タランチュラとクーデター【リメイク版】

Unknown

【本編】タランチュラとクーデター

 俺はとても規則正しく健康的な無職である。夜の11時にリフレックスとロラメットという睡眠薬を飲み、朝の7時に起きる超健康志向な生活をしている。(何度も中途覚醒するが)

 そして7時15分になると1本目のタバコを部屋で吸い、ヤニクラを起こす。

 朝7時半を過ぎた辺りから俺は酒を飲み始める。鬼さえ死に至る毒を鯨飲する。ペットボトルのアルコール度数25%の鏡月を果物のジュースで割って飲むのが最近の俺のトレンド。ウォッカをオレンジジュースで割ってスクリュードライバーを作ることもある。

 朝、エビリファイという薬を酒で飲み下し、しばらく俺は酒を飲み続ける。

 そして酔っ払った頃、俺は壁に立てかけてある安い中古のギブソンのアコギで「無」に向かって弾き語る。


「きみは痛いのが嫌い」


 クソ田舎の一軒家なので近所迷惑の心配皆無。

 俺はもう「何のために生きるのか」とか「俺の人生は何なのか」という疑問を捨てた。ただ「生きるために生きる」という半ば悟りの境地に達している。生きてればいつか人は勝手に死ねる。首を括ったり、高所から飛び降りるまでもなく。俺は多量飲酒と喫煙による早死にを密かに狙っている。

 最近つくづく人間は気持ちと心で生きてる動物なんだなと思う。心が苦しいと毎日が地獄になり、心が楽しいと毎日が天国に。最近俺は特に楽しくもないし悲しくもない。大きい喜びもない代わりに大きい悲しみもない。別に俺は生きてもいいし、死んでもいいなと思う。生きたいも死にたいも所詮単なる気分に過ぎない。天気に似ている。半ば受け流す感じで俺は生きてる。別に俺は死にたくない。死に至る恐怖と痛みを知ってるからだ。

 死ねないなら生きるしかない。俺は人生という名の摩訶不思議な化け物と戦わなくてはならない。


 ◆


 歌うのに飽きて自分の部屋を出て、階段を下り、リビングに行くと、床でキジトラ猫が香箱座りしていた。平日なので猫以外の家族はいない。

 この猫はマルという名前で、年齢は4歳だ。マルが生まれてすぐ、母が職場の人から貰ってきて、それ以来ずっと一緒にいる。

 しゃがんでマルの体を撫でていると、マルは目を開いた。まん丸の目をしている。

 香箱座りしながらマルは皮肉っぽい口調でこう言った。


「お前、呑気でいいよなあ。大人のくせに働きもせず親の金で酒タバコOD。酔っ払ったら女漁り・ギター・ゲーム・読書・オ●ニー。普通の大人は毎日したくもない仕事して何とか必死に生きてるっていうのに。全く良い御身分だぜ、ははは」


 マルは可愛い顔に似合わない青年の低い声を発した。まさかマルに嫌味を言われる日が来るとは。ちなみに猫の4歳は人間で言うと32歳である。俺よりだいぶ年上だ。


「マルだって俺と変わらない生活してるくせに。食って遊んで寝て。ただそれだけ。マルだって俺と同じニートだ。あまり俺に色々言える立場じゃないぜ」

「俺は生きてる事自体が仕事だからなー。可愛いのは正義なんだぞ。そもそも俺とお前は種族が違う。人間には勤労や納税の義務が課せられるが、猫には無い。ただ可愛ければそれでいい。可愛いこと、ただそれだけが猫の義務だ」

「いいなー。俺も猫に生まれたかったよ」

「そうか。俺は人間に生まれたかったとよく思うぜ。家猫なんてそこまで良いもんじゃない。去勢されて子孫は残せないし、外に行きたくても行けない。食べ物だって限定される。それでも野良猫よりはずっとマシだがな。こうして暮らす家があるってだけで野良猫よりは遥かに恵まれてる。俺は恵まれた猫だ。そしてお前は恵まれた人間だ」

「たしかに俺は恵まれてると思う。こんなクズみたいな生活が許されてきたんだから。金にも困ったことがない。実はネットの世界では女にも困ったことはない。しかも何故か美人ばかりが俺を好きになってくれるんだ」

