アセンド

ǝı̣ɹʎʞ

1. 狂気


 両手に溢れんばかりの、白い粒。

 顔をゆっくりと上げる。

 指紋がべったりと付着した鏡。醜い顔が白い蛍光灯に晒されて、薄暗がりの洗面所を背景にぼんやりと浮かぶ。目許に隈、左目は充血。肌はカサついて血の気がない。枝垂れたブロンド色の髪、ガサついた質感。中途半端に開いた唇――。

 控え目に言って、気味が悪い……、私。

 よごれた鏡、けがれた自分。

 あまりの醜さに瞬きを忘れて、硬直する。手から粒が零れ落ちて、洗面器に音を立てた。カラン――。

 その音を救いに、目を醒ます。先ほどまでの記憶の総てが黒。どれを思い出そうと、かびのように黒みがかる。

 零さないように錠剤をケースにしまい、四錠は残す。震える手で口へ運べば、吐き出したくなるような苦さが口内を襲う。それを堪えてぎゅっと飲み込むが、水は飲まない。苦さが増す気がするから。

 それから水道の蛇口を捻る、コキュッ。勢いの弱い水が出てきて、それに手をかざし、溜まりに顔を浸けた。ちゃぱっ。はっと顔を上げると、鏡越しの自分の顔がまた視界に映る。さっきよりはマシになったか……。依然、隈は取れていない。

 睡眠剤の効果が徐々に出始めると、そのままおもむろに寝床へと向かった。

 寝床といっても、マットレスが素のまま部屋の隅に置かれただけで、何年も使い古してきたが故に、綿は抜けているし、色んな染みがたくさん付いている。

 そこへ倒れ込むように突っ伏して、壁の染みを死んだように見つめる。

 フィリピン、マラテ・エルミタ地区郊外――。

 夜中であろうと関係なしに外が五月蠅い。爆音のEDMやバイクの音にパトカーのサイレン。時に悲鳴。

 喧噪はシチリアで生まれ過ごしたあの頃とは較べものにならず、睡眠剤に頼るのも無理はない。

 私は酷くうなされながら、苦痛と喧噪の狭間に目を閉じた。


 ※※※


「――五分ちこくっ!」

 来てすぐに、可憐な声でそう叱られる。

「ごめん、ちょっと遅くなった」

 簡素にそう答えると、声の主は頬を餅みたいにぷくっと膨らませて、ふんっと外方そっぽを向いてしまった。

「ごめん、どうしても眠れなくて」

 彼女と遭逢して、今日で六夜目に当たる。自覚をしていても奇妙な感覚に陥る、夢想な空間の中で。

 延々と続く平面は一面が真っ白で、軽く気が狂いそうになる。もっとも、夢の中では意識など端から朦朧としているのだが。

 くうに浮かぶ青天だけが唯一の抑制剤といったところで、この空を眺めていると、心なしか安堵を覚える。

 大きくて白いキューブ状の『何か』がごろごろと点在していて、目前で分かりやすく拗ねる彼女はそれに腰かけていた。すらりと長い足をぷらぷらさせながら。

 アセンド――。

 彼女は控え目な体躯に純白のワンピースを纏い、銀色ストレートの長髪に真っ赤な双眸。背中には身体の三倍はある巨大な白い翼を持つ。頭上には紅色のどろどろした光輪ハローが輝き、その容姿から人間でないことは判然としていた。傷一つない肌に、長い睫毛がよく映えて、身体じゅう痣と傷だらけの私とは正反対だ。

 黙っていれば雅で大人びた風格の彼女だが、口を開いた途端、幼さが隠し切れずに滲み出る。

 そんな彼女は、ボソッと小さく訊ねた。

「昨日で……、幾つなの」

 私は暫しこうべを垂れて、次に言う言葉を躊躇った。アセンドはまだ外方を向いたままで、私とは顔を合わせてくれない。レースのように綺麗な銀髪から垣間見える横顔のラインは、麗しいほどに美しい。

「八十…………一」

 締まる喉を抉じ開けて、小さくぼやく。それを聞くが早いか、彼女はぴくりと耳を立てて、

「今、なんて……?」

 と、聞き直した。別に聞こえてなかったこともないだろう。周囲に私達以外の生命体はいない、静寂が総て。深々と吐いた溜息もよく澄んで聞こえた。

「八十一人だよ」

 呆れた調子でそう言うと、彼女はキューブを颯爽と降りて、ピタっと地面に着地した。その始終を目で追っていると、彼女はその目をしっかりと捉え続けたまま私の許まで走ってきて、目前できゅっと止まった。

「はちじゅう、いちにんっ!?」

「そう」

「八十一人も殺したの!?」

 そうだって、と嫌悪まるだしの投げやりに言うと、彼女はゲンコツを作って私の頭にポコっと打った。なに、アンタだってもう慣れっこでしょ。

「いったいなぁ」

「ねぇ、私が最初に言ったこと、もう忘れたの?」

「いや覚えてるよ」

 私は脳内で彼女との最初の日を反芻する。


 ――百人到達で、死ぬよ!


 これに添えられたのは自分の死もカウントされる、ということだけ。彼女は今夜に変わりなく、元気溌溂にそう言った。私にとっては到底理解のできない、夢の中のバカげた文言に過ぎなかったが。

 そもそも、人殺しを生業としている私にそんな文句は無理がある。息をするなと言われているようなものだ。

「昨日はちょっとデカい仕事ヤマが入ったの、仕方ないでしょ」

「かといって昨日だけで十二人も増えるとか、さすがの私もびっくりだよ!」

標的カモが皆バカだったから、全員殺った」

 アセンドは口をぽかんと開けて、呆れた表情を露わにする。なに、仕事をきっちりこなしたから今夜も眠れたの。文句ないでしょ。

「あのね、冗談だと思ってるかもしんないけど、百人いっちゃったら、ほんとに死んじゃうんだからね?」

分かってるとは言いつつ、そんな言葉は当てにしていない。あんまり感情を隠すのは得意じゃないから、彼女にはすぐバレた。案の定、またポコポコ叩かれる。殴り方には愛嬌があるな。

「私は貴女に死んでほしくないんだよーっ!」

「はいはいどうも」

 胸元を叩く彼女をぐいと引っぺがして、額を手で押す。ぬー! と意地張って押し返してきても、私の腕の長さには敵うまい。


 ※※※


 その後、私たちは特に何かをするわけでもなく、肩を並べてキューブに座りながら、ただただ悠遠の空をぼーっと眺める時間を過ごした。暇といえば暇であったが、起きている時にはない静けさと安寧が気分を下げることはなかった。

 ――やがて遠い彼方から、ドラムとギター、それからがなり声のヴォーカルのやかましい音楽が聞こえてくる。そろそろ、お別れの時間だ。

「ねぇ」

 彼女の言葉が空を舞う。

「ん」

 私は遠い空を望みながら、適当な相槌を打つ。

「私、貴女のことを悪く言うつもりはないんだけど、あのアラームは絶対に変えた方がいいと思う」

 なんで、あれ昔から気に入ってるメタルバンドの人気ナンバーなんだけど。

 不意に隣を見れば、アセンドは既にこちらを見ていて、目が合うが早いか、彼女はふふっと照れるように笑った。

「今日からは、頑張って押さえてね?」

 アセンドは期待まじりにそう言った。目を細めて、可憐に微笑んでいる。正に天使のような微笑みであった。

 でも、たとえ彼女の願いであっても、その要求を呑むことはできなかった。だって――

「私、殺し屋だよ」

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