第23話 初めての旅行
「……え? ここどこ?」
目が覚めて最初に口から出たのはそれだった。天井を見て、それから体を起こして周りを見る。
(……ほんとにここ、どこ?)
たしか寝る前は
(そういえば
「おー、起きたか」
「
「朝飯あるぞ。食うだろ?」
「……食べる」
返事と一緒にぎゅるると鳴ったお腹の音に
「元気な証拠でなによりだ」
そう言ってドアの向こう側に行ってしまった。慌ててベッドから下りて、そっと隣の部屋を覗く。
(……本当にどこだ?)
隣も見たことがない部屋だった。高そうなソファとテーブル、それに奥には畳の部屋まである。窓の外には庭があった。
「あの、ここって……」
「正月休みはここでのんびりするぞ。一棟貸し切りだからおまえも気を遣う必要はねぇよ」
「か、貸し切りって……」
「向こうに露天風呂があるから後で入るか」
「ろ、てん、ぶろ」
「前に行ってみたいって言ってただろ。庭を眺めながらの露天風呂は最高だぞ」
前に旅行番組の温泉旅館特集を見ていたとき、思わず「いいなぁ」と言ったのは覚えている。それを
(ってことは、ここは温泉旅館……?)
(……温泉旅館ってマンションの部屋みたいだ)
テレビで見た部屋とは全然違う。ということは値段もきっとすごいに違いない。そういうこともわかるようになってきた。知らなかったとはいえ、行ってみたいなんて言うんじゃなかったと後悔した。
「ここは会社が持ってる保養所の一つだ。元は温泉旅館だから旅館で間違いはねぇが、いまは旅館じゃない。だが、いいところだ。きっとおまえも気に入る」
「でも、」
「俺が気に入ってる場所をおまえに見せたかったんだよ。後悔も反省もするんじゃねぇぞ」
テーブルにパンやハムエッグの載ったお皿を置いた
ここはマンションから車で二時間ちょっとのところにある会社の持ち物だと
そんな場所に寝ている間に運ばれたってことだ。車に乗って二時間以上も移動して、それにベッドに運ばれても目が覚めなかった俺はどうなんだろう。「疲れてたんだよ」と
朝ご飯を食べてオレンジジュースを飲みながら大いに反省した。そして、うかつなことは言わないようにと密かに決意する。
「今回は国内だが、そのうち海外にも連れてってやるよ」
「え?」
「そのためにも、まずはおまえのパスポート作らねぇとなぁ」
まさか温泉旅館の次は海外旅行なんだろうか。たしかに旅行番組を見ながら行きたいと言ったことがある。あのとき見ていたのは……エジプトとトルコだ。エジプトはピラミッドを、トルコは建物が見たくてそう言った。
「おまえが行きたがってたところもだが、イギリスはどうだ?」
「イギリス?」
「オーストラリアやアメリカ、カナダでもいい。英語圏なら生の英語を聞くことができるからな。耳がいいおまえならいい勉強になる」
「もしかして、俺のため……?」
「おまえはもっといろんなことを見聞きしたほうがいい。これまでできなかった分もな。そうしているうちにやりたいことも見つかる」
「でも俺、
「たっぷり経験してしっかり考えてから答えを出せばいい」
もしかして俺には
「俺も若い頃は何もできなかったからな。俺にとっても青春のやり直しみたいなもんだ」
「でも、」
「俺と一緒に青春、やりたくねぇか?」
「そ、れは……やりたいかも」
「じゃあ決まりだ」
オレンジジュースをちゅるっと飲む俺を
「どうかした?」
気になってそう尋ねた。少し考えるような顔をした
「え?」
「俺と家族になりたいか?」
ポカンとする俺を
「結婚できればそれに越したことはねぇが、この国では難しい。だが、結婚じゃなくても家族になる方法はある。
「すぐに答えは出さなくていい。じっくり考えて答えを出せばいい。ただ、おまえが望むなら家族になることができる、それは覚えておけ」
「……家族になるって、どういうこと?」
「そうだなぁ。毎日一緒に飯を食って、テレビを見て、話をして、笑ったりキスしたりして寝る。そうやってずっと一緒に過ごすってことだ」
「それって、いまと変わらないんじゃ……」
「いまも家族みたいなもんだが、本当の家族になれば俺の一切を与えてやることができる。法律上、俺のすべてをおまえのものにしてやれる」