「あ、お前この前、妹と2人で神社行ったんだってな?」

「ああ、誘われて。階段がめっちゃ長くて疲れた。おみくじ引いたら大吉だった。神は嘘つきだから、賽銭箱には1円だけ入れた」

「神になんて祈った?」

「俺は無神論者だから神なんて信じてない。何も祈らなかったよ」

「本当は?」

「吉岡里帆と付き合えますようにって祈った」

「おいテメェ馬鹿野郎。吉岡里帆は佐藤健と付き合ってたんだぞ。お前、佐藤健に勝ってる要素が1個でもあるのか?」

「身長だ。彼はたしか170センチだが、最近病院で測った俺の身長は171.5センチもあった。だから俺にもワンチャンある」

「無いな。お前はノーチャンスだ」

「あとは姉の病気が良くなりますようにって神に祈った。もう躁鬱は、かれこれ10年以上治ってないからな」

「そういえば、お前自身の社会復帰は祈らなかったのか」

「祈るわけねぇだろそんなもん。俺は小説家になるんだ」

「お前は馬鹿だな」

「まあな。高校の時の成績は常に学年最下位だ」


 自分にどうにもできないことは神に頼むしかない。尤も俺は、神を信じられない性格だ。世の中、精神病患者なんてその辺に沢山いる。その全てが治るわけじゃない。鬱が酷いとき、俺はまるで白昼夢にいるような感覚に陥る。姉の病はおそらく治らない。死ぬまで。

 俺はマルを撫でる。するとゴロゴロ喉を鳴らす。ゴロゴロ言う時は機嫌がいい証拠だ。


「ところで俺は小さい頃に去勢されたから射精をしたことがない。気持ちいいのか? やっぱり」

「うん。でも酒で酔って薬でラリってる方が俺は気持ちよかったよ」

「お前って童貞?」

「童貞だけど、なに?」

「え、女に困らないなら、なんで童貞は卒業しないんだよ。やりたいんだろ?」

「超やりまくりてえよ。でも初めては大好きな人の為に金庫に入れて保管してるんだ」

「アホかお前。で、今は“大好きな人”何人いるんだ?」

「うーん、めっちゃいるわ。10人くらいじゃね?」

「じゃあ死ぬまで童貞やんけ、ワロス」

「なにがワロスだ、テメー」


 俺は笑いながら、猫を撫でまくる。

 すると猫はこう言った。


「あ〜羨ましい。俺も可愛いメス猫ちゃんとやりたかった」

「あ? 可愛いメス猫ちゃん? 昭和のおっさんみてえな言い回しだな」

「おい、俺は人間で言えばもうかなりおっさんだぞ」

「あ、たしかに。あと心が通じ合った人とやらないと意味が無いってよく聞くけど、心と心が通じ合うなんて俺には土台無理な話だ。俺は人と関わる時は必ず演技をしてる。普通の人のフリをするだけで精一杯」

「今も演技してるか?」

「今はしてないよ。お酒で酔ってるからね~これが本性の俺なんだ」


 笑ってそう言って俺は立ち上がって、便所に行って用を足し、2階にある自分の部屋に戻った。俺の部屋の壁は元は真っ白だったが、ヤニの影響でかなり黄ばんでいる。

 パソコンの前の椅子に座ると、椅子(2歳)が不機嫌そうに言った。


「ニートが気安く私に座らないでくれる〜? 気持ち悪い。私、あんたの事なんか別に何も好きじゃないんだからね!」

「あ、ごめんね……」

「えっ、ツンデレなだけだよ。冗談だって。ごめんね」

「いや分かってるって。こっちも冗談だよ」

「なにそれ、そういうところマジ無理なんですけど!」

「ははははは」

「あははは」


 俺は笑顔で椅子から立ち上がって、床にあぐらをかいて座った。床に灰皿を置き、タバコに着火して、無気力な顔で煙を吐く。そうしていると椅子が少し申し訳なさそうな声で言った。


