第1話 異世界転移

 社内チャットでこの日最後の指示を出し、ようやく業務を終えた。


「日付跨ぐなんて何年ぶりだろうな…」


 首を回すと凝り固まった筋肉が骨に擦れて音が鳴る。天井を見つめて長く深い息を吐いた。


「ふー。まさか震災が起きるなんてなぁ」


 本日未明、俺の住む地方を震源地とする大地震が発生した。


 メディアはニュース速報一色で津波への注意や交通機関の停止を訴えた。多くの社員が自宅待機を余儀なくされる中、会社まで徒歩圏内の俺は唯一出社して仕事をしていたのだった。


 三食を忘れて一心不乱にキーボードを叩き続けた結果、今に至る。


「今日はもうここで寝てしまうか」


 自宅に帰るのも億劫になり、鞄にある長期出張用のアイマスクを取り出して装着する。

 身も心も疲れ果ててしまった俺は、すぐさま深い眠りに落ちていった。






 ……光が瞼を刺す感覚があった。

 傾いた首を起こすと、光はより強く瞼を刺激する。


「まぶしいな……」


 アイマスクをつけたはずだが、取れてしまったのだろうか。明るさに辟易しながら目を開けた。


 見たことのない部屋だ。そして四人の女性がいるように見える。


 会社じゃない。他の従業員でもない。寝ぼけ眼でも見間違えるはずがない。


「お目覚めになられたわ!」


 左側の女性が俺を見て興奮し、さらに奥にいる女性に掴みかかった。掴まれた女性の額には大粒の汗がいくつも浮かんでおり、息も荒れているようだった。


 彼女の激しい呼吸が耳に届いたとき、ぼんやりとしていた意識が覚醒した。


(どこだ、ここ)


 やはり知らない部屋で、知らない女性たちに囲まれている。


 俺と彼女たちは木製の丸テーブルの周りに顔を揃えており、テーブルの中央には大きなガラス玉が置かれていた。バスケットボール大のそれは小さな木枠の上で静かに佇み、天井からぶら下がるランタンの橙色の灯りを映し出している。


