ぬちゆい

増田朋美

ぬちゆい

その日も寒かった。でも、暑くても寒くても憂鬱な日々は続くものだ。野田結はいつもそう感じていた。だって、どこへ行っても、野田実花という女性の名前が自分につきまとってくるからだ。自分はそこから切り離してほしいといくら望んでも、野田実花の名前がついて回る。

わざわざ、遠方の学校へ行かせてもらっているのは、少しでも母である野田実花の名前から離れてしまいたいと思ったからだった。結の家は、静岡県の富士宮市にあり、中心部である富士宮駅からはかなり離れたところにある。最寄り駅は、稲子駅というところで、一日の平均乗車数はたったの9人しかいないという本当に粗末な駅だったが、結は困らなかった。というのは、母である野田実花が、学校へ行くのに困らないようにと、使用人を使って、学校へ送り迎えさせていたからだ。本当は、そんなことをしてもらいたくなかったが、野田実花は自分の娘が、危険なところに行くのは非常に困ると言って言うことを聞かず、使用人を用意させたのだ。小学校、中学校では、いつも結は使用人に迎えに来てもらって学校に通っていた。学校に通うようになってから、結はクラスメイトに女優の娘だと言われて、いじめられるようになった。中学生の時は、一人で通わせてくれと母に主張したこともあるが、余計にいじめが多くなるからと、母は耳を貸そうとはしなかった。それで結は、仕方なく家の近くの中学校で、使用人に送り迎えしてもらって通っていた。そうなると、いじめは更にひどくなった。でも、母は仕事が忙しくて、自分のことなんてほとんどかまってくれない。それに、地元の有力な政治家と一緒に組んで、無理な公共事業を後押しさせたりしているという噂もあり、母が決して、街の人と仲良くやっているようではないこともわかってきた。同級生が、野田実花の娘と言って囃し立てるのも、母が政治家と一緒になにか悪事をしていることからだということもわかってきた。そんな人間、女優として映画とかテレビドラマで出演しても、本当に優れているかどうか。結は、疑問に思ったが、周りの大人達は、野田実花さんはいい人だという。しかし、これも結が中学生になってわかったことだが、同級生の話によれば、野田実花のことをいい人だと言って置かなければ、自分の家が潰されてしまう可能性があるから、仕方なく彼女のことをいい人だと言っているということであった。つまり、母であり、野田実花という人物は、女優さんとしては確かに演技力もあって、テレビや映画などでは成功しているのかもしれないが、実際は、とてもわがままで傲慢な女性であるということが、中学生になった結が、いじめを通して学んだことであった。

結は、そういうわけで、富士宮市内の高校に行くことを拒否した。母は、富士宮市内にある、有能な私立学校に進んでほしいと思っていたようであるが、結はそれを受験しないと言いはった。母が、自分の目が届く範囲にどうしても自分を置きたいということはわかったので、結は全寮制の学校ではなく、隣町である富士市の吉永高校という公立の学校を受験させてもらうことにした。富士市にも私立学校はあるのだが、私立学校ではまたいじめられてしまうのではないかと不安に感じ、公立学校を選んだのである。

しかし、結は、吉永高校に入学して、どうしてこんなところに来てしまったんだろうと思うようになった。学校の生徒さんたちは、もちろんそれぞれ事情があるのかもしれないが、まるで勉強にやる気がなく、授業中も話したり携帯でメールを打ったりする人ばかりだ。学校の先生も、そういう生徒さんに、黒板の方を向かせようと、机を叩いたり蹴っ飛ばしたり、また、働かない人間は犯罪者とか、親を殺そうとしているなどの大ぼらを吹くなどとても、指導とは言えない態度を取る人ばかりだった。それでは、毎日の授業も何も楽しくなかった。そして、吉永高校の生徒さんも、先生も当然ながら、野田実花のことは知っていた。結は、野田実花の娘として、学校のプロパガンダ的に振る舞わなければならなかった。例えば、学校のホームページに、学校の紹介文を書かされたり、来賓の先生の前でスピーチしたり。そういうことをやらされるのは、ほとんど自宅に帰らないが、母である野田実花が、もしかしたらなにか仕組んだのかもしれない。そして、学校の先生は、国公立の大学へいけとうるさいくらい言ってくる。こんな環境で、自分は本当に生きている意味もあるのか。結は、毎日悩んでしまった。使用人たちも、結を心配してくれたのであるが、それ以上のことはできなかった。だから、結は学校にも友達がいないし、家の中でも居場所がない。まさしく空っぽの状態で、毎日過ごしていたのであった。学校へ行くときの通学電車が唯一の居場所。稲子駅で降りる人なんで少ないから、誰もいない駅のホームでぼんやりする。それが結の居場所だった。

