灯りのない道
さなこばと
前編
雷の落ちた音が始まりだった。
小さな部屋の天井の蛍光灯が消え、机の上のノートパソコンはショートしたのかブラックアウトして、果ては窓の外の街灯や隣家の窓にいたるまで、あらゆる全ての明かりが一瞬で消えた。
まるで徹底された停電だった。
真っ暗は怖い。はじめにそう思った。
部屋の隅のベッドの上で、私は身動きができなかった。何も見えない、完全な暗闇は、心を怖気づかせるには十分だった。
冷気が足から這い上がってくるのを感じた。震えて覚束ない手で枕もとを探ってスマホを掴み、急いで画面をつけた。
目がくらむくらいまぶしい明かりとともに、出てきたのはいつものロック画面だ。
私は命拾いをした気持ちになって自然と笑顔を浮かべた。ロックを解除しようと素早くパスを入力する。
パスは無事に通った。
でも、それだけだった。
一面に映し出されているのは、見たこともないホーム画面。ブルースクリーンに、デジタルの簡易的な時計表示だけで、そのほかの一切を排除したようないわば更地の状態になっていた。
アンテナも立っていない。
時計は23:02で、これはおそらく落雷が夜十一時ちょうどだったことを示しているのだろう。
動揺のあまり、吐き気を感じた。背筋からゾワゾワとした不安が増していく。私は周りの様子を確認しようとした。でも、右を向いても左を向いても、上も下も、黒くてのっぺりとした闇に沈んでいて、手で触れられるのはお尻をつけている布団の柔らかさとベッドを寄せている壁の冷たさくらいだった。
眠って、朝が来れば、全て元通りになる……なんて、そうは思えなかった。
どちらかというと、ついにきた、と思った。
暗闇の中で息をひそめたまま、私はほとんど思考停止に陥っていて――
「それなら、ボクと、お散歩しよ?」
不意に聞こえてきた声に、私は小さく悲鳴を上げた。
心臓が跳ねるように鼓動を打ち、呼吸は規則性を忘れてひきつった。全身が冷たい空気に覆われたような感覚だった。
声の主を確認することが恐ろしくてできない。
私は体を丸めてうずくまった。
「怖くないよ。落ち着いて、ゆっくりと深呼吸してみて。よく考えてみて。そこにずっといたほうが怖いと思わない? ね、ちょっとだけ一緒に歩こうよ!」
それは、まるで小さな女の子が大人の気を引こうとするような、少し上擦った声だった。
温かく励ましてくれるその言葉に、悪意は感じられなかった。
私はおそるおそる顔を上げた。
すると視界いっぱいに、童女と呼ぶのが相応しい幼い女の子が、覗き込むように私を見つめてきていた。目と目が合うと、その子は口元を緩ませてあどけない笑みを浮かべた。
「ボクのこと、よく見えてる?」
女の子の姿は真っ暗な世界に浮き上がるようにはっきりと見えた。
体の輪郭がくっきりしすぎていて、この世の存在ではないみたいに思えた。
「ふふっ、そうだねぇ。ほら、ボクの頭にあるこれ、わかるかなあ」
いたずらっ子のような笑顔で、女の子は可愛らしいひとさし指を立てて頭上を指した。
猫のような三角の耳が、二つ並んでいた。
「猫じゃないよ、ボクは狐。名前はココっていうの。だからキミも、ボクのことはココって呼んでね」
ココは楽しそうに耳をぴくぴく動かして、ニコニコしている。私からぱっと離れると、その場でくるりと一回りした。神社の巫女のような服、お尻の辺りから伸びたふさふさの尻尾がなびいて回転についていく。
「さ、ついてきて! 心うきうきのお散歩が始まるよ!」
ぴょんぴょんと跳びはねながらココは待ってくれている。
天真爛漫なその振る舞いに、私は恐れが幾分か和らいで、馴染み深いベッドから降りることに決めた。この子の言う通り、いつ何が起こるともしれないこの場所で、何もしないまま座り込んでいるのも嫌だったのだ。
暗闇のせいで存在を疑いたくなる床を、私は見つめて、視認もできないベッドに腰掛けてからゆっくりと足を下ろしていく。
裸足の爪先に触れたのは、それでも踏み慣れている床のようだ。
私はベッドの下に手を伸ばして、ビニール袋を掴み取った。一人暮らしのために買ったけれど使っていないスリッパが入っているのだ。スマホの明かりを頼りに、長らく放置していたそれを取り出して、足を入れると、ふわっとした触れ心地に包まれて安心感が湧いてきた。
体を左右に揺らして待っているココに、私は一度目を向けてから、見えない足元を気にしつつ両足でその場に立った。
とことことした足取りでココが近づいてきた。
「真っ暗で危ないから、手をつなぐね。ふふっ、キミの手、大きいね」
ココの手は柔らかいけれどひんやりしていた。襲ってくる恐怖に打ち勝ちたくて、その手を私は少し強めに握った。
つながれた手をちらっと見たココは、すぐそばまで近寄ってきた。
私と並んで歩こうとしているのだ。
その優しさに勇気づけられて、辺り一帯が闇で覆われた道を私とココは歩き出した。
ここは一人暮らし用のアパートの一階のはずだった。
歩きながら私は空いているほうの手で、前方の障害物を探るように動かしていたけれど、何かに触れることはなかった。本来なら内と外とを区切る壁があった場所は、闇に溶けてしまったかのように消えていた。
ココが手を取って導いてくれないと私は何もできそうになかった。
歩数と歩幅から考えて、小さな部屋を出てアパート前の道路に踏み出した辺りで、
ピンポーン。
という玄関の甲高いチャイム音が、そう遠くではない音量と響き方で、背後から聞こえてきた。それは、ココの存在がもたらした気の緩みに付け込むような、嫌な感じがする音だった。
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