泡沫の迎え

萩津茜

第一話 小説家

 手元には太宰の小説を収めた文庫本が一冊ある。ページを指でなぞった。本文紙は湿り、それでいてひんやりとした辺りの空気を湛えているようである。ようやく仄かな曙光しょこうが灯りを及ぼして、クリーム色に一編の字面が彫り上がった。


『その日その日を引きずられて暮しているだけであった。下宿屋で、……」

 云々。

 憑かれたように、その続きを読む。さほど長い小説ではない。

『どうにか、なる。』

 最後の一節を終え、反って冒頭を読んだ。

『……恍惚こうこつと不安……』

 云々。


 温ったい風が、体の芯を凍えさせて、眼下の海へと吹き抜けていく。単子葉の野草たちに真黒く影が下りている。陽刻の知らせに影は動き出した。繁みも、影の主の倒立と合わせるように、さらさらと踊り狂った。時もなく、いつまでも、いつまでも、丘の斜面を紅と混濁した影が滑るのを歓送していた。

 その丘の頂上は、ひっきりなしの風がちりどもを、断崖へと突き落としている。ただ海が広がっていた。左手の丘は一本の桜の木を植生し、風貌はまさに黄鶴楼こうかくろうを思わせる。丘からの景色で特異な点といえばその程度である。ただ、海が広がっているのだ。

 白茶の土壌が露わになった部分――きっと偶然でなく、草が踏み殺された道なのだろう――に沿って、海岸林の繁みをくぐって、丸石畳の階段を降りた。質素な隘路は、砂浜に通じているのだ。深緑を被って、不揃いな粒の中にシューズを踏み入れた。

 高木に縁取られた海岸に眼を見やった。湾内に、一隻の木船が漕ぎ入れてくる。漕ぎ手のごく淡い影と、もう一人。後光から逃げるようだが、ゆっくりと、距離を縮めつつある。

 砂浜に駆け出していた。

 海岸線の円弧の中心に、一本だけ桟橋が設けられている。その傍には、二階建てでバルコニーが付いた小屋が建っている。つたやら苔やらに食され、周辺の趣も奏して一見廃屋のようだが、これでも格子やら屋根やらに一切の損傷がない。ここが僕という迎え人の、職場になっている、らしい。

 客人が漕ぎ急いでいる気配はない。まだ猶予がある、と思った。

 シューズや靴下の繊維へとつぶさに砂がまとわるのにも、慣れてしまった。扉を開けて小屋へと入る。普段は湾に突出した丘の上で過ごしているので、小屋へ入るときに感じるのは、帰還の安心感ではなかった。僕一人では処理のしきれないような、重い空気が、幾度の換気でも拭えないようだった。空気が重い――空気感を紛らわす隙間風の一つも無かった。幾らかの格子から平行に星明かりが伸びているだけで、灯りは他に全く備えられていない。夜なべに際する眼の不自由については、感覚器官のほうが適用したようだ。踏み入れられた足によって、砂埃が舞う。

 小石のズルズルと床を擦る音が寂寥せきりょうかもす、みたいに文学的な形容を為してみる。寂寥の念――孤高の海辺では、如何いかなる部分をとっても、同様に評価できてしまう。寂寥を言い換えてみるならば、わびしさ? 悲壮? はたまた、孤独? 等価で繋いでいくだけだ。言葉遊びという娯楽の以上でも以下でもない。

 屋内の隅という隅には砂塵さじんが積もっている。床はもはや、砂浜と変わらない。土足で立ち入るのをはばった時期もあったが、しばらくして無意味な配慮だと悟ったのだ。掃除には手がつくはずもない。そもそも小屋を日常生活の中で利用することがない、ということだ。此処は所詮、毎夜の来客人について記した台帳の保管倉庫でしかない。僕がこうやって無思慮むしりょに小屋へ入ったのも、他ならぬ台帳の用意、ただそれだけの目的であった。

 玄関の右手に、格子へ向かって机と椅子、そしてがらがらの本棚がある。六段もあるのに対して、本は一段目の半分ほどしか入っていない。本、といっても、このすべてが台帳である。最新のものは、丁度横倒しになっていた。台帳は一体何のために付ける必要があるのか。この問いは幾ら己の心や、この小屋にある数多の台帳を詰問してみても、判然するものではないと思う。海岸に来訪した怪異なる人の名前、外見、来訪目的などを綴る必要がある。僕も誰かに言われた訳ではない。前任者、が恐らく居たのだろうが、そいつが残したものに倣っただけである。