その日は、たいへん寒かった。もしかしたら、雪になるかもしれないと、天気予報で言っていた。まあ、富士市で雪が降ることはめったにないが、富士宮ではたまに降ることがある。結はその日も、怒鳴り続ける学校の先生の授業を受けて、本数の少ない甲府行の電車に乗って、稲子駅で降りたのだった。富士宮駅くらいまでは、まだ雪は降っていなかったが、トイカエリアの終着地である、西富士宮駅をすぎると、周りは一気に森の中を走る形になる。沼久保駅などは秘境駅として知られているし、次の芝川駅ではまだ降りる人がいるが、自分が降りる稲子駅は、もう完璧に山の中だ。西富士宮駅まで走る電車は結構あるが、それ以降をはしる電車は数えるほどしかない。だから甲府行に乗ると、西富士宮駅でドッと人が降りてしまって、それ以降の駅は誰も降りない。だから、電車を降りるときも、押しボタンで降りる意思を示さなければならない。そして、切符を回収する改札機もないので、結は、電車の運転手に切符を渡して、稲子駅で降りるのだ。

運転手さんに切符をわたして、電車が通り過ぎるのを見送ると、ハラハラとなにか落ちてきた。ああ雪なんだなと結は思った。いつもならここで少しぼんやりしてから帰りたいところだが、雪が降っていたので、早く帰らなければなと思った。稲子駅はいつも人がいない、はずなのに、駅のホームには人がいた。一人は、車椅子に乗っていて、もうひとりは、傘もささずに立っていた。おかしなことに、ふたりとも着物姿であるのが変だった。

「あの、すみません。」

と、立っている男性が、結に声をかけた。

結が足を止めると、その人は紺色に白い花模様が描かれた着物を身に着けていて、結が見ても美しいと思われる人だった。その人は、えらく痩せて窶れていて、普通男性用の着物では衣紋抜きをしないのであるが、それがしているように見えているのであった。もちろん結は、着物のことはあまり良く知らなかったが、なんだか無理やり着ていることは確かだなとわかった。

「あの、ちょっとお尋ねしてよろしいでしょうか?」

と、彼は結に聞いた。

「ハイなんでしょうか?」

結が返事をすると、

「富士行の電車はここで待っていればいいのでしょうか?」

と、彼は聞いた。

「ええ、ここで待ってれば来ますよ。でも、ここで待ってたら、一時間以上かかります。こんな寒いときにここで待ってたら、大変でしょうから。」

結はそう言ったが、男性はこういうのであった。

「いえ、そんなことありません。電車しか移動手段がないので、ここで待つしかないんです。」

ということは、運転免許を持っていないのか。

「そういうことなら、本当に簡素ですけど待合室がありますから、そこでお待ちいただいたらどうですか?」

結はその男性にそう言ってみた。確かに、ホームの中心部に、小さな待合室があった。

「よし、そうさせてもらおうぜ。雪が降ってたらずぶ濡れになっちまうよ。それではまずいでしょ、水穂さん。」

と、車椅子の男性が言った。水穂さんと言われた、美しい姿の男性は、そうだねと一言言って、待合室の方へあるき出した。彼の足はたいへん遅かったので、結はなにか理由のある人なんだなとなんとなくわかった。

「あーあ、寒いなあ。ほんと今年の冬は寒いねえ。年々、夏は暑くて冬寒くなっているが、こういう山道へ来ると、本当にそれを感じるね。」

待合室に入ってきた車椅子の男性が言った。

「そうだね杉ちゃん。」

水穂さんと言われた男性が答える。

「あの、お二人は、どちらからお見えになったんですか?」

結は、そう二人に聞いてみた。

「どこからって富士からだよ。まあ、大渕だもんで、富士根駅で迎えに来てくれることになってるの。」

杉ちゃんがそう答えると、

「そうなんですか。富士根駅からはバスか何かで?」

結はそう聞いた。

「いや、連れ合いがいて、その人が迎えに来てくれることになっている。」

杉ちゃんは即答する。

「そうですか。今日はなんのために稲子に来たんですか?こんなに寒くて、雪が降っているのに、観光できる要素は何もありませんよ。」

結が聞くと、

「ええ。僕らは稲子駅近くの温泉に用事があったんです。」

と、水穂さんが答えた。

「温泉?確かにこのあたりは温泉も出ますけど。でも、なんか不思議ですね。だって温泉は確かにあるんですけど、他に観光できる場所がないじゃないですか。だから、ここに来るのはシニア層ばかりなんですよ。」

