昨晩死んだ先輩と、幾重にも積み重なるこの世界について
鶻丸の煮付け
I'm thinking of you.
扉を開けると、先輩が在った。それをこの事象の始まりとする。
昨晩、先輩が死んだらしい。私はそれを、今朝方登校してきてから知った。大きな火事があったのだと、クラスの誰かが話していた。私はとても悲しかったけれど、不思議と涙は出なかった。
だから今日、放課後いつも通り文芸部の部室前に足を運んでしまったのは、私の体に染みついた癖だと言える。先輩の居ない文芸部に用は無い。その筈なのに私の手は、何故だか立て付けの悪いスライド式の扉に手をかけていた。それから私は意味も無く、その扉を開けた。
そして現在に至る。
私の目の前には確かに先輩が在った。昨晩死んだ筈の先輩が。
扉を開けた先、ぎっしりと本が詰められた本棚と、それでも足りず長机の上に乱雑に積み上げられた文庫本の山の奥。使い古され草臥れたパイプ椅子の上に、いつものように先輩は在った。
一瞬目を丸くした先輩は、しかし私を見ていつものように微笑む。
「――やあ。来たね」
視覚に続いて聴覚も、目の前の先輩の存在を肯定する。そうして二つの感覚器で先輩の存在を認識した私の体は、何かを考えるよりも早く部室内へと足を踏み出していた。
先輩の定位置が一番奥に位置する草臥れたパイプ椅子の上であるように、私にも定位置が存在する。それは先輩の対面。文庫本の山積みになった長机を挟んだ、最も出入り口に近い位置のパイプ椅子だ。先輩がそうしているのに倣い、私もいつも通りそこに腰を下ろす。
それから少しの静寂があった。時計の針が進む音と、先輩が文庫本のページをめくる音、ただそれだけが平等であったはずの時間の進みを私に知らせていた。
「すまない」
先輩は読み終えたらしい文庫本を山の頂上に積みながら言う。
「どうやら私は死んだらしい」
その口ぶりは、どこか遠くのニュースを話しているようだった。まるでそれが私にも先輩にも全く関係の無い、一切の影響を及ぼさないことであると錯覚してしまうほどに。
「――そうですか」
だから私も、出来るだけ淡泊にそう返した。なるべく実感がやってこないように、感情が追いついてこないように。
ふと、私を見つめる先輩の瞳の中に私の姿を見た。いつもと何ら変わらない私の姿が先輩の瞳に映っている。私はそれに少し安堵した。先輩の黒い瞳には、いつもと変わらない私の姿が映っている。先輩の二つ、或いは三つか四つか、無数に存在する瞳の中には、いつもと変わらない私が映っている。
私は僅かに眉を顰めた。
対面に座る先輩は私を見つめ、微笑んでいる。私は先輩から視線を逸らす。ぎっしりと本が詰められた本棚。無機質なスチール製のソレの前には、先輩が在った。先輩の瞳は私を見つめている。再び視線を逸らす。何度も書いては消してを繰り返され、薄汚れたホワイトボード。ソレの前には、先輩が在った。先輩は私を見つめている。
この文芸部の部室内には、無数の先輩が在った。先輩は私を見つめている。
私は一度目を閉じて、それから大きく息を吐いた。そうして再び目を開けると同時に、対面に座る先輩が口を開く。
「なあ、君に話したいことがあるんだ。聞いてくれるかな?」
私の答えは決まりきっていた。
「今、君には私が見えているね?」
「はい」
「それらは全て、本来観測されることのない世界層の私だよ。この私を含めてね」
先輩はそう言うと、ホワイトボードの方へと目をやった。私も先輩の視線を追うように、ホワイトボードへと視線を向ける。
薄汚れたホワイトボードには、何重にも重なった丸が描かれていた。
「この幾重にも積み重なった円を世界だとしよう」
ホワイトボードの前に立っていた先輩が言う。
「私たち観測者はこの世界を外から見ているわけだ。だからどこから見ても、誰が見ても、もっとも外側にある世界層が認識される」
次に先輩は、それらの丸を囲むように赤いペンで大きな丸を描いた。
「はい、これ」
いつの間にか後ろに立っていた先輩から、赤い暗記シートを渡される。
「それを通して見てみるとどうなる?」
私は後ろに立つ先輩の言葉通り、赤いシートを透かしてホワイトボードを見る。すると当然ながら、最も外側に描かれた赤い丸は見えなくなった。いや、正確には見えづらくなったと言うべきか。
「それが――」
