第6話 UFOで左腕来たりて加国からの手紙読んで娼婦のように道に迷い涙で誓う
ということで、1978年春先ヒットチャートのタイトル並べて文にしてみるとなかなかな世の混沌ぶりがうかがえるわけで、そんな折に第二次性徴を向かえていた自分の精神的よりどころ、というか、リビドー暴発を抑制し落ち着きを取り戻すのに効果があったのはそりゃもう「読書」であった。親の書棚から持ってきた大江健三郎をズリネタにしていたとかなんとか言っておいてなんだそりゃ!?矛盾してるじゃないかっ!?というお怒りはごもっともだが、それはそれ、これはこれ、なのである。
この1978年という時期、まったくありきたりではあるが、まさに中2男子らしく、普通に、筒井康隆にのめり込んだ。この時期に限っていえば「ツツイスト」であったといって過言ではなかろう。で、筒井作品にも大江作品同様、性描写とか、あるいは自慰描写とか、いくらでもあったわけだが、『われらの時代』や『性的人間』の時のようにズリネタにはまったくしていない。これはどういう心理かはわからぬがとにかくそういうことなのだ、としか言いようがない。べつに「神格化」して穢れのないように取り扱うとかそういうことでもないのである。当然、ズリネタになる→悪。ズリネタにならない→善。あるいはその逆。とか単純に図式化できるようなことでもないというか、ズリネタになる方が文章が上手いので格が上だ下だとかそういう問題ではないと思う。ちなみに、親の書棚から持ってきて「ネタ」に使った小説の作者を大江健三郎以外にもあげると、瀬戸内晴美、吉行淳之介、立原正秋、で、あとはなんといっても『チャタレイ夫人の恋人』で、概ね以上である。
ともあれ、中学、高校の間に書店に並んだ筒井作品は間違いなく全部購入のうえ読んだ。つまり『お助け』から『虚人たち』まで、高校卒業時には完読していた、ということである。
当然、小説のみならずエッセイ、評論の類も含めて全部なわけだが、特に印象深く、影響受けたのは『やつあたり文化論』の「ホーム・ドラマ批判」である。
以下、長めに引用する。
「あなたはわたしを、ただのセックスの道具だと思っているのよ」そんなこと今 まで夢にも思っていなかった亭主なら、このひとことで深く傷つき、夫婦の愛情にひびが入ることうけあいだ。
絶交を宣言すべき時に使えばさぞかし効果があるだろうと思えるようなことばを、ホーム・ドラマの登場人物がやっている通り、いかにも自分は自己主張のはっきりした人間ですといった顔で口にしてしまう。
「ぼく、肥った中年の女のひとって、存在それ自身が罪悪だと思うなあ」もっと痩せろという忠告のつもりなのだが、こういわれて怒らぬ肥った中年女性がいたらお目にかかりたい。
相手を糾弾する際に使うべきことばを、ホーム・ドラマの登場人物がやっている通り、たまたま話しかけてきた上役に向かって気軽に口走ってしまう。
「課長。それ売名行為だと思います」売名行為という重大なことばを、ごく軽い意味に解釈して使ってしまうのである。最近の上役は部下に甘いから、こう言われてもすぐに怒りはしないが、この男の勤務評価が悪くなることはあきらかである。
こういう連中はこうしたことばを吐いた結果に関しても非常に楽観的で、ホーム・ドラマの登場人物同様、自分は真実を言ったまでである、とか、正直に自分を主張したのだとか、忠告してやったのだとかいう一種の信念みたいなものを持っているので、相手が血相を変えて怒ったりすると、真実を述べたからだと判断して、自信をつけてますます落ちつきはらったり、なぜ怒るのかさっぱりわからないので不思議そうな顔をしたりする。また、そのことばを根に持った相手から、冷たくされたり仕返しをされたりすると、なぜそんなことをされるのかわからないものだから、たいへん怒るのである。