結は水穂さんに言われたことが理解できないで、思わず一般的なことを言ってしまったが、

「いやあ、僕らは、温泉に入って力つけるために来たんだよ。だから観光客でもなんでもないの。そういうのを転地療養とか昔は言ったと思うけど。お前さんはしらないのか?」

と杉ちゃんが結に言った。そんな言葉、まるで知らなかった結は、そうですかとしか反応できなかった。

「まあ知らなくても仕方ないか。それに、お前さんくらいの若い世代では、病気なんて、そんなこと屁とも思わんだろうし。病気のために田舎に行ってちょっと一休みなんてこともしないよね。きっと、お前さんは湯治という言葉も知らないだろう。そういう世代じゃないからな。」

杉ちゃんがそう言うので結は恥ずかしくなった。確かに湯治なんて言葉は知らない。それが何をするのかも結は知らない。

「そうなんですね。確かにわたし、知りませんでした。ごめんなさい。」

結は、すぐに二人にそういった。

「随分素直な人だなあ。今どきの若いやつは素直じゃないって聞くけど、お前さんはすぐに知らないと認めたじゃないか。それって、大事なことだと思うよ。何も知らないってちゃんと言えることも大事だよね。」

杉ちゃんに言われて結は、

「そうですね。ごめんなさい。」

と言ってしまった。

「謝らなくてもいいんです。知らないのは当然なのですから。今どきの若い方ですもの、おそらくですが湯治に行った経験もないでしょう。」

水穂さんに言われて結は素直に、

「湯治ってなんですか?」

と聞いてみた。

「だから、病気や怪我の回復を図るために、温泉に入って療養することだ。まあ今のやつはみんな薬とか点滴とかで治しちまうんだろうけど、昔はそういうこともできなかったからな。」

と、杉ちゃんが答える。結は何でこの二人、そんなことをするのだろうと思ったが、それを言おうとした途端、急に冷たい風が吹いてきた。それに雪も重なって横殴りになった。水穂さんが二三度咳をした。口を拭った紙が赤く染まったので、結は思わず母が出演した時代劇のワンシーンが現実になったのかと思ってしまった。

しかし、それを考えている間にも雪は止まない。どんどん降ってくるばかりである。

結がどうしようと考えている間、不意に駅近くの踏切がカンカンカンカンという音を立て始めた。ということは待っていた電車がやってくるのだろう。ということはこの人たちもそれに乗るに違いない。結は、このままほうっておくわけにも行かないと思ったので、持っていた折りたたみの傘を、

「持っていってください。」

と、水穂さんに渡した。数分後に富士行と書かれた電車がやってきた。電車はワンマン運転ではなくて、ちゃんと車掌さんがついていた。結は、車掌さんにお願いして、二人を富士根駅まで乗せていってくださいと頼み、杉ちゃんと水穂さんは車掌さんに手伝ってもらいながら電車に乗り込んだ。走り出す電車を見て、結は、まずいいことをしたと思った。そのままその日は使用人さんに迎えに来てもらうことはなく家に帰った。

家に帰ると、めったに仕事から戻ってこない母の野田実花が帰っていた。なんでも、ロケの仕事があったらしいが、大雪でこれでは無理だと言うことになり帰ってきたのだという。結が傘もささずに、真っ白な頭で帰ってきたのを見て、実花はなぜ傘がないのか聞いた。結が学校に忘れてきたのだと答えると、実花はこんな大雪で忘れてくるはずがないと言った。結はただ忘れてきただけだと答えたが、実花はどうせ振り回して壊してしまったのねと言っていた。そんなものだ。結の家ではそうなってしまう。傘を忘れてもすぐに新しい傘が手に入る。服も食べ物もみんなそうだ。そうやって簡単に手に入る。だけど、結はそれに満足というか幸せを感じたことはなかった。だってそうやって、欲しいものはすぐに母のお陰で手に入るが、それで友達ができたことはない。みんな逃げていってしまう。自分とは遊んでくれない。結の生活はいつもその繰り返しだった。そして、野田実花の娘だからといって人に恨まれる。もう自分って何で生きているのかなと思う。