「これが今の私の状況、ですか」
先輩の言わんとすることは、何となく理解出来た。つまり今の私は、本来観測できないはずの世界を観測しているのだ。
「世界層、なんですね。世界線じゃなくて」
気になったのは先輩の表現だ。別の世界線を観測している、でも意味合いとしては変わらないように思える。しかし先輩はわざわざ、世界層という聞き慣れない言葉を用いている。そこにこそ先輩の意図はあるはずだ。
「うん、層の方がしっくりくると私は思うんだよね」
パイプ椅子に座る先輩が言う。
「世界線って言うのはつまり、一本の線だろう? 無数の可能性世界があったとして、観測されるのは一つの世界。つまりそれ以外の世界はあくまで可能性の域を出ず、存在しないものとして扱われる。まあ要は、パラレルワールドは存在しません。世界は今観測されている一つだけですって言うのが世界線という言葉の意味だったはずだ」
どうやら先輩と私の間には、認識の齟齬があるようだった。
「あーえっと、多分先輩が言ってる世界線ってシュタインズ・ゲートで言われてた世界線の話ですよね?」
「そうだよ?」
「今一般に広まっている世界線って、むしろシュタインズ・ゲートで言われてたことの逆というか。今の世界とは違う世界、つまりパラレルワールドそのものを指す言葉として使われてることが多い気がします」
「え゛っ……」
パイプ椅子に座る先輩から、明らかな動揺が見て取れた。しかしそんな先輩を無視するように、私の後ろに立つ先輩が口を開く。
「えーと、要は連続性を持つ事象すべてが並行して同時存在しうるっていうのが私の考えの核なんだけど、理解してもらえるかな?」
「……なんらかの事象によって枝分かれのように分岐したパラレルワールドは、全て確かに存在しているってことですか?」
「いや、枝分かれとはまた違うかな」
私の疑問に答えたのは本棚の前に在る先輩だった。
「過去の不変性に対する懐疑、とでも言おうかな。もし時間軸が一方向にしか進みえないというのであれば、確かに世界は枝分かれの形をとるのかもしれない。けれどそれでは無限の可能性を持つはずの不確定な未来から、時間遡行が誕生する可能性を否定してしまうことになる。だって時間遡行が生まれるのであれば、過去は可変になる筈だからね」
「つまり、未来が無限の発散によって不確定である以上、過去もまた未来と同様であるべきと?」
本棚の前に在る先輩は私の言葉に頷く。
なるほど。過去と未来が無限に発散するのでれば、現在もそうであると考えるのが妥当というのは理解できる。そしてそうなると世界は枝分かれした線の形ではなく、無数に積み重なった層の構造を取ると。
「……ん?」
いや、果たして本当にそうだろうか。
「現在を起点として過去と未来の双方向に枝分かれしている可能性は――」
そこまで言って理解する。今私の目の前に在る先輩こそが、その可能性の反証であると。
「そう、だから今日私はこの話をしにここに来たんだ」
改めて、先輩の話を整理してみようと思う。
世界は積層構造になっている。これは無限の可能性世界がすべて同時に並行して存在しているという意味であり、それら一つ一つの可能性世界を仮に世界層と呼ぶことにする。また、本来であれば世界層は恐らく最も表層に位置しているであろうもののみが観測可能であり、それ以外の世界層は観測出来ない。今回の場合で言えば、本来観測される世界層は先輩が火事で死んだ世界層であるはずだが、何故か私には先輩が生存している世界層が複数観測出来ている。
「あの、質問なんですけど」
整理したことで生まれたのは、二つの疑問だった。
「多分この話って前提として世界中の人々が同じ世界層を観測しているって言うのがあると思うんですけど、それについて先輩はどう考えてます?」
私の問いに先輩はきょとんとした顔で小首を傾げた。
「いや、そんな前提考えてなかったな、私は」
パイプ椅子に座る先輩に続き、本棚の前の先輩が口を開く。
「例えば君は、昨日まで私と君が見てた世界が完全に同一だったと思うかい?」
「それは、そうなんじゃないですか?」
もしもそうでない場合、仮に個々人の見ている世界層が異なるものであった場合は、見えている世界層の違いによって多くの矛盾やすれ違いが起こってしまうはずだ。それはおかしい。
「あ、いや――」
――おかしい、か?