「ごめん。少し私の言い方がきつかったねー」

「いいよ」

「最近ごはんちゃんと食べてる?」

「食べてない。食べると太るから」

「ちゃんと食べろ!!!!!!!! 死んじゃうでしょ!?」

「酒のカロリーだけで充分」

「最近どんどん痩せてるから少しだけ心配。ただ痩せるならいいけど、やつれてるから」

「心配なんてしなくていいわ。てめえは椅子としての役割を全うしろ」

「あっそ。じゃあいい。早く死んでも知らないからね!」

「なにいってんだ。俺は早く死にたいんだ。死にたい奴はメシを食う必要がない」


 そう言って、俺は紫煙を部屋に撒き散らした。

 何も無い部屋。

 時が経って死ぬのをこうやってただ待つ、それだけ。五体満足なのに心の中は傷だらけだから、俺はいつしか全力で走るのをやめていた。ただぼんやりと孤独に暮らしている。

 俺の部屋はまるで精神病棟のように整然としていて、余計なものが置かれていなかった。不要な物は全て捨ててしまったからだ。また、物欲も無いから、部屋に物が増えない。

 ぼーっとスマホをいじっていると、そのうち知り合いから突然ラインが来た。Yという20代前半の引きこもりの男だった。彼とは、引きこもりが友達を募集する掲示板で知り合った。

 Yはラインで俺にこう言った。


『酔った勢いで言うけど、小学生の頃、俺はいじめに遭っていた。Kっていうアホとその取り巻きにいじめられた。いじめをしてくる奴は、絶対に反撃してこない弱者をちゃんと見極めた上でいじめてくる。K達にやられたことは今も覚えている。犬の糞を食べさせられたり、小便を顔にぶっ掛けられたり、プロレス技で気絶させられたりした。女子の前でズボンを下ろされたこともよくあった。殴る蹴るは当たり前だった。その過程で俺は他人に感情を出せなくなった。好きとか嫌いとか、良いとか悪いとか、そういう感情をすぐ殺すようになった。当時の俺はストレスを吐き出す場所がなくて部屋でよく声を殺して泣いてた。無駄にプライドが高かったから親にはいじめられてることを言わなかった。親の前ではいつも平気な顔をしてヘラヘラ笑っていた。精神に限界が来てた俺はある日、真っ黒い野良猫の首をナタで切断した。寝てる猫にナタを思いきり振り落とすと、血が噴き出た。猫が慟哭を上げた。何度も振り落とすと、首と体が分離した。たしかあのとき俺は笑った。違う日には蛇の首を切断した。頭を落とされた蛇はとんでもない勢いでうねった。小さい俺は笑った。ストレスを自分より弱い存在に思いきりぶつけた。その時点で俺もいじめっ子と何も本質は変わらない。猫1匹と蛇1匹を子供の俺の手で殺害した。これは間違った反撃の方法だなと思った。俺は強くなりたくて野球を始めた。ボクシングと野球で迷ったんだけど、団体競技が良かったから野球にした。野球を始めてからはいじめに遭うこともなくなった。やがて俺の家は親の転勤の都合で引っ越した。北海道から群馬に来たんだ。それ以来ずっと俺は群馬に住んでいる』


 長文の割に読みやすいラインだった。Yの中ではきっと誰にも言えないことなのだろう。俺は猫もヘビも殺したことがない。せいぜいアリを踏み潰したり、ナメクジに塩をかけて溶かしたりしたくらいだ。子供はピュアだから残酷なことを平気でするよなあ。


『おまえをいじめたKたちのことは、今も恨んでる?』

『恨んでないさ。もう過去のことはどうでもいい。今更恨んだってしょうがない』

『でもKたちにいじめられたせいでYは感情を出せない子供になったんだろ。いじめがなかったら、Yは今頃、引きこもりにはならなかったかもしれない』

『俺がいじめられたのは、たぶん交通事故みたいなもんだと思う。運が悪かっただけ』

『達観してるな』

『今もたまに、子供の俺が猫の首をナタで切り落とすシーンを夢に見る。目が覚めると、いつも俺は大量に汗をかいている。あの時の黒猫が俺に向かって「お前は精神異常者だ」って言ってくる。罪の無い猫を殺した罪人の俺は、幸せになっていいと思う?』