悪いことを言ったという自覚もないから、当然反省することもない。思ったことをそのまま、考えることもせず口にし、我慢に我慢を重ねるどころか、ひらめいた言い回しをそのまま口走る。かくて親子の断絶はますますひどくなる。親は子と話すことを嫌い、子は親を話のわからぬやつと思って馬鹿にする。夫婦間の溝は深まり、浮気沙汰、離婚沙汰になる。兄弟姉妹はのべつ口喧嘩に明け暮れ、恋人には振られ、親戚とは絶交状態となり、友人とは仲違いし、誰からも相手にされなくなる。上役が理由もないのに自分を嫌うからといって、カッとなって殴り殺したりする。すべて身から出た錆といってしまえばそれまでだが、本人たちがそう思っていないのだからまことに始末が悪い。
何気ないことばでさえ場合によっては人を傷つけることもあるくらいだから、過激なことばは充分凶器になり得る。ことばの恐ろしさ知らぬ人間ほど恐ろしいものはない。
(『やつあたり文化論』筒井康隆 新潮文庫 158p~160pより引用)
というわけで、「常識人」筒井康隆の側面を長々載せたのは、中2病ではあったけれども、そりゃ純文学や百科事典の絵画図版をズリネタにしたりはしたけど、ずっとそればっかりやってるわけじゃないっす。っていうね。そういうことですよ。
というかまあこの引用部分ってまるまる「言葉によるハラスメント」の説明になりきってますわな。数多ある筒井康隆の「先見性」のひとつに挙げてよいでしょう。
といいながら、やっぱり過激な内容の長編『俗物図鑑』とか、下品さをどこまでも誇張する『農協月へ行く』とか、言ってることがどんどんおかしくエスカレートしていく『経理課長の放送』やら『関節話法』とか、追い詰められ3部作ともいえる『乗越駅の刑罰』『走る取的』『懲戒の部屋』とか、こういうえげつない筒井作品に狂喜乱舞していたってのはそりゃもうまったく動かしようもない事実なんだけど、やっぱりそのグッと心をとらえたのは、コード・ブックとかダイアグラムとかで自分もコード名称の不統一で直近で困惑していた経験あったので、それへの言及箇所のある『脱走と追跡のサンバ』ですかねえ。これは中2のころはめくるめくテクストの快楽、くらいな感覚だったけど、後年読み返してみると、「追跡者」が延々と自分の来歴というか来し方について弁明、釈明っぽく語るところとか、人生の悲哀みたいなものをひしひしと感じるものがあったりして、いやこれいくらでも味わい尽くせることであるなあ、と感慨もひとしお、って感じでした。
ということで、『やつあたり文化論』では、「おまえら落ち着けよ」みたいな雰囲気醸し出しつつ、小説作品ではとことん熱狂的になる、っていうあたりを、学ぶというか、見習うというか、参考にする、というようなことになって、ゆくゆく「民主的多元主義派 支持政党なし」という自分の政治スタンスの地盤岩盤を固めるにあたって、筒井康隆体験の助けを得ていたのはこりゃもう間違いないところであります。
で、エッセイやら評論のたぐいやらも込みで全部読んでるうちに、当然、文学世界のみならず、音楽、映画、マンガ、演劇、美術etc……、いろいろ見たり聞いたりした方がいいよ、みたいなこともたくさん書いてあるので、なるほどなるほど、と自分も守備範囲をどんどん広げていく流れになり、その後「ジャズ」にたどりつく、と。
ジャズの「実技」に関しては、筒井作品読みまくりであったとはいえ、中学にいる間は触れませんでしたけどね。まあ、そこも、地道に、逐語的に、一歩一歩、一音一音ずつ、というわけです。
中学時分の活字の「読書体験」大局的に大雑把に振り返ると、星新一、小松左京、眉村卓など、同時代のSFも、横溝正史の一連の映画化されたやつも夢中になって読んだし、大江健三郎も「ズリネタ」要素だけでなく読んだし、漱石やらドストエフスキーやらの和洋の「古典」も何作かは「完読」してたし、何も筒井康隆だけをがむしゃらに読んでたわけではないんだけど、やはり「中学の時の読書」=「筒井康隆」っていう図が瞬時に浮かぶくらいな強固な刻印みたいな残り方ですね。
ま、でも、この「読書」のことに関しちゃ、当時の音楽仲間と語り合ったっていう記憶はほとんどないっす。この回のタイトルにあるようにインパクトのある「ヒット曲」ガンガン世に出てる時期だったから、それらについてああだこうだと言い合ってるだけでもどんどん時間消化できちゃいましたからね。
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