不意に昔、ある友人と喧嘩になったことを思い出した。そのきっかけは確か、私が言った覚えのない言葉を私が言ったことにされていたことだった。当時は無性に腹が立ったけれど、今になって思えばそんなものよくある記憶違いの一つだ。
そう、記憶違い。
同じ場所にいた筈なのに、過去の記憶が違っている。もしもそれが、別の世界層を観測していたからなのだとしたら。違っていたのは二人の記憶の方ではなく、二人が見ていた世界の方なのだとしたら。
先程の先輩の言葉を思い返す。過去の不変性に対する懐疑。無限の過去が各々の中に在るとするのならば。
「必要なのは、収束……」
「うん、同意見だね」
先輩の声で思考が口から漏れ出ていたことに気付く。
「もしも収束が起こりうるのであれば、細部の完全一致は不要になる。そして収束に近い事象は、誰しも経験がある筈さ」
「記憶違い、ですよね」
「え?」
先輩は予想外といった様子で目を丸くする。どうやら私の出した答えは先輩の考えていたそれとは違ったらしい。
「えっと昔、友人と言った言わないの喧嘩になったんです。で、それって多分観測していた世界層の違いで、それが記憶違いによって辻褄合わせがなされたというか、擦り合わせが行われたというか。だから他者との記憶違いって凄く収束っぽいなと思ったんですけど」
パイプ椅子に座る先輩は顎に手を当てしばらく何かを考えた後。
「……確かに」
と、小さく呟いた。
「先輩は何て言おうとしたんですか?」
「ん? 私は目の錯覚って言おうとしてたんだ。アレって要は視覚情報を脳が勝手に解釈することで起きる矛盾だろう? 世界層に対してはその逆で、他者と違う世界層を見ていたとしても、脳が勝手に自分の観測していた世界層の中に差異の近似事象を見つけ出して勝手に同一のものと解釈するのかなって。だけど――」
いつもより僅かに速いペースで喋る先輩は、そこまで言ってから突然顔を上げ、見開いた双眸を天井へ向けた。
「――いや、両立するのか」
先輩の口角が僅かに上がった。それから先輩は輝く大きな二つの瞳を私に向けて言葉を続ける。
「私の錯覚は、内側で起きるものだ。齟齬として表層に出る前に個人の内側で起こるもの。それに対して君の記憶違いは外側、実際に齟齬として表層に現れることで起きる。故にこれらは矛盾しないどころか、両立することで二重の収束の役割を果たす。より絶対的なものとなるんだ」
二重の収束。それらは観測世界層の違いによって起きる矛盾を限りなく自然に修正し、それにより世界は違和感なく単一のものであるかのように振る舞う。故に人々は気づかない。幾重にも積み重なる無限の世界層に。
なるほど。私は心の中で呟く。一つ目の疑問を通して、先輩の思う世界構造はより破綻の無いものになったように思える。だからこそ私は次の疑問を先輩に投げかけなければならない。
「それじゃあ先輩、二つ目の質問なんですけど」
私はそれを口にする前に、一度小さく息を吸う。
「何故私は、先輩が生きている世界層を観測出来ているんでしょうか」
口にすると同時に、私は確かに近づく終わりの気配を感じた。
「……死んだ筈の人間が生きている世界層を観測するって言うのは、まああり得る話だと私は考えているんだ」
先輩は先程までより少し落ち着いた声色でそう言った。
「と言うのもね、この考えに至ったきっかけは幽霊の存在についてだったから」
幽霊。何故今までその言葉が出てこなかったのか不思議なほど、その二文字は今の先輩を表すのに適していた。
「君は知ってると思うけどほら、私は幽霊とか信じないタイプだからさ、幽霊という存在をどう理論的に解釈するかをずっと考えてたんだよ。その末に至った考えが世界層理論なんだけど。要は幽霊っていうのは死んだ筈の人間が生きている世界層がたまたま観測されることがあるだけっていうね」
確かにそう考えると幽霊という非科学的存在にも納得が出来る。そしてそのたまたまが今の私の状況。私が先輩を観測出来ている理由。何か特別な理由があるわけではない。その妙に現実的な冷たさが、納得感の背中を押す。