『いいと思う。過去は過去だ。今は猫は殺したりしてないんだよな?』

『殺してない。あの時が最初で最後』

『よかった』

『酒鬼薔薇聖斗って知ってる?』

『知ってるよ。あいつの本を中古で読んだことがある。正直、1ミリも読む価値の無い本だった』

『だよな。金をどんだけ貰っても読みたくねぇゴミだ。ありゃ』


 10代の男女が人を殺す事件がたまに起こる。彼らは人を殺す前の予兆として、小さい哺乳類を殺害することがよくあるとネットの記事で読んだことがある。虫ならまだしも、哺乳類を殺すのは危険信号らしい。

 続いてYは言う。


『実は俺は女の人の首を絞めたい願望がある。ただの女の人じゃない。俺のことを好きな女か、俺のことを嫌いな女の首を絞めてみたいんだ。そんな女性にはなかなか会えない。ひきこもりだから。看護学校の頃に彼女がいたんだけど、首を絞めて殺しかけたのが原因で振られた。でも、また誰かの首を絞めてみたい。俺って悪魔かな?』

『コントロールできるなら別にいいんじゃね? 今はネット社会だから引きこもりでも彼女は沢山作れる。俺とYだってメンタルヘルスの掲示板で知り合ったし。メンヘラが集まるDiscordにでも参加してみたら?』

『ディスコードって通話アプリでしょ、引きこもりに通話は無理だ。ていうか初めて人に話したよ。子供の頃に俺がいじめに遭ってた話と、猫と蛇を殺した話と、彼女の首を絞めた話。●●君になら話してもいいと思ったんだ〜』

『そうなんだ。ありがとう。俺なんかに打ち明けてくれて』


 何故、俺になら話していいと思ったのだろう……。


『なんで俺になら話していいと思ったの?』

『だって●●君は“俺自身”じゃないか』

『え……?』


 何を言ってるんだYは。

 俺はふいに、部屋全体を見渡した。いつも通り、何もない部屋があるだけだった。

 俺はタバコを吸って、煙を吐いて、ラインを送る。


『Y君が俺って、どういうこと?』

『気付いてないみたいだから教えてやる。お前は脳の病気なんだ。今お前は、スマホを2台使って、1人2役でラインしている。孤独すぎてあまりに寂しかったんだろう。お前は解離性人格障害なんだ。スマホを2台持ちして、Yっていう架空の人格を作り上げて、Y、つまり俺と友達になった。お前はずっと会話形式の独り言を打ち込んでたんだよ。子供の頃に凄惨ないじめに遭ってたのはお前だ。猫を殺したのも、蛇を殺したのも、彼女の首を絞めて殺人未遂して捕まったのも、お前だ』


 嘘だろ?

 俺はいじめにあったことなんて人生で一度もない。猫を殺したことも、蛇を殺したこともない。彼女の首を絞めたこともない。そんな記憶無い。

 俺は動揺しながら、灰皿にタバコを押しつけて、火を消した。

 手元に目をやると、俺は自分の目を疑った。

 全く同じスマホがもう1台あったからだ。今俺が手に持っているもの。加えて、見覚えの無いもう1台が床に置かれていた。俺の額から汗が流れてきた。頭が急にぼーっとしてきた。まるで膜に包まれてるような、風呂でのぼせてるような感覚。思考は無化している。鬱症状。

 俺は震える指でゆっくり返信を打つ。


『俺には無い。いじめられた記憶も、動物をナタで殺した記憶も、人の首を絞めた記憶も』

『よく思い出せ。お前は自分のショックな記憶を全て心の奥深くにしまい込んで忘れようとした。それでも苦しくなって、挙げ句の果てに別人格のYを作り上げて、Yに全ての負の記憶を押し付けた。思い出せ。思い出せ。それは全てお前の記憶なんだ。俺のものじゃない』

『俺はそんなことしてない。俺は心がとても優しい人間なんだ』

『本当に優しい人間は自分が優しいなんて言わないぜ。思い出せないか? 猫やヘビの首をナタで切り落とした時、小学3年のお前は1人で笑ってたんだ。そのあと、ありえないほど泣いた。彼女の首を絞めて殺人未遂した時、18歳のお前は笑ってたんだ。そのあと、ありえないほど泣いた』