でも、今日稲子駅であった人は、そのような態度を取らなかったなと結は嬉しくなった。あれほど美しい人で、自分のことを野田実花の娘だと言ってぐちをこぼすことしなかった。それは、心からうれしかった。結は、自分の手帳に水穂さんと彼の名を書いた。できることならもう一回会いたいが、それは無理だろうなと思った。

雪はその日一日降り続いて、結の家の前でも数センチ積もった。結の家では使用人たちが実花に命令されて雪かきをしている。雪は早く始末しないと、道が凍って、大変なことになる。

翌日のことだった。翌日も、雪は降っていた。こんな大雪、久しぶりであった。なんだか最強クラスの大雪になるとか、テレビのニュースで騒いでいたが、それにしてもすごい雪であった。そのせいで結の学校も休校になってしまったし、実花のテレビドラマのロケも中止になった。その日は、結と実花は二人で家にいた。結は、どこかへ出かけたかったが、こんな大雪では、流石に行かれないなと考えていた。

すると、結の屋敷の前で一台の障害者用のタクシーが停まった。こんなところに何をしにきたのかと結が思っていると、そこから現れたのは、先日、稲子駅で会った、杉ちゃんと水穂さんその人であった。結はすぐ応答しようと思ったが、実花が先に玄関先に出てしまった。

「こんにちは。」

水穂さんは丁寧に挨拶した。

「はい、なんの御用でしょうか?」

実花がそうきくと、

「あの、昨日この傘、結さんが貸してくれたんです。だから、お返しに来ました。」

水穂さんはそう言って、実花に折りたたみの傘を渡した。間違いなくそれは結のものであった。結は、急いで玄関先に行って、

「どうしてここがわかったんですか!」

と水穂さんにいうと、

「傘に名前が書いてあったのと、なんとなく、お母さんに似てましたからもしかしたらそうかなと思ったんです。」

と彼は答えた。確かに、学校へ持っていく傘なので結の名前が傘に書いてあったのであるが、やはり母の子供だからということでここがわかってしまったのに、結は複雑な気持ちになった。

「どうもありがとうございました。そのときは助かりました。」

水穂さんはそう言って、実花に、お菓子の入った箱を渡そうとしたが、実花はそれをはねのけた。そして結が持っていた傘も、すぐに床に叩きつけた。

「こんな新平民から渡されたものを二度と使うことはありません。もうおわかりでしょうからお帰りください!」

なんてことを言うんだろうと結は思ったが、実花はそう言って二人を外へ締め出し、玄関のドアをぴしゃんと締めてしまった。結は、新平民を人助けしたことをこっぴどく叱られた。結局、結が、水穂さんたちがどうやって帰ったかを、知ることはできなかった。

結は、野田家の名誉を傷つけることをしたとして、自室に追いやられてしまったのであった。水穂さんが渡したお菓子は、口にすることはなくゴミ箱へ言ってしまった。実花は、使用人たちに玄関に塩をまけと怒鳴っていた。結は、その日一日泣き腫らした。あの水穂さんという人は、新平民という人だったのか。何で母はああして怒鳴ったのか。考えてもわからなかったけど、結は、自分が悪いことをしたとどうしても思えないで、泣き腫らした。結局その日は、昼食も食べる気にならず、泣き腫らしていたのであるが、夕方になって雪はやんだ。実花は、その時仕事があると言って、また家を出ていった。こういうとき、俳優の娘というのは好都合なものである。こうして夜に親が出ていくこともあるのだから。結は、母が家を出ていったあと、こっそり家の裏にあるゴミ置き場へ言って、そこに入れられていたあの折り畳み傘を見つけ出した。そして、その傘を自分の宝物として、保管しておくことに決めた。

結局、その日は、ロケ続きなのだろうか、実花は帰ってこなかった。また明日晴れたら、しばらく帰ってこなくなるだろう。そういうことなら、かえって都合がいい。結は、ゴミ置き場から持ってきた傘を、丁寧に包み紙で包み、机の引き出しにしまった。

その翌日は、よく晴れた。実花は、やはり晴れた日のシーンを撮るつもりなのか、帰ってこなかった。雪も一晩のうちに消えてしまい、結は、また学校に行くことになるのだった。今日もきっと俳優の娘であることを、クラスメイトや担任教師にいびられることになるのだと思うが、結は、稲子駅であったあの二人のことを何時までも覚えていることを心に誓うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぬちゆい 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る