「……ん?」
しかし、何かがおかしい気がした。漠然とした違和感。何か大事なことを見落としているような、そんな感覚があった。
改めて整理しよう。私は先輩を観測している。先輩が死んだ世界層を観測しながら、同時に先輩が生きている層を観測している。だから、死んだ筈なのに生きている先輩を観測している。世界層の不透明度とでも言おうか。暗記シート越しに見た赤い線のように、今の私は本来観測される世界層を観測しながら、同時にその下に在る別の世界層を観測することが出来てしまっている。世界層の複数観測。それが私が先輩を観測出来ている理由。
「ぁ」
私の口から漏れ出たのは、そんな気の抜けた音だった。
『どうやら私は死んだらしい』
先輩は私に会うなりそう言った。何故、生きている世界層の先輩がそれを知っているのだろう。いや違う、重要なのはそのさらに前だ。
『――やあ、来たね』
何故私と先輩は、お互いを認識出来ているのだろう。
「私が、先輩が生きている世界層を観測しているように、先輩は今、自分自身が死んだ世界層を観測してる……?」
「まあ、そうなるね」
先輩は、何でもないことのようにそう言った。
「クラスメイトも担任も、きっと道ですれ違っただけの人もみんな、私を認識していない。だって、私は死んだのだから」
らしい、と初めに先輩が言ったのは、そこに実感が無かったからだ。死んでなどいないのに、確かに生きているというのに、世界に死んだことにされているから。
私は無意識のうちに握りしめていた拳で、僅かに加速した脈拍に気付いた。
「怖く、なかったんですか?」
震える声で私は問う。違う。恐怖しているのは私だ。勝手に想像して勝手に恐怖して。だってもしも私が同じ状況になったら、情けないことではあるが、きっと耐えられないと思うから。
「まあ、怖かったよ」
その言葉とは裏腹に、先輩は優しく微笑み言葉を続ける。
「でもまあ、信じてたから」
傾いた夕日が窓から差し込む。赤い光が私の対面、いつものパイプ椅子に座る先輩を照らす。その存在を世界に証明するかのように。
「君を」
先輩の瞳は、真っ直ぐ私を見ていた。その瞳の中には、確かに私が在る。
「信じてた、ですか……?」
「うん。君はきっとここに来て、私を見つけてくれるだろうなって」
先輩はそう言って、悪戯っぽく笑ってみせた。
「だから何故君が私を観測出来ているのか、もとい何故私たちがお互いを観測出来ているかに答えを出すとするならば――」
「「運命」」
「ですか?」
運命。二人の声はその単語で完全に重なり合った。
「ははっ! 月並みなロマンチシズムが過ぎたかな?」
先輩が笑いながら言う。その笑顔を見て私も笑う。
「はい、でもまあ――」
無限に積み重なる世界層の中から二人の観測者が複数の同一な世界層を観測する。それは恐らく限りなく不可能に近い確率であるはずだ。けれど先輩は信じた。そこに不安があったとしても、その可能性を信じたのだ。そして私もまた、今日この文芸部へとやって来た。もうこの場所に来る必要など無かったというのに。そんな偶然を先輩が運命と言うのなら――。
「私はそれに納得出来ます」
そう、納得だ。私も先輩も、或いは世界中に居る全ての人々もきっと、心のどこかで納得を求めている。だから理論があり、信仰がある。それらはきっと人々が、納得の為に産み出したものなのだと思う。だから今日、私がそれを得られたのであれば、この出来事はきっと私の人生において必要不可欠なものだったのだろう。そしてそれは、先輩の言うように月並みなロマンチシズムかもしれないが、確かに運命と呼んで差し支えないものだと思う。
連続性。その果てに何があるのかはわからない。けれど今日ここに至るまでの、或いは私の最期に至るまでの全ては、きっと私にとって必要不可欠なものである。それは見方によっては諦念であるのかもしれない。それでも何故だか少し、少なくとも今日この部屋の扉を開ける前よりかは、前を向けるような気がした。
「それじゃ、前置きはここまでにしようか」