 あー。そんな事もあったっけなー。

 やがて、俺の頭の中で思考回路がめちゃくちゃになり、思考や心の声が超高速で頭の中を動き回って、埋め尽くした。気が狂いそうだ。走馬灯のように駆け巡る何か。原風景。不妊治療。子宮。教室。家。絶望。部屋。太陽。夕暮れ。猫。へび。マイメロディのぬいぐるみ。カートコバーン。五十嵐隆。涙。雪。犬の糞。小便。笑顔。泣き顔。ギター。ピアス。タランチュラの刺青。手首。硫化水素。金剛打ちクレモナロープ。精神科の待合室。発達障害支援センター。果物ナイフ。卵巣。アレルギー。コンドーム。流血。かみさま。おねえちゃん。いもうと。おかあさん。おとうさん。死後の世界。神様。幻視。幻覚。警察。

 

「……」


 俺の視界は急に暗くなってきた。熱中症になった時のように、徐々に視界が狭まって、やがて暗転して、俺は気を失った。


 あ。また、てんかん発作だ。


 ◆


「……」


 俺は床で意識を失っていたようだ。床の上で目を覚ました。スマホで時間を確認すると、時間はほとんど経過していないようだ。まだ午前中だった。

 ああ、俺は全てを思い出した。

 俺はたしかにいじめられていた。犬の糞を大量に食わされ、小便を顔にかけられ、プロレス技をかけられ、女子の前で全裸にさせられ、弁当に精液をかけられ、羽交い締めにさせられ、殴られ、蹴られた。そしてストレスを爆発させた俺は、野良猫を殺した。蛇を殺した。看護学校の時に出来た彼女がいた。俺はセックスにはさほど興味が無かった。ただ、好きな人の首を絞めてみたかった。俺と彼女が初めてお互いに裸になった時、俺は彼女に首を絞めていいか訊ねた。いいよ、と彼女が笑顔で言ったから、俺は彼女を押し倒して首を絞めた。ベッドの上で彼女の顔が苦痛に歪んで、危うく殺しかけた時、俺は勃起した。手淫や口淫では全く勃起しなかったのに、首を絞めた時だけは勝手に膨張した。

 俺は、できるだけ人に優しくしたいと思って生きてきた。すごく優しい人だね、と言われたことは何度もある。どうでもいい人に対してはドライだが、近しい人に対しては極力優しくあろうとした。頼み事をされたら絶対に断らなかった。相手の喜ぶ顔を見たり、喜ぶ声を聞くことが俺の喜びだった。尽くし過ぎるくらい尽くした。この世に生まれたからには、誰かを幸せにしてみたかった。

 ああ、でもそんな俺は、猫を殺して笑ったことがある。蛇を殺して笑ったことがある。彼女の首を絞めて笑ったことがある。優しくなんてない。

 好きな人がいると、どうしてもその人のことばかり考えてしまう。どうしても依存してしまう。好きになってほしいから、優しくする。自分の全てを捧げようとする。相手の幸せを願ってるからじゃない。俺が気持ち良くなるためだけに人に優しくしてる。俺はただの空っぽなオナニー野郎だ。


「目が覚めた? おはよう!」


 と椅子が笑顔で言う。

 俺は涙をボロボロ流しながら呟いた。


「おはよう。ねえ。椅子は俺を異常者だと思う?」

「思う」

「どうして?」

「まず、何年も引きこもりになる時点で普通じゃない」

「そっか。そうだよな」

「うん。かなりマイノリティ」

「俺、ひどいことをしたんだ。猫を殺した。蛇を殺した。彼女を殺そうとした」

「なんでそんなことしたの」

「苦しかったんだ。悲しかったんだ。限界だったんだ。俺はいじめられっ子だった。死にたかったんだ」

「いくら死ぬほど苦しくて悲しくて辛かったとしても、それが動物や人の命を奪っていい理由には絶対ならないんだよ」

「それはよくわかってるよ……! もう俺は誰も傷付けたくない。本当は、人を愛したいんだ。そんな平凡な幸せだけが、どうしても手に入らない!」

「ねえ、人はどうして人を殺しちゃいけないんだと思う?」

「悲しむ人がいるから。命は尊いものだから」

「は? つまんない答え!!!!!」


 そう言って、椅子は笑った。

 俺は泣きながら笑ってこう言った。


「小学生の時、道徳の授業ってあっただろ。教科書に載ってる話を題材にして、感想を言ったり書いたりする授業。先生は『道徳の授業に答えは無いから自由に考えてくれ』って言ってたけど、結局いつも先生の求めてる答えは一つしかなかった。なんて不自由なんだろうと子供ながらに感じてた。俺は道徳の授業が得意だった。いつも模範回答が分かった。何が正しくて何が異常なのか、いつも分かってた。俺は子供の頃から良い人であろうとしてた。優しい人であろうとした」

