顔無し屋敷のアヴァタール

平沼 辰流

本文

 生者たちが仮装するのがハロウィンの祭りだという。

 死者たちが気後れしないように。


 いつものように胸像の頭をなぜたとき、空で花火があがった。

 削り取られた胸像の顔がオレンジ色に染まり、白い石肌の上を、わたしの指の影がウミヘビのように這う――はじめは下方へ、それからゆっくりと、上へ。閃光からきっかりみっつ数えて、火薬の破裂音が大量の埃を降らしてきた。


「地震かしら」


 いいえ、違いますよ。お嬢さま。近くで花火を打ち上げているのです。


「ずいぶんご無沙汰だったわね。見に行く?」


 差し出がましいことですが、お嬢さま。わたくしにはこれからお客さまにご夕飯の準備があるのですよ。


「うちの家庭教師みたいなこと言っちゃって。あなた、すっかりつまんない子になっちゃったわね」


 ひとつ、夢ができたのです。お庭のついた家で小さなカフェを始めようと。

 そのときにこの店の女主人はぐうたらしてるメイドだったと噂が立っていたら困るでしょう。


「なるほどね。じゃ、紅茶もお願い。もちろんお店を開けるくらい美味しいんでしょうね?」


 ええ、と返し、胸像からそっと手を離して階段に向かう。

 2階の廊下の壁に掛かったのは絵を外された額縁に、インテリアのないボード。丹念にアイデンティティを削られた調度品たちが、暗闇のなかからわたしを見つめてくる。

 この場所も昔はヒトの住む屋敷だった。でもずいぶん昔にただの石と木でできたパッケージとなった。


「パッケージね?」

 お嬢さまがくすくすと笑い、その声に合わせてわたしの胸が震える。

「家を引退しちゃった建物は、今度は何を梱包するのかしら」


 応えずにスチルルームに降りて、棚から紅茶缶を取り出す。

 ポットとカップを温めていると、お嬢さまが「お店でコーヒーは淹れるの?」と言ってきた。


 ええ。最近は夜にコーヒーを飲むことも流行っているそうです。新聞に出ておりました。


「あんなのがね。グァテマラが甘いって聞いて自分で淹れたけど、ぜんぜんだった」


 ひと息だけ、湯を冷まして注ぐのですよ。低い温度で淹れると、ほどよく甘くなります。


「カラクリが多いわね。男の人の飲み物ってカンジ」


 女性も面倒なものですよ。お嬢さまは鏡を見ないのでご存知ないかもしれませんが……。


「だって鏡なんか見ても、あなたしか映らないもの」


 そこで言葉が止まり、わたしは乾ききった舌につばを染みこませた。

 沸騰した湯をポットに叩きこんだとき、ぱっと赤く咲いた水面に女の顔が映り込んだ。舞踏会のマスクみたいな無表情に、青い瞳がふたつ並んだ金髪の少女。頭にホワイトブリムを着けているから、きっとメイドだと思う。


「半袖のメイドはスチルルームに入らないわ。まだまだ設定の練り込み不足ね」


 わたしが茶葉を蒸らすあいだも『お嬢さま』はしゃべり続ける。


「あの人たちのカエデの幹みたいな手を見たことある? そんな風に肌を出してたら全身ボロボロになっちゃう」


 意地悪のつもりで淹れてやった辛いダージリンを口につけた途端、お嬢さまは「うげっ」と声を出した。

 今のはちょっと、わたしの声が出てたと思う。さっさと砂糖を用意して、残りは楽しく飲むことにした。


 わたしの中に、もうひとり居ることに気が付いたのは去年のことだった。


 排水管が赤サビを出すので掃除をしようと思ったとき、一瞬だけ何かの像がチラついたのが始まり。

 それ以来、本を手に取る瞬間や、食材を選ぶタイミングで、いつも砂粒を噛んだような引っかかりがあった。わたしが意識すると消えて、無意識になると視界の端で動き出す。そして何か選択すると、『居た』という気配だけ残して消えていく。


 ――いつでも、わたしとは別のものを選んでいる人がいる。


 あるとき、鏡に向かって「こんにちは」と言うと、虚像の彼女はようやく見つけてくれたと言いたげに微笑んだ。ぷっくりとした唇にプラムの口紅が引かれ、その光沢が窓からの月明かりを陶磁のように反射する。


「わたしたちにお化粧の習慣があればもっと早く会えたのにね」


 その日から、彼女はこの屋敷の『お嬢さま』になって、わたしは『メイド』になった。



「次は誰かしらね」

 ティーカップを棚に戻すとき、お嬢さまが眠そうに言った。


 そろそろ寝室に向かわれますか?


「わたしは質問をしたの。まずは答えなさいよ」


 分かりかねます。今はあまり必要も感じてませんし。


「お人形で遊んだことある? まずは『友達』が欲しいじゃない。で、『恋人』。次に『家族』と『お客さま』って続いて……」


 その論理ですと、家族とお友達は間に合っておりますね。


「そう。間に合ってる。だから増えないわけ」


 なるほど、と機械的に返す。

 初めのわたしは肌だけだった。屋敷のなかをただ感じるだけで、わたし自身はどこにも居なかった。


 ある春の日、書斎で本が落ちた。それを直したとき、本棚に向かって背伸びする『わたし』が居ることに気が付いた。

 女の子の見た目に気付いたのはいつだっただろう。

 片付けそこねた肖像画を見たとき? 書斎のアルバムを開いたとき?

 どこかで屋敷の主人の隣にいるメイドを見て、わたしだと思った。おそらくその瞬間に自分の姿に気付いた。


「わたしは『お嬢さま』じゃないし、あなたも『メイド』じゃない」


 はい。そうですね。


「あえて言うなら『屋敷の夢』よね。この家が中身を詰めるために生み出した……」


 寂しい人間ほど幽霊を見るそうですよ。


「わたしたちも寂しいのかしら」


 楽しかった思い出に浸ることは悪いことではないでしょう。


「あまり怒らないでよ。今は良きメイドと主人としてお話ししましょう?」


 廊下を引き返す途中で、最後の花火が上がった。

 ハロウィンの祭りも終わり。今年も紅茶をひと缶と、本を四冊拝借して過ごした。


 階段を下りながら、空っぽの額縁の楕円形に成形されたラインを撫ぜる。


 ここには、これからどんな肖像画が入るのだろう。彼らは帰るとき、ぜんぶ片付けてしまうから思い出すのが億劫だ。


 正面玄関のところでタイヤが軋む。古臭いエンジン音が止まり、誰かがドアに鍵を差し込んだ。

「お嬢さま! マフラーを!」

「うるさいわね、ソフィアはそんなのよりカバンを取ってよ!」


 ああ、そっか。わたしは『ソフィア』だった。またひとつ気付いた。


「今年はどんなことを思い出せるのかしらね?」

 とお嬢さまが笑う。


 ドアが開け放たれ、よく知る顔のふたりが入ってくる。

 それからみっつ数えて、破裂音が空から降ってきた。音にビクッと身体を震わせながら、彼女たちが階段を見上げてくる。


「地震かと思った」

「花火を近くで打ち上げているのですよ」


 ――ずいぶんご無沙汰だったわね。見に行く?

 同時に口に出して、写し方の完璧具合に苦笑する。


 ハロウィンは終わって、次はクリスマス。

 自分の番だ。今年も生者のために『別荘』に仮装しようじゃないか。

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顔無し屋敷のアヴァタール 平沼 辰流 @laika-xx

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