やがて壱になる
保坂星耀
第1話
山手線は相変わらずやかましかった。誰も彼もが大声でべらべら話していて、悟が迷惑していることに気づきもしない。まるで耳の入り口から奥の方まで、空気が圧縮されて詰め込まれているようだ。鳴りやまぬ騒音のせいでこめかみが痛んでいた。吐き気だってする。それでも悟は膝に乗せたノイズキャンセリング付きのヘッドホンを使わぬよう、震える指で握りしめていた。
一件きりしかアドレスが登録されていないスマホが震えたのは十九時のことだ。それが鳴る時はスクランブル――アーサーさんが悟を使う時と決まっていた。送られてきた短いメッセージに目を通してから悟は急いで山手線に飛び乗り、それからほぼ二周分を電車に揺られながら過ごしていた。
俯いて通路を見つめ続ける悟を気にしたふうもなく、乗客は乗ってきたり降りていったりを続けている。また列車が停まった。勤め人風の男女が降りていき、顔ぶれは違ってもほとんど内実も行動も変わらない男女が乗り込んでくる。悟の正面にやって来て両手を網棚の枠にかけた男が言った。
(ちっ、ガキが。中学生か? 大人に席譲ろうとか思わねえのかよ)
ちらりと目を上げると五十代と見える禿頭が見えた。その下についている垂れ目はまっすぐに悟を見つめている。さらに下の唇はといえば、これはへの字になっていた。
(なんだ。その反抗的な目は)
男が言ったので悟はすぐに通路へ目を落とした。いや、正しくは男が言ったのではなかった。男の唇はあくまで不満そうに曲げられているきりだ。言ったのは通路に落ちる男自身の影だった。通路に落ちる影がそのうすねずみ色のそこかしこに唇を生じさせて一連の言葉を吐き出したのだ。
(どいつもこいつも俺をなんだと思ってんだ)
罵声を吐き出し続けている影から悟は目を逸らし、男の隣に立っている若い女の二人連れ――その影を見た。このふたりも影のそこここに唇を生じさせて、お互いについて論評している。どうやら、互いに互いを格下だと見ているらしかった。
それだけではない。狭い車内にすし詰めになった人々、彼らが落とす影すべてに唇がついていてぱくぱくと好き勝手に言葉を吐き散らしている。影の持ち主は皆、口を閉じて他人の迷惑にならぬようと大人らしく振る舞っているが、影の方が言うことときたら、てんで勝手ででたらめである。
そのうるささときたら、今すぐにでも列車から降りたいくらいであったが、それでも悟はシートに腰掛けて影の声に耳を傾けることを己に強いていた。探しているのは悪いやつだ。殺しても構わないような、誰かを傷つけて笑ってられるような、人間のクズだ。
(ったく、なによ。な~にがタシにしてくれ、よ!)
不意にそんな声が聞こえてきた。怒りをありありと音に滲ませた、女の声だ。
(馬鹿にしてんじゃねえよ。百万ぽっちでなにができるって言うの。金だけが取り柄のくせに、そうよ、良識ぶりやがって。鼻息荒いあしながおじさんがどこの世界にいんのよ!)
狭い車内には男女がぎゅうぎゅうに身を寄せ合っている。そんな状況で、重なり合った影の中から声の主を探すのは実に骨が折れる作業だ。なにしろ、聞こえるのはその女声だけではない。家庭への不満からこの後の予定から、年代も性別もバラバラな大声がまるで混声合唱かのように巨大な音のうねりとなって耳から体の芯まで震わせている。その中からたったひとつの声、その主を見つけ出すのは並大抵のことではなかった。
(ふん! せいぜい巻き上げて捨ててやるんだから! これ以上は絶対触らせねえからな! 有り金全部吐き出せ! そんで死ね! キモいんだよ、クソオヤジ!)