「うん」

「誰もがまともな人のフリをしてる。なんか気持ち悪いよな。性善説と性悪説、椅子はどっちを信じる?」

「性悪説」

「俺も。俺は、性善説を唱える奴とは友達にはなれないな。人なんて全員汚い。みんなまともな人のフリをしてるだけだ。臭いものに蓋をして綺麗なフリをしてるだけだ。俺は昔から、マジョリティとは仲良くなれなかった。心が通じ合えるのはマイノリティだけだった。人の気持ちが分かる優しい人であろうとした。だけど俺は結局他人を傷つけてしまう。人の気持ちが多分わからないんだ」

「生きてて、つらい?」

「つらいに決まってる。今すぐにでも死にたい。俺はこの世界と気が合わないから。高校の教室では1人で窓の外を見てた。水筒に酒を入れて登校してた。……休み時間に酒飲んでた。それでメンヘラとラインしてた。頭のネジ、5本くらい外れてる女子だった」

「今まで頑張って生きたね」

「え?」

「今まで頑張って生きたよ。誰も褒めてくれないだろうから、私が褒めてあげるね。今まで頑張って生きたね」

「ありがとう。嬉しいよ」


 ただの椅子に励まされ、俺は何故か、涙が滝のように流れた。


 ◆


 俺は一階に降りた。リビングに入ると、猫のマルがカーペットの上で香箱座りしていた。

 俺はいつもの癖で、マルに近寄って、マルを優しく撫でた。

 そうしているうちに、マルが呟いた。


「お前どうした。目が死ぬほど充血してるぞ」

「さっき、色んなことを一気に思い出した」

「どんなこと?」

「昔のことを色々。俺は許されないことをした」

「そうか」

「俺はマルのことが好きだ。死んだら絶対泣く。マルは俺のこと嫌い?」

「嫌いじゃない。愛してる」

「そうか。よかった。俺も愛してるぜ」

「うるせえ黙れ。俺は女にしか興味ねえ」

「俺も女にしか興味ねえよ」

「馬鹿な女って賢いもんな」

「そうだな」


 しばらくマルを撫でていると、やがて庭の小石がジャリジャリ鳴り始めた。外に目をやると、妹のピンクの軽自動車が車庫に駐車しようとしている。東京に住む妹の“紗希”が帰省してきた。そういえば母が言ってた気がする。紗希が帰ってくるって。

 

 ◆

 

「あ、久しぶりー。お兄ちゃん!」

「おう! 久しぶり。元気にしてた〜?」

「うん、元気すぎて近所迷惑で不動産会社から超おこられたー! マジさいてー!」

「ははははは」


 茶髪の妹はギターケースを背負って、両手に荷物を持って、リビングに現れた。ギャルの服装をしていた。

 俺の妹は東京のシェアハウスに住んでいて、バイトの傍らバンド活動をしていた。

 今はコロナの影響でライブハウスも休業したり潰れたりしているそうだが、まだコロナが流行る前、妹に招待されて小さなライブハウスで妹のバンドのライブを見たことがある。俺と姉の2人で見に行った。

 ギターボーカルをやってる妹の姿を見て、俺は感動して少し涙が出てきた。妹はsyrup16gというオルタナティブロックバンドが昔から好きで、そこから影響を受けた曲が多かった。syrup16gは俺も昔から好きだった。というか、妹は俺の影響でsyrup16gを聴くようになったのだ。

 紗希は俺と一個違いだった。小さい頃はいつも一緒に遊んでた記憶がある。俺の性格の暗さに反して、紗希はとても快活だった。足して2で割ればちょうどよくなりそうだった。

 ちなみに紗希は知らない。俺が小さい頃いじめられてたことや、猫を殺したことや、彼女の首を絞めて殺人未遂したことを。

 

