薔薇色の歌声

くれは

薔薇色の歌声

 僕の周囲はいつだって色が溢れていて、うるさくって仕方がない。

 車のクラクションは激しく赤く目を突き刺してくる。電車の走行音は鮮やかな青い色で、打ち寄せる波のように繰り返し主張してくる。

 人々のざわめきは前衛芸術のごとく、意味のわからない色の寄せ集めだ。不必要な情報に視界が覆われたようになって、気持ち悪くなってくる。目を閉じても、まぶたの裏に色は浮かんでくる。

 僕はそっと、イヤホンで耳を塞ぐ。周囲のざわめきのカラフルさが少し遠のく。動画サイトでランダム再生をする。

 音楽にだって色がある。その色は決して、音楽の質とは関係ない。どんなに静かで穏やかな音楽でも、ぎらぎらした色で目がちかちかすることもある。逆に、とても激しい音楽でも、穏やかなクリーム色で落ち着いた気分になれることだってある。

 再生された知らない曲は、蜂のような黄色と黒。今の僕にはちょっと派手だ。疲れる。スキップ。

 次も駄目だ。ひどく暗くて重たい緑色。沈みそう。今の気分じゃない。またスキップ。

 そうして次に流れてきたのは、薔薇色の声だった。

 女性ボーカルの声は、まるで鮮やかな夜明けのような、透き通るような薔薇色をしていた。その綺麗な色を一瞬で好きになった。

 情報が欲しくてスマホの画面に目を落とす。その歌は「雨」という名前で公開されていた。この色をもっと見たい。僕は迷わずにチャンネル登録をした。


 雨と名乗るその人の、詳細はわからない。顔も出さず、プライベートなこともあまり話さず、ただ淡々と詩的な写真を背景に歌の動画をアップしている人だった。

 彼女の過去の動画を片っ端から聞いてみる。どれも薔薇色だった。

 ただ、一年前にアップされた一分にも満たない短い動画、それだけは違う。それはざらりとした灰色だった。そしてそれ以来、彼女は何も投稿していない。SNSでの書き込みも途絶えている。

 いったい彼女はどんな人なんだろう。何があって、薔薇色は失われてしまったのだろう。

 目を閉じると、彼女の灰色の歌声がまぶたの裏に見える。それは、細かなノイズのように様々な色が集まってできた灰色だった。見ていると、ざらざらと、心の裏を撫でられるような感触になる。

 投稿日を確認すると、一年前の最後の動画、その前には半年の空白がある。

 きっと一年と半年前に彼女に何かがあった。彼女の薔薇色の歌声を失わせるような何かだ。けれど彼女は半年経って再び歌った。そして、それっきり。いったい何があったのかは、わからない。

 灰色の歌声が終わって、雨の別の動画に切り替わる。それは、はっきりとした薔薇色だった。やっぱり僕はこの色が好きだ。

 だからもっと、この色を知りたい。もっと、歌ってほしい。

 もう何度も聞いた歌声だったけど、僕はしばらくの間、その薔薇色を見ていた。雨という名前の彼女に想いを馳せながら。


 それからしばらくしても僕は、雨の歌声を聞いていた。彼女の薔薇色はちっとも飽きることがない。

 色に塗れたこの世界から、僕を救い出してくれる色だった。

 そうやって雨の歌声を見るかたわらで、雨について検索もしてみた。そして僕は、一年と半年前に雨の親しい人が亡くなったらしい、と知った。雨本人の言葉じゃないから本当かどうかはわからない。でもきっとそうなんだろうと妙に納得していた。

 歌声の色が変わってしまうくらいに、それは雨にとって大きな出来事だったのだろう。僕は、名前も知らないその人の亡くなった理由までは知らない。でも、悲しいことだとはわかる。

 雨は今、どうしているのだろうか。一年前の動画は、どんな気持ちで歌ったのだろうか。そしてどうしてもう、歌うのをやめてしまったのだろうか。彼女は今も、失った人のことを思って、悲しんでいるのだろうか。

 僕が彼女にまた歌ってほしいと思うことは、残酷なことなのだろうか。

 つらつらと考えるうちに、僕は本当にその悲しみをわかっているのか、自信がなくなってきた。見える色だけでぱっと判断してしまうように、もしかしたら僕は何も理解なんかしていないのかもしれない。

 それでも僕は、彼女の薔薇色が好きだった。


 それからも僕は、雨の過去の曲を繰り返し聞いていた。薔薇色の歌声も──最後の、灰色の歌声も。

 そんなとき、雨の新曲は突然公開された。

 新着通知に信じられない気持ちで、でも新しい歌が聞けることが嬉しくて、僕は急いでその動画を再生する。

 薔薇色じゃない。最初に思ったのはそれだった。

 新しい曲は、まるで夜の海のように深く底知れない群青色。ほとんど黒のような。灯りも何もない、海の中に落ちてゆくような色。

 いつもの僕だったら、暗すぎるとスキップしただろう。でも、それは確かに雨の歌声だった。新しい雨の歌声だった。

 三分ほどの動画を、僕はただ黙って聞いていた。暗い群青色を見ていた。

 聞き終えて、薔薇色が見たかった、と思う。でも同時に、新しい雨の歌声が聞けたことを嬉しくも思っていた。もっと新しい色が見たい、とも。

 その勢いで、動画のコメント欄を開く。

『新しい投稿嬉しいです 次の投稿も待ってます』

 書いてから、ふと、手が止まる。

 一年以上何も公開していなかった雨に対して「次の投稿を」なんて、押し付けがましくないだろうか。変なプレッシャーになってしまうんじゃないだろうか。こんなコメント、僕のエゴでしかないんじゃないだろうか。

 しばらく指を遊ばせてから、コメントを書き直した。

『雨の歌が好きです』

 拙いコメントだ。もっと言葉を尽くして語れたら、と思う。でも言葉じゃ語りきれない気もした。溢れてくる気持ちは僕の中で色でしかなくて、それを表現する言葉を僕は知らなさすぎた。

 悩んで悩んで、コメント欄を閉じかけたけど、最後には思い切って書き込みのボタンを押した。

 次の瞬間、画面をオフにする。期待しそうになる自分がなんだか恥ずかしくて、見てられなかった。

 僕のコメントが雨に届くのかはわからない。でも、それで良い。

 雨がまた新しい歌を公開するかもわからない。やっぱりそれも仕方ない。

 だとしても、きっと僕は雨の歌をまだ繰り返し聞くだろうし、新しく動画が公開されたらそれも聞くだろう。

 その歌声が薔薇色だったら嬉しいけど、そうでなくても構わない。僕は雨の色だけじゃなく、歌声が好きだから。



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