは、図書委員の別の女子生徒だった。美沙は驚いたように顔を上げた。
「……ありがとうって、私に?」
「うん。だって、誰かが拾ってくれなかったら、きっと本当に捨てられてたかもしれないでしょ?」
美沙の目から、また涙が溢れた。
休み時間になると、美沙の周りには何人もの生徒が集まっていた。今まで彼女に話しかける人はほとんどいなかったが、この日は違った。
「美沙ちゃん、今度図書室で一緒に本読まない?」
「温室の植物、あれって美沙ちゃんが手入れしてたの?すごいね!」
「日記、一緒に書きにいこ!」
美沙はぎこちないながらも微笑みを浮かべている。
亮介も周囲から声をかけられていた。
「亮介、正直に言ってくれて良かったよ」
「家族のこと、大変だったんだな……」
「なんかあったら愚痴れよな!」
亮介は、やがて笑みを浮かべて「ありがとう」と静かに答えた。
めいは満足そうに微笑みながら、灯の方を向いた。
「良かったね、美沙ちゃんも亮介くんも、みんなに受け入れられて」
「うん……」
灯も微かに笑みを浮かべた。今の美沙や亮介からはもうあの重たい匂いが消えている。
その日、『願いの日記』は再び図書室に戻された。
「灯ちゃん、ありがとう」
帰り道、めいがふわふわとした笑顔を灯に向けた。
福耳を狙う衝動は、まだ完全に消えたわけではない。けれど、めいの笑顔を守りたいという気持ちが、それを強く押さえ込んでいた。
灯は夕暮れの風に吹かれながら歩き出した――。
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