「あっ! マル〜! 久しぶり〜!」


 妹は、荷物を全て置いて、甲高い声を出して一目散にマルに近寄って、胸元あたりで抱っこした。


「にゃ〜」


 妹の腕の中のマルは、さっきとは打って変わって可愛い声を出して短く鳴いた。マルは俺と2人きりの時にしか人の言葉を喋らない。

 俺は、マルを抱っこしてる妹に何気なく声をかけた。


「紗希」

「ん? な〜に?」

「俺ってさ〜」

「うん」

「人に愛されたり人を愛したりする資格あると思う?」

「ウケる。なんでヘラってんの。失恋でもした?」

「してない。ちょっと色々思うところがあって」

「ふーん」

「もちろん今の俺のままじゃ誰も愛せないし誰からも愛されないのは分かってる。だから最近は社会復帰しようと思って色んな所に通ってる……引きこもり支援の関口さんって人のところに通ったり」

「うん」

「もしかして俺ってとんでもない悪人か変態なんじゃないかって思う。なんか俺は今後一生誰からも好かれないような気がしてきた」

「そんなことないよ。私だってお兄ちゃんのこと好きなんだから、絶対お兄ちゃんのこと好きになってくれる女の人はいるよ!」

「いるか〜? そんな超趣味の悪いバカ女」

「たくさんいるよ。だってお兄ちゃんって本当はギャグばっか言いまくる性格だし死ぬほど面白いじゃん。病気になってからは、ものすごく暗くなっちゃったけどほんとは面白い人だよ。私を信じてよ」

「ありがとう。信じる」

「小さい頃はずっとお兄ちゃんと遊んでたよね。お姉ちゃんとの記憶よりお兄ちゃんと一緒にいた記憶が強いよ」

「昔は仲良かったな」

「思春期になったらお互い話さなくなったね」

「それが普通だよ。思春期になっても兄妹でベタベタしてたら気持ち悪いぜー」

「うん」

「紗希は最近どう? バンドうまくいってる?」

「うん。まあまあかな。私も文才はあるから、歌詞だけは評価されてるよ」

「そっか、ならよかった」


 ◆


 部屋に戻ってタバコを吸いながら考える。俺は一体何に期待してるんだろう。今更何に期待をして生きる? まさか俺が普通の人生を歩めるとでも思ってるのか。普通なんて、3歳の頃、とっくにドブに捨てただろうが……。


「椅子」

「なに?」

「俺は頭がおかしい上に気持ち悪い」

「だから?」

「死んだ方がいいのかもしれない」

「じゃあ死ねばいいじゃん、自分の人生なんだから自分の好きにすればいい」

「俺は、正直に生きようとすればするほど、行き詰まって死にたくなる」


 俺はピースというタバコの煙を吐いた。

 やがて知らない女の声が隣の部屋から聞こえた。


「……●●君ってさあ、なんか暗くてボーッとしてて気持ち悪いよね〜!」


 気持ち悪い。

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気──。


「うるせえ黙れ。わかってるから!!!!」

「なに!? いきなり!!!!」

「あ、ごめん。頭の中の声がうるさくて」

「頓服の薬でも飲めば?」

「うん」


 効くかどうかわからないが、俺は不安時の頓服5錠を酒で飲んだ。本来は1錠だ。

 俺は深呼吸してから、小さく呟いた。


「死にたいってアル中の友達が毎日言ってたからさ、そんなに死にたいなら殺してやろうか? って俺は言った。そしたら、富山まで来てぶっ殺してよって頼まれた。でも結局その人は自分1人だけで亡くなった。俺は寂しく思った」

「殺せなくて?」

「いや、死んだこと自体が。俺はまだ生きてる。俺はまだ生きてるのに。結局頭のおかしい奴らは死ぬしかないのかよ。そうじゃないだろ。って俺は強く思う」

「どういうこと」

「ずっと見えない何かに虐げられて生きてきたのに、なんの反撃もせずに死ぬのって惨めで悔しいだろ。仮に自殺するなら、全力で反撃してからだ」

「それはなに。テロとかクーデターを日本に起こすってこと?」

「そう。でも他者や社会に対してじゃない。自分の腐った内面、腐った人生に対してクーデターを起こさなきゃいけない。弱者は死ぬ前に自分にテロやクーデターを起こさなきゃいけない。それが俺に残された唯一の希望だ。世界は変えられないけど自分なら変えられる。そして自分が変われば世界が変わる。ってどこかで読んだ。俺は小説家になって自分の心にテロを起こしてやる。他人を愛し、愛される。それから死ぬ。だから今はまだ死ねない」