先輩は優しく微笑みを浮かべて言う。雰囲気の所為か本来とるべきだったリアクションが遅れる。
「……ん? 前置き?」
「うん、前置き」
先輩はやはり事もなげに言う。きっと私がこういう反応をするとわかっていて、話の順番を組み立てていたのだろう。そういう意味でも私は、先輩に信用されているのだ。
「はぁ……」
私はわざとらしく溜息を吐いてから言う。
「それじゃあ聞かせてください。今日の本題を」
前置き、と先輩は言った。つまりこれから先輩の口から語られる本題は、世界層理論を踏まえた話ということになる。私は純粋に、それに興味があった。
「あのね、観測出来ないことは存在しないことを意味しない、と私は思うんだ」
声色は先程までと変わらなかったように思える。けれど何故だか、その言葉は今までの言葉の中で最も優しく聞こえた。
「だから、例えば君が明日目覚めて、私のことが見えなくなっても私の声が聞こえなくなっても、それは私の存在の否定を意味してるわけじゃない。君は観測出来ないかもしれないけれど、確かに別の世界層に私は存在しているから」
そこで一度先輩は言葉を止める。いつになく真剣な先輩の瞳は、夕日の所為か僅かに滲んで見えた。
「だから、君には見えないかもしれないけれど、聞こえないかもしれないけれど、それでも」
それから少し気恥ずかしそうに笑って。
「私は君を想っているよ」
先輩は、私にそう言った。
「――」
返すべき言葉があるはずだった。けれど私はその言葉を、上手に紡げる自信が無かった。だってきっと、今私の口から出る言葉はどうしようもなく弱々しく震えてしまうはずだから。
「忘れないで、なんて言うつもりは無いよ。そんな呪いみたいなことを言うつもりは無いけれど、でもきっと今の君にはこの言葉が必要だと思うから。だから私は今日、ここに来た」
グッと拳に力を込める。感情が溢れ出さないよう、精一杯に蓋をする。それでも震える口元を、私はゆっくりと動かす。
「……忘れませんよ、ずっと」
先輩は私の言葉を聞いて、もう一度気恥ずかしそうに笑った。そんな風に笑う先輩を見て、私も精一杯に笑った。
下校を知らせるチャイムが校内に響く。先輩にとっても私にとっても、帰る時間が来てしまった。
「あの、先輩」
私はようやく震えの治まった口を開いて言う。
「今日は、一緒に帰りませんか? 先輩の家まで送ります」
そうして私は僅かに手汗の滲んだ右手を先輩に差し伸べた。
先輩はその手と私の顔を順番に見て、へにゃりと困ったように笑う。それから私の僅かに震える右手を、優しく左手で握った。
「それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
その日、初めて私は先輩と帰路を共にした。私は先輩の存在を確かめるように、ただぎゅっと先輩の手を握り締めていた。きっと痛かったと思う。けれど先輩は、何も言わずに私の手を握り返してくれていた。
先輩の家が見えてきた頃、私は右手に感じていた体温が無くなっていることに気付いた。強く握りしめた右手の拳が伝えるのは、私の鼓動それだけだった。私は未だ消防車や警察車両の停まる先輩の家に背を向けて、自宅への道を少しだけ早歩きで帰った。
その晩私は泣いた。泣いて泣いて散々泣いて泣き疲れるまで泣いて、それから私は泥のように眠った。
あれからしばらく経ったけれど、私が再び先輩を観測することは無かった。あの日から毎日文芸部に出向いてはいるものの、一人で積み上げられた本を読んで過ごす日々だ。世界層の複数観測。先輩があの日私に語った事象は、やはりと言うかなんと言うか、あの日限りの奇跡だったらしい。
けれど。
『――やあ。初めまして、かな?』
あの日、初めて文芸部の扉を開けた日から始まった事象は。
『ようこそ、文芸部へ』
今もまだ、私の中で続いている。
昨晩死んだ先輩と、幾重にも積み重なるこの世界について 鶻丸の煮付け @kimura010924
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