 一冊の台帳の重さは、大体国語辞典くらいだ。僕はそんな台帳を片手と胸のあたりで抱え込んで、持ち出した。

 凪の砂浜は、もう充分辺りを視認できるほどに灯りが下りていた。今宵も間もなく、終演を迎える。

 海の方では、桟橋さんばしへと船が寄せられていた。空間に独立して動く――眼には見えないが、そこに漕ぎ手が居るのだろう――オールは繊細に海面を掻く。木の板同士の小突く音がして、木船は停泊した。僕は台帳を厚みの半分ほどで開き、胸ポケットに入った万年筆を右手で据えた。

 船から桟橋に、焦茶色の足が接地した。黄化した爪が伸びている。現れたのは二頭身の異形だ。胴に当たる部分で口が力なく開いている。眼は瞑られていて、時折細目を開いて僕のこと睨んだ。僕も――台帳への記録のためと言い訳して――異形なる人の容貌を眼で舐めた。胴の下、足にかけて凹んでいて、そこからだらりと腕が二本垂れ下がっている。彼が歩くたび、振り子のように揺れた。表皮は人間と同様に見える。但し、色は焦茶色だ。背丈は一・五メートルくらい。ざっとこんな内容を台帳に記した。

 台帳は抱えたままで、僕は異形なる人に近づいた。

「こんばんは、あるいは、おはようございます。貴方のお名前と、現世へ来られた目的を教えて下さい」

 迎え人の、仕事。まずは淡々と話しかける。

 質問に対する第一声で、どういう人柄なのか、大抵掴める。

 彼は胴いっぱいに伸びた口に力を込めて、

内藤浩ないとうひろし、小説家です――あ、今はもう死んでいるので、でした、と言わなければ。これは失敬。執筆をしていた頃は夜見夏目よみなつめ、というペンネームで活動していました。ご存知で?」

「夜見夏目、ですか……」

 彼は中々お喋りなタイプだ。いや、お喋りというよりも、己の功績に自負があるのだろうか。

 夜見夏目という作家は、幾度も本屋で見かけていた。所謂いわゆる青春小説でブレイクしていた印象だ。――ということで、僕の読む本の趣味とは乖離していた。若年の売れっ子作家。棚の一面で宣伝されるくらいには。

 無愛想に返しても良かったが、公私は分けねば。ここで私情を挟んで、客人を不快にさせるわけにはいかない。

「――はい、知っていますよ、夜見先生。デビューから非常に感動する話題作を続けて発表されていましたよね。僕も何作か書店で買って読んだものです。展開の衝撃、思わず震える心理描写。僕、読書は好きな方ですが、夜見先生の作品は強い余韻とインパクトを残しています」

「はあはあ、それはそれは。死人に口なしとは言いますが、それでもこう感嘆させてください。嬉しい! 人生を執筆に捧げてよかった。一人でも多くの方にね、私の作品を読んでいただき、そして感動してもらうのが、私の創作理念ですから」

「きっとその思いは、今の時代にも生きていますよ。ところで、夜見先生はなぜ今宵、現世へ来られたのですか」

 台帳に、内藤浩、名前を記した。

「まさに、私の小説が死後、如何様に評価されているのかを知りたくなりましてね。いやあ、生前はまさか死後に現世へと戻る機会があるなんて思ってもみなかったので、いやはや、楽しみですなあ」

「……そうですか。では、海岸線に沿って、あそこに桜の木があるのは見えますか? あちらの方向へ歩いていってください。そうすれば市街地へ出ますから。先生にとって、この滞在が有意義なものとなることを願っています」

 台帳へ記入。現世への来訪目的は、死後の、自分に対する世間の評価の確認。

「ご丁寧にありがとうございます。では行ってまいります」

 彼は砂浜を通り、海岸線の歩道に入って、丘の影に消えた。

「さようなら、きっと最後の滞在になるんだろうな」

 憎らしくも、清々する。時代の流れを鑑みれば、予想がつくだろう。

 なるほど僕は存分に嘘をついたし、仮面も被った。

 僕はかつて、詩人になりたかったのだ。その夢は淘汰を重ねられ、立ち消えたが。

 台帳を棚に戻す。室内はすっかり朝を迎えていた。海鳥がさえずった。

 そういえば一度も、小屋のバルコニーに上がったことがない。久しぶりに昼寝をしたい気分だった。どこか余裕な生活を、体験してもいいじゃないか。

 二階は書庫となっている。やはりこちらも台帳が、本棚に隙間なく詰め込まれている。バルコニーまでの通路は本棚のせいで、足元が不安なほど陰っている。

 バルコニーからは海をはじめとして、辺りを一望できた。ただそれだけである。丘の上ほどではないが、日当たりはいいほうだろう。仰向けで寝転んでみたら、皮膚ひふと触れ合う木が、心地よさとそれに伴う眠気を誘った。

 すっかり真っ青に色塗られた軽い空を眼中に収めて、それ以降はなにもない。

 久しぶりに夢を見なかった。ぐっすりと眠れた。

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