 床にあぐらをかいて無表情で酒を飲みながらタバコを吸ってたら、そのうちドアをノックされた。ドアの方を一瞥すると、やがて妹が入ってきた。

 妹は明るい顔と声で言った。


「ねぇお兄ちゃ〜ん! カラオケ行かない? 前行ったあそこ!」

「カラオケ〜?」

「うん! 家にいても暇なんだもん!」

「1人で行けばー?」

「え〜1人?」


 それから、妙な間が空いた。

 妹の何とも言えない表情を見て、俺は行くことを瞬時に決めた。


「やっぱ俺も行きたいなあ。シャワー浴びるからちょっと待ってて!」

「うん! やった〜!」


 妹は部屋から出て行った。俺はタバコを消し、着替えを持って洗面所に向かった。服を脱いで裸になり、風呂場に入った。

 鏡に俺の全身が映っている。


 171.5センチ57キロの俺っぽい誰か。


 俺の左肩から左上腕には黒いタランチュラのでかいタトゥーが彫られている。20歳の10月、病める社会人の時に入れたものだった。なんでタランチュラなんて入れたのか、その理由は、強くなりたいからだった。タトゥーは、弱い奴が自分を強く大きく見せようとする常套手段だ。俺の左肩のタランチュラを知ってるのは、俺と、病院関係者しかいない。検査で上半身裸になる必要がある時はタランチュラが現れる。友人はもちろん、家族にも誰にも見せたことがない。彫って4年が経った。後悔は全くしていない。と言ったら嘘になる。ふと冷静になった時に、(え、なにこれ、嘘だろ?)って思ったこともある。

 俺の左肩から左上腕にかけて、タランチュラがいる。タランチュラを見るたびに俺は強くなれる。ような気がする。多分100人中99人が俺のタランチュラの刺青を見て、馬鹿だと言うだろう。俺も馬鹿だと思う。でも弱い俺には必要だった。子供の頃、俺はいじめに遭って、死にたくなった。

 俺は生きたいから彫った。死にたいから彫ったんじゃない。絶望に食い尽くされてしまう前に抗った証が欲しかった。

 左肩のタランチュラが俺にこう言ってる気がする。


「反撃開始だ!!!!!!」と。


 それと同時に「お前は白痴だよ」と。


 ◆


 曇り空の下。妹の車がカラオケを目指して国道●●号線を流れる川のように走る。俺は助手席に乗って、ぼーっとしていた。酒を飲んだから、車の運転はできない。車の中ではsyrup16gの曲が流れている。

 やがて見える赤信号。

 車が停止線の前で停まる。

 車窓から空を眺めていると、脳裏に浮かんだのは誰にも助けを求めずに1人で泣いてる小さい頃の自分。殺した動物。首を絞めた彼女。死んだ友達。

 消えない罪。

 でも、それでも。


「紗希」

「ん〜?」

「俺は生きる。何があっても。俺がどんなに最低な奴でも。どんなに間違えても。俺は生きる」

「へえ、うける〜」


 やがて紗希は超どうでも良さそうに、クソでかいあくびをした。

 信号は青に変わった。

 紗希は眠そうな目でアクセルを踏んだ。

 俺は高速で流れる景色を無表情でぼんやり眺めている。


「──ねぇお兄ちゃん、私どうぶつのもり大好きじゃん? でね~、タランチュラってお店でめっちゃ高く売れるの! 知ってた?」

「いや、知らなかった」






 おわり






【あとがき】


 24歳の時に書いた小説を28歳の自分がリメイクしました。一部、作り話があります。俺は過酷ないじめに遭った事実はなく、動物も殺していないし、女性とは手を繋いだ事があるだけです。あとタトゥーも無いよ〜

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タランチュラとクーデター【リメイク版】 Unknown @ots16g

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