小太郎のこと

天鳥カナン

第1話

小太郎のこと



 そのころ、大学通り沿いにある小さなアパートに住むことにしたのはほんの気紛れのようなものだった。当時住んでいた江戸川区の街がどうも性に合わず、まだ越して一年あまりというのに、引っ越し貧乏を地で行くように次の住まいを探し回っていたときのことだ。

 東京の東のほうは昔はライターなどという虚業をしている人の少ない街だったようで、領収書一枚もらうのでも怪訝な顔をされることが多かった。些細なことだがそれがたび重なるのが私には負担だった。同じマンションの上にはフィリピンパブに勤めるお姉さんたちが共同で借りている住まいがあり、エレベーターで一緒になったとき、タガログ語で仲間内の話をしている彼女たちに挨拶をしたものかどうか悩むのも毎日の小さな面倒だった。

 江戸川区の前に住んでいたのは荻窪で、駅を出て自家焙煎が売りの喫茶店や大きなサウナのある通りを過ぎ、季節には八重桜がこぼれそうに花をつける寺院を抜けると静かな住宅街が広がっていて、そのうちの一軒にある離れを知り合いのつてで借りて住んだ。日当たりも良く静かで気に入った住まいだったが、一年ほど住んだところでしっかりものの老婦人である大家さんに「息子がそこを使うというの、ごめんなさいねえ」と謝られながら出ることになった。そう考えると住まい運がない時期がけっこう続いたことになる。


 あるとき、そうだ、わりと感じのいい街が中央線でけっこう西に行ったあたりにあった、たしかイラストレーターの女性が住んでいて打合せをした街だからきっと虚業の人間にも住みやすいに違いないと思いついた私は、さっそくオレンジ色の電車に乗った。イラストレーターさんの名刺に国分寺とあったので、そこで降りればいいと思い込んでいたが、着いてみるとどうも記憶と違う。こんな駅ビルのある大きな駅ではなかったなあ、隣の西国分寺だったろうか。しかし西国分寺駅も、改札を出るとすぐに大きな商業ビルが左右を塞ぐように建っていて、ああここでもないとすぐにわかった。何も商業ビルが悪いのではないが、目指していたのはもう少しのんびりした印象の街だった。

 迷子のような心地になりながら、さらに次の国立駅へ行ってみた。南口を出ると中央に何か伸びすぎたような木々が植えられたロータリーがあり、その向こうに広々とした通りがある。通り沿いにいかにも長く商売をしていそうな文具屋さんがあり、入ると探していたパイロットのドローイングペンがちゃんとサイスごとに置かれていて、それを一本頼むと丁寧に領収証を切ってくれて「ここは良い街だなあ」と感心したことを思い出した。後でわかったことだが、国立駅の北側はすぐ国分寺になり、かのイラストレーターさんはそのあたりに住む人だったのである。

 エウレカ、ここだ、と内心小躍りしながらロータリーを左に回ると、程なくして一軒の不動産屋を見つけた。外に貼られた物件の値段を見るとどれも思ったより高かった。が、払えないほどではない。「こんにちは」と入ってみる。メガネをかけた五十絡みのおじさんが見ていた台帳から顔を上げて「いらっしゃい」と値踏みするようにこちらを見たので広さと価格の希望を伝えた。「1DKね、駅から少し遠くてもいい? ならお勧めの部屋があるよ、自転車を貸してあげるから見に行ってくればいい。おーい」と奥のドアを開けて息子なのか若い従業員なのかわからない青年を呼ぶと内見用の鍵を渡した。

「こっちですよ」と青年に言われ大学通りの自転車道を走り出した。道路沿いにたくさんの木が植えられていてまるで公園だ。その横をただ真っ直ぐに走っていく。通り過ぎる風に木々の葉が揺れ、久しぶりに陽の光を感じた。ここに住むなら自転車を買わないと。早くもそんな気持ちになっている。

 信号を四つばかり超えたところにあるそのアパートで、空いていたのは一階の通り沿いの部屋だった。風呂とトイレは別、部屋は一部屋だが十畳と広く、小さな庭に向いたサッシの下にはしっかりした造りの縁台が置かれていた。「庭があるんですね、縁台もある」と言うと、「前に住んでた夫婦の人が置いてったんすけどね、便利でしょ」と青年が答えた。


 住み始めたのは秋の半ばで、庭にある柿の木は葉の色が変わり初め、右手にある大学通りの桜の古木は紅葉にはまだ遠かった。庭と外の通りの間に柵とヤツデの木があって、ビリジアン色の大きな手袋を広げたようなその木とは最後まで仲よくなれない気がしたが、人目を遮る役に立ってくれていた。隣家との境は柊がまばらに植えてあり、下生えのシャガやシランの間に誰かが調理用に植えたのだろう月桂樹の木と山椒の木があって、春には奇妙な形のツノをつけたアゲハの幼虫がよく止まっていた。

