第25話 鳥と虎
最初に異変に気付いたのはラパーマだった。
バイパスが破壊して騒然となった現場で、ラパーマは兵士たちを避難させていた。その最中に、可動式堤防一号機の上方から小さな悲鳴を聞いた気がしたのだ。
「アドルフ?」
見上げると、一号機の上に立っているはずのアドルフがいない。見渡してみても高い場所にはその姿がなく、こちら側に落ちているわけでもなかった。
バイパスが破壊したことで水の勢いが増し、生まれた波にさらわれてしまったのだとラパーマは察した。
「アイサ! アドルフが落ちた! あたしが追いかける!」
それだけ言うと、ラパーマは返事も聞かずに全力で駆けだした。
虎人であるラパーマは本気を出せば肉食動物並みの走行速度を出すことができる。さらに魔力を併用することで、その速さは水の激流を凌駕した。
「どこ! アドルフ!」
しかし、速さはあっても探しようがない。持久力の問題でトップスピードが持続する時間は短いため、迅速にアドルフを見つけ出さなければならないのに。
無情にも、グロンマ川は広く、今はおびただしい量の漂流物もある。
一号機を超えて下流側に飛び出したはいいが、小さな人間一人を見つけるのは至難の業だった。
「ラパーマぁあ!」
自分を呼ぶ声を聞き、ラパーマは声の方向へ向いた。
そこには、翼をはためかせて空を飛ぶアイサがいた。
「そんな……!」
鳥人は飛ぶことができない。翼は背中を守るためのものであって空を飛ぶためのものではない。
歴史上には羽ばたいた者もいたが、自重に耐えきれずに骨折をし、二度と翼をはためかせることができなくなったと記録されている。
なのに、アイサは飛んでいた。
魔力により翼力と耐力を向上させているのだ。それでも相当な負荷があるはずで、ラパーマはすぐに止めさせるべきだと思った。
「下流側を流れてる! 流木に掴まってる! 急いでぇえ!」
走りながら、ラパーマは兵士の一人から格闘用の長棒を掠め取った。アドルフに掴まらせるにはあまりに短いが、何もないよりはマシだと考えた。
今すべきは慟哭するアイサを叱りつけることではない。
一刻も早くアドルフを救う。そしてアイサを空から降ろす。ただそれだけを考えるよう自分に言い聞かせた。
「見つけた!」
ラパーマの瞳は小さな流木にしがみつく人の姿を捉えた。
最悪なことに、川の中央だ。可動式堤防一台分の距離がある。長棒を伸ばしたとて届くわけがない。
自分の可能性に賭ける、ラパーマは決めた。
集中力を研ぎ澄ませ、あの場所へ至るための動作をイメージする。力の出し方、体の動かし方、魔力の制御。行くことはできる。余裕で行ける。帰りはどうする。助走をする距離がない。着地点の流木も飛び立つには頼りない。おまけに川の真ん中だからどちらの岸も遠い。これも賭けだ。アイサに賭ける。
ラパーマは激走した。
「ああああぁぁぁぁ!」
そこからさらに強く駆けた。限界を超えた走力により、身体が危険信号を放っている。ラパーマは泣き言を無視した。
頃合いを見て長棒を取り出す。その一端を力任せに地面に叩きつける。長棒はぬかるみの先の硬く引き締まった地層に到達し、ラパーマの体重を支えた。
しなる長棒の反力を最大限に利用し、ラパーマは身体を跳ばす。それは投石器から放たれる弾丸のようだった。姿勢の制御ができない空中で、ラパーマはただアドルフだけを見つめた。
周りの視界が一気に背後へ流れていく。
流木にしがみつき、弱々しい表情を浮かべたアドルフが迫ってくる。
ラパーマは急げ急げと焦燥した。
アドルフがいつ流木を手放してしまうかわからない。水の中に沈んでしまえば、陸からも空からも探せなくなってしまう。
自分の動きがスローに感じられる世界の中で、ラパーマはアドルフが掴む流木に着地した。勢いで流木が木っ端微塵に砕け散る。
ラパーマは驚異的な速度で動いた。
力の入っていないアドルフの体を脇に抱え、流木の破片を力任せに蹴り付ける。
またも宙に舞ったラパーマだったが、元いた岸に戻るほどの跳躍力はない。
だからラパーマは手を上空へ伸ばした。
「アイサ!」
「任せて!」
川の勢いから離れ、安全な上空で待機していたアイサがラパーマの手を握りしめた。
「うぐっ!」
翼の重さに加え、二人分の重さを受けてアイサの全身が悲鳴を上げている。それでも羽ばたき続けた。初めての飛翔で筋肉の使い方がぎこちない。致命的に間違えている感覚がある。だが、そんなことはどうでもよかった。陸地までもてば、翼だろうが身体だろうがどうなったって構わなかった。
そして、誰一人欠けることなく元の岸へたどり着き、アイサは倒れこんだ。
後にわかることだが、アイサは全身の骨という骨を骨折し、肩の筋肉は断裂していた。
その体を襲う苦痛は計り知れない。
しかし、アイサが最初に口にした言葉は、痛みの訴えではなかった。
「アドルフ様は!?」
ラパーマは急いでアドルフの容態を確認した。
息はしている。
朦朧としているが、意識もある。
「大丈夫! 死んでない! アイサが守った!」
背後にいるアイサを安堵させるための単語を端的に紡ぎ、アドルフに向き直る。
「起きろ! アドルフ!」
医学の心得がないラパーマには、アドルフがこのまま目を覚まさないんじゃないかという恐怖があった。
その恐れを振り払うかのように、ラパーマはアドルフを揺さぶった。
やがて、仰向けになったアドルフの瞼が微かに動いた。
「ん……くそ。どうなったんだ」
呻き声を上げながら、アドルフは身を起こそうとした。
慌ててラパーマはその背中を支えた。
「流されちゃったんだよ! 今は下流側にいる!」
ぼんやりとしていたアドルフだったが、ラパーマの声を聞いて目を見開いた。
彼は周囲を見渡して、アイサとラパーマに助けられたことを察した。
「すまない。ドジをした。助けてくれてありがとう」
アドルフは立ち上がろうとした。
しかし、ふらついた彼はそのまま片膝をついてしまう。ラパーマも片膝をつき、彼の肩に腕を回した。
「まだ終わってないな」
アドルフは空を見ていた。
雨は続いている。しかし、あれから強くなることはなかった。峠は越えたのだ。
「アイサと俺を担げるか?」
「え、でも……二人とも休んでないと!」
ラパーマが逡巡する間にアドルフは立ち上がり、近くで倒れているアイサをそっと抱きかかえた。
「二人分、駆けてくれないか」
ラパーマは息を飲んで慄いた。
アドルフはどう見ても疲労困憊だったが、有無を言わせない気迫を纏っていた。
「頼むよ。ラパーマ」
「……もうっ! わかった! 了解!」
何を言っても無駄だと理解したラパーマは二人を担ぎ上げた。
魔力を込め、地面を蹴る。
まだ戦いは終わっていない。
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