声が聞こえる方をなんとか探り当てて悟は席を立った。先ほどの男が――正確にはその影が途端に歓声をあげる。体を捻りこむようにして突っ込んでくる男をかわしながら、悟は手刀を切った。
「すみません。通してください。すみません」
悟が言うたびに影たちはいったん言葉を吐き出すのをやめる。ほとんど同時にその主が迷惑そうな顔をして、悟が通り過ぎるなり、今度は影がたった今強引に通っていった少年について非難の声をあげた。
(あーあ。次はなんて言お。父親の治療費がっての、これ以上言ったら変かな。でもなー。ほかの言い訳考えるのダルいし。病気が重くなったとか? いやでも、お見舞いに行くとか言いだしたらなー。そっちのがダルいかなー)
優先席前のつり革にその女はつかまっていた。白いシャツにオーバーサイズのニットを合わせた女だ。顎下までの茶色の髪の先端を――なんという髪型か悟は知らなかったが、くるりと内側に丸めていて、ニットの肩と髪の内側から甘い匂いを漂わせている。
女は近づいてきた悟には気付かない。すらりと背を伸ばして立っていて、その体だけ見たのでは誰かを口汚く罵っているなどとはとても想像が付かなかった。
悟は女が見える位置を陣取って――手が届くところにつり革も手すりもなかったので両足を踏ん張って列車の揺れをこらえながら――左右の降車口上にあるモニターを見た。女が乗ってきたところを見なかったので、彼女がどこまで行くのかわからない。もう一周することになるだろうか。そう考えながらしばらく揺られていると、駅を四つやり過ごしたところで女に動きが見えた。肩から斜めにかけた黒いバッグの位置を確認するようにしてから降車口を気にする仕草をし、そこで悟と目が合った。
(次の連絡、いつ来るかなー。父親が入院中で大変って言っちゃったし。遠慮とかされたらどうしよ。あーめんどくせー。早いとこ来るといいんだけど)
女はそれを偶然と思ったらしく、そんなことをがなる影を足元にわだかまらせながらつり革にぶら下がった。悟はほっと胸を撫で下ろし、次にどちらの扉が開くのかを確認してから、また女を見張る作業に戻った。
ほどなくして停車した駅でやはり女は降りるようだった。影の荒い口調と異なり、本人の仕草は楚々として控えめである。降車に手間取る老人に先を譲る気遣いさえ見せて、その出来事は悟の心をチクリと刺した。
痛みを訴える心をねじ伏せ、悟は女の後について駅へ降りた。もう迷っている時間はなかった。スクランブルが送られてきてから――スマホを確認してみると、二時間半が経過していた。アーサーさんは待ちくたびれているに違いない。
「すみません」と悟がかけた声に女は最初気付かなかったようだった。エスカレーターに並ぶ列に横から入ろうとして、初老の男から体で防がれたことに悪態をついている――もちろん、影の方がだ。
「すみません、お姉さん。ちょっと良いですか」
照明の位置を確認しながら悟は声を張った。列に並ぶ人のうち何人かが振り返る。その顔の中に女のものもあったので、悟は手招きをした。
「そうそう、お姉さんです。ニットを着たお姉さん。ちょっとすみません」
女は自信の鼻先を指差して確認してから怪訝そうな顔をした。
「えっと、私ですか?」
警戒する足取りで、それでも女は悟の方へ近寄ってきた。悟は目を上げてもう一度照明の位置を確認し、それから足元に伸びる自身の影――こちらは口のひとつも見えない。絵に描いたような普通の影だ――を見てから答えた。
「落とし物です。さっき電車の中で」
そう言って悟はポケットからハンカチを取り出した。コンビニで調達した、何の変哲もないものである。女はちらりとその無地白を確かめるように目を落として答えた。
「私のじゃないと思いますけど」
「ええ? でも、あなたのカバンから落ちるのを見たんですけど」
(クソオヤジのかな? プレゼント? いやだったらなんかで包むっしょ。じゃあなに、気付かない間に入れられてたとか? うっそ。ヤダ。盗聴器とか付いてたらどうしよ)
女が疑わしそうに首を捻っている足元では、その影が矢継ぎ早に叫んでいる。悟は素早く一歩を踏み出してその影に自分の影を重ねた。
「お姉さん。援交かなにかしてますよね?」
途端に女は目をぽかんと見開いた。前後してその顎が落ちる。ピンク色に塗られた唇がだらしなく開いていくとともに、大きかった瞳孔が針で突いたような点になって細かく左右に揺れ始めた。
「聞こえてますよね。お姉さんは援交とかパパ活とか、他になんて言うのかな、とにかく男の人を騙してますよね? それでお金を巻き上げてる。そうですよね?」
ピンク色の唇が開いたまま震えて「ち」とただ一言言った。
「百万円も貰ったんですよね? 騙したお金でどうするんですか? 美味しいもの食べるんですか? それとも欲しいもの買うんですか? いいなあ。その百万、俺にくれませんか」
「ち、ちが、ちがう。ちがうぅぅううう」
「違いませんよね。俺、ちゃんと聞いてましたよ。お父さんの治療費にって百万もくれた親切な人を、お姉さんたらひどい言い方してましたよね」
「ちがう。ちがちが、ちがうのお。ちがうちがががが」
「だから、違いませんよねって。大丈夫ですよ。俺、警察とかじゃないんで。安心してください。そんで、安心したら百万出して。ほら」
悟が差しだした手を、女はぶるぶると顔面を震わせながら見つめていた。口は相変わらず否定の言葉を唱えている。しかし、体が裏切った。女の手が震えながら上がってバッグから茶封筒を取り出すと悟に渡してきたのである。
「ありがとう。じゃあ、行きましょうか。もう一度電車に乗ってください」
女の口はとうとう諦めたらしかった。声を出すことをやめると、またぽかんと馬鹿のように開く。女の体はおもむろに振り返ると左右に揺れながら歩きだした。乗車位置まで歩いていってその真ん中で立ち止まる。待機位置で待っていたサラリーマン風の男が女を睨んだ。しかし、女は左右に揺れながら立っているばかりだ。その姿を見届けて、悟はふうと息を吐いた。
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