 その庭に、小太郎はやって来た。

 あるとき見ると、サッシの磨りガラスの向こうに何やら焦げ茶色の丸い影がある。

その影が動くと、サッシの戸の間に小さな白い手が割り込み、十センチばかり開くと耳のついた頭が入ってきた。体は黒と茶色の縞柄、手足の先だけが足袋のように白い雄猫だった。猫は「お邪魔します」とこちらを見てから「この部屋を探検いたします」と四隅の匂いを慎重に嗅いだ。それから奥に台所と風呂場があるのを見つけると「こちらも確認しないといけません」と丁寧に嗅いでまわった。

 一通りの探索がすむと戻って来て、両足をきちんと揃えて座り「ここが気に入りました」と一声鳴いた。それまで猫を飼ったことのなかった私は、猫がそんなに礼儀正しく座るものだとは知らなかった。せっかくのお客様だからと鰹節を小皿に入れて出してみたが「お腹は空いておりません」と手を付けなかった。みじろぎもしないで座る猫に近寄り、そうっと頭を撫でてみた。するとそれは気に入ったようで、気持ち良さそうに目を細めた。しばらく撫でられてから「ではまた遊びにまいります」と猫はゆっくりサッシの間を抜けて帰っていった。

 それから毎日、猫はやって来た。

 たいていは朝で、見回りの途中なのだろう。そのころは猫を室内だけで飼う家は少なく、様々な猫が狭い庭を通り過ぎていったが、部屋に上がってきたのはその猫だけだった。

 庭と繋がる縁台を猫はたいそう気に入った様子で、そこに座って一鳴きしては撫でてくれろと催促する。戸を開けると、鯛焼きの鯛のように半身で寝そべり「こちら側をお願いします」と待っているので丁寧に撫でてさしあげる。満足すると「ではこちら側もよろしく」と身を入れ替えるのでそちらも撫でる。用があって「今日は片側だけね」と途中で止めようものなら「え、どうしてですか?」とひどく驚く顔をするので、朝には急ぎの用事を入れないようにした。撫で終わった猫の半身に顔を寄せ、猫枕をさせてもらうのが朝の楽しみになった。


 猫は、飼い主に大事にされているようで、何度来てもご飯をねだることもトイレの粗相をすることもなかった。いつも綺麗な毛並みをしていたけれども、風邪をひきやすいのが弱点らしく、片方の鼻の下に鼻水跡を付けているのがご愛敬だった。だいぶ慣れた頃、部屋に入って来た猫を、今日は寒いねえと抱き上げようとすると、慌てたように「それはしたことありません」と手から降りた。可愛がられているのに不思議だなと思ったが、抱っこを嫌う猫もいる。愛猫の望まぬことはしない優しい飼い主さんなのだろうと思いつつ、何度か試みると肩にあごを乗せる縦抱っこならできるようになった。

 冬の夜、エアコンの温風にあたるのは苦手な私が、コタツにパソコンを置いて仕事していると、珍しくそんな時間に猫がやって来た。「入る?」と促すとコタツの中の私の足にチョイと頭を乗せて横になり、徹夜で原稿を書いている間、猫はずっとその姿勢のままそばにいた。

「もう三十なのにいつまで独りでいるつもりだ」と地方に住む両親に言われた言葉が頭をよぎる。周りにいる虚業の仲間はみんな独り者だがそれは言い訳にはならない。いくら雑誌や実用書の原稿を書こうとも、親からすれば何の意味もないこともわかっている。

 けれどこんなふうに猫と一緒に仕事をしつつ暮らしてゆけるなら、自分としてはそれで悪くない。朝になり原稿が仕上がると、猫はようやくコタツから出て、ウイーンと伸びをひとつして帰っていった。

 冬が終わりようやく暖かくなった頃、猫はそれまでしていなかった首輪を付けてやって来た。首輪には『小太郎』と名前が書いてあった。夜になっても帰らないことが増えた猫を心配して飼い主さんが付けたのだろう。首輪の裏側にある電話番号にかける勇気はなかったので「近くの家の者です、時々お泊まりしてくれます」とだけ書いた小さな手紙をくくりつけた。すると何日かして、あちらからの手紙がついていた。「もうじき引っ越します、お世話になりました」とある。

 そうして小太郎は、やって来なくなった。


 小太郎が来なくなった翌朝、それまで見たことのない縞柄の雄猫がやって来て、小太郎のお気に入りの縁台に腰掛けた。雄猫に縄張り争いがあるのは当然だから「あら今度はあなたがここに来ることになったの」と話しかけたら、その角張った顔の縞猫はジッとこちらを見つめ「小太郎兄貴からの伝言です、兄貴はここに来れなくなったことを、あなたに伝えてくれと言いました、ではお伝えしましたよ」と言った。音は無くてもたしかにそう言った。私は呆然と、その猫が立ち去るのを見送った。

 もう四半世紀も前のこと、小太郎はとうにこの世にいないだろう。小さな庭のついたアパートも、いつか庭なしの集合住宅に変わってしまった。私一人、ただ変わらずに雑文を書いている。



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