「……よく、わからないけど、」
「ま、それもまだ当分先のことだ。俺に何かあったときの保険ってやつだな」
何かあったとき……それってどういう意味だろう。なんだか嫌な感じがした。初めての温泉旅館でフワフワしていた気持ちが急に重苦しくなる。
「泣きそうな顔すんじゃねぇよ。いますぐどうこうって話じゃない」
「でも、」
隣に座った
「ゆっくりでいいから、ちゃんと考えておけ。いつでも家族になれる準備はしてある」
「……わかった」
頷いたけど、
「おまえ、母親のこと知りたいか?」
「え……?」
想像していなかった言葉に驚いた。再びポカンとする俺を見ながら
「もしおまえが知りたいなら教えてやる。母親のこと、母親の家族のこと。それから父親のこともだ」
それって、お母さんがいまどこにいるか知っているということだろうか。それにお母さんの家族のこと、一度も会ったことがないお父さんのこと……お母さんがうれしそうに話していた、怖い顔でイケメンで、そして優しかったという俺の父親のことも知っているということだろうか。
「知りたいなら教えてやる」
(お母さんのことは……知りたい気もするし知りたくない気もする)
狭い部屋でずっとお母さんを待っていたときのことを思い出した。あの頃はお母さんが帰って来ないと一人ぼっちだと思って毎日が怖かった。だからずっと待っていた。それが俺のできる精一杯のことだった。でも、俺はもうあの部屋にはいない。家賃を精算して解約したから戻ることもできない。あの部屋に帰ることは二度とない。
(それに待ってたとしてもお母さんは帰って来なかった気がする)
本当はお母さんがいなくなった日からそんな気がしていた。でも、そう思うのが怖くて気づかない振りをし続けた。きっと帰ってくると思ってあの部屋にいた。そうすることでしか生きていけなかったからだ。
でもいまは
「お母さんのことは、もう大丈夫」
もし知りたくなったらそのときに聞けばいい。
「お父さんは……わからない」
「そうか」
ポンと頭を撫でてくれる
「どうした、急に笑い出して」
「お母さんが、お父さんはイケメンで優しい人だって言ってたの思い出して。だから
俺の言葉に
「
「あいつならそう言いそうだな」
「……もしかして
「知ってるというか……」
少し考えてから「まぁ、いいか」と言って話し始めた。
「二十年くらい前だったか。おまえが住んでたあの辺りは、当時
「お店って」
「風俗店だな。そのときおまえの母親の初めての客になった」
「え……?」
「それって……」
「驚いたか?」
「お、どろいた」
「だろうな」
また
「そっか、
「あぁ」
「すごいね」
「すごい?」
「だってそうでしょ? あそこにはいろんなお店があって、お姉さんたちもたくさんいる。それなのに
「……そうきたか」
なぜか
「どうしたの?」
「いや、なんでもねぇよ」
「じゃあさ、お母さんの顔、覚えてる? ねぇ、かわいかった?」
「は?」
「俺、病気になってからのお母さんの顔しかあんまり思い出せないんだ。お店のお姉さんたちはすごくかわいかったって言ってたけど、どのくらいかわいかったのかなぁと思って。写真のお母さんはたしかにかわいいけど、でも写真だからなぁ」
「ついでに言えば、おまえは母親より可愛い」
「え……と、それはどうなんだろう」
「なんだ、可愛いって言われたくねぇのか?」
「だって俺、男だよ?」
「男でも可愛いもんは可愛い。俺の
顔が一気に熱くなった。見られているのが恥ずかしくなって、顔を隠すように
「さて、朝飯も食ったし露天風呂にでも入るとするか」
そうだ、ここには露天風呂がある。テレビで見たあのお風呂に入れるのかと思うとワクワクした。そんな俺を見た
「どうかした?」
「露天風呂ってのは半分外だ」
「うん」
「風呂で外、考えるだけで興奮するよなぁ?」
温泉で興奮するってことだろうか。
「隣の棟は離れてるから、ある程度声を出しても周りには聞こえねぇから安心しろ」
「……!」
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