 俺が今の状況を確認していると、興奮していた女性が自身の失態に気づいた。彼女は喉を鳴らして居住まいを正した。


「どうか落ち着いてください。私たちは怪しい者ではありません」


 こういうときによく聞かれる常套句を聞き流しつつ、さらに部屋の全体像を確認する。


 現実離れした光景だ。


 石壁と木製の家具に囲まれた無骨な空間に三人の女性と一人の少女がいる。まるで絵画の中にいるかのような状況を見て、心が妙に静かになる。

 これがもっと現実感のある光景、それこそ住まいであるマンションに不審者がいるのなら、俺はもっと抵抗を示しただろう。


「貴方様は私どもが召喚しました。私どもの認識では、貴方様は異世界の人間です」


 さらに怪しさが増すようなことをさも当然のように言われ、俺は素っ頓狂な声を出した。


「な、何? い、異世界!?」


「私は外務長官のバーバラと申します。ここ魔法都市ルーモンドの危機を救って頂くため、私どもは貴方様の魂を呼び寄せたのです」


「ま、魔法だって? いや、ちょっと待ってくれ」


 とんでもない与太話に頭が痛くなってくる。他に言い訳のしようがあるだろうと思ったが、よく考えるとこの状況を説明する適切な表現がないことに気づく。


 だが、俺みたいな中年に異世界旅行なんて話が舞い降りてくるわけがないと思い直した。


「一体何を言ってるんだ。嘘をつくのも大概にしてくれ」


「嘘ではありません。貴方様の世界にはないものがこの世界には存在すると思います。それをご覧頂ければ信じて頂けるのではないでしょうか」


 俺が示す反応は想定していたのか、バーバラと名乗った女性の説明には淀みがない。


「例えば、こちらのアイサとラパーマは珍しい種族なのではないでしょうか」


 紹介された二人の女性が立ち上がった。


「内務長官のアイサです。私は鳥人という種族で、御覧の通り翼があります」


 軽く一礼したその背中には、身体を覆うほど大きな白と黒のコントラストをした翼があった。お辞儀とは逆にふわっとはためいた翼に、作り物の印象は全くない。


「軍務長官のラパーマです。私は虎人という種族で、顔とお尻に可愛い特長があります」


 右側の声に顔を向けると、頬に猫髭を生やした女性がいた。おそるおそる腰の辺りを覗くと、椅子の後ろでふるふると何かが揺れている。


 尻尾だ。虎縞でしなやかなそれが彼女の周りで踊っている。


「鳥と猫の…人間?」


「虎です」


「虎…なるほど」


「虎ですから。間違えないでくださいね」


 ラパーマと名乗る女性はにこりと笑顔を浮かべて注意した。彼女にとって失礼な間違いだったのかと思い、俺は場違いに恐縮した。


「申し訳ない。初めてみたもので、つい…」


「貴方様の反応からすると、こういった魔法も珍しいのでしょうか」


 矢継ぎ早に言葉を重ね、バーバラは自分の顔の前で人差し指を立てた。


 シュッ、と。


 指の上で赤い炎がゆらゆらと蠢いている。

意思を持っているかのような自然な動きをする炎を見て、魔法という言葉をすんなりと飲み込んだ。


 ファンタジー的な種族に、魔法。そしてこの臨場感。こうなると、他に追及の余地はなかった。


「た、確かに、ここは異世界と思うしかなさそうだ。しかし、なぜ俺が?」


「貴方様が選ばれた理由はわかりません。私どもは亡くなった領主アドルフの身にこの世界の人間ではない者の魂を転移したのです」


 領主アドルフと言われ自分の手を観察すると、白く綺麗な手であることがわかった。どう見ても40歳の中年の手ではない。


 俺は本当に異世界にきて、そして自分よりも相当若いアドルフ氏になってしまったようだ。


 ならば元の世界の俺はどうなったんだ。残してきた仕事や家族のことが気にかかり、バーバラに向かって身を乗り出した。


「本当の俺はどうなっている? 元に戻るにはどうすればいいんだ?」


「わかりかねます」


 にべもない返答に、俺は絶句する。

 鳥人のアイサが目を伏せて下を向いた。


「この世界に呼び出すことはできても、他の世界に送り出すこと、ましてや個人を特定して転移することはできないのです」


「そんな勝手な……誘拐じゃないか」


 彼女たちは俺に有無も言わさず、全く見ず知らずの土地に強引に連れてきたのだ。そう思うとふつふつと怒りがこみ上げてきた。


「申し訳ございません」


 それまで黙っていた、この場で唯一少女という年代の子供が俺に向かって深々と頭を下げた。

 憤りを感じ始めていた俺の鋭い視線を受けてもなお、少女は怯まなかった。


「私は領主アドルフの妹クリスティーナです。私の判断で此度の魂の転移を執り行いました。全ての責任は私にあります」


「あなたは子供に見えるが、そういう種族なのか?」


「私は十二歳の人間で、領主代行の立場にあります」


「本当に子供じゃないか……」


 自分の娘と同じ歳だとわかった俺はその毅然とした態度に驚きを隠せなかった。しかし、クリスティーナは俺の反応を意に介さなかった。


「私たちは大きな危機に直面しています。危機に立ち向かったアドルフは道半ばで亡くなりました。貴方様にはアドルフの意志を継いでルーモンドを救って頂きたいのです。未熟な私は、領主として力不足です」


 開き直りだと思ったが、幼いクリスティーナに言われると子を持つ親としての倫理観で何も言えなかった。


「しかし、これは私たちの勝手な願いです。貴方様がどう振舞おうと、私たちは尊重します」


「クリスティーナ様!」


 慌てて立ち上がりかけるバーバラを手で制し、クリスティーナは言う。


「よいのです。貴方様の生活や活動を、貴方様の振る舞いに依らず、不自由させないことを保証します。それが私が負った最低限の責任です」


 クリスティーナの宣言に、他の者からは言葉がなかった。


 まだまだ訳がわからないが、自分の子供と同じ歳の少女に責任を取らせることは俺にはできそうにない。


 一度長く息を吐きだし、落ち着いたところで俺は腕を組んだ。


「正直疑問しかないが、皆さんに悪意があるようには見えません。本当に帰る方法がないのなら、私にできることは対応を考えましょう。一体何にお困りなのでしょうか」


 俺の態度が変わったことに少し驚きながら、クリスティーナは軽く頷いた。


「話を聞いて頂き、ありがとうございます。結論を申しますと、未曾有の洪水被害によって壊滅間近のルーモンドを復興して頂きたいのです」


 これが世界を救えとかいう曖昧な話だったら裸足で逃げ出す他なかったし、逃げ出すことに後ろめたさを覚えることもなかった。


 だが、俺は就寝前に地震の対応を終えたばかりであり、あらゆる事態に備えるため震災の情報に限らず内閣府の防災ガイドラインは熟読している。


 水のことなら津波に洪水に浸水にと多彩な知識があり、それらに対して治水やら防水やらまで完備している。現時点における史上最強の水防人間といえば俺のことだろう。


「ひょっとすると何かお力になれるかもしれません。COOとしてリスク対応は心得ていますし、異世界最高峰の治水知識もあります。対応でも対策でも、何手でも打てますよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る