ソウル・イントロ ビルドゥングスロマン
辻タダオ
第1話『カルメン'77』のリリースは77年3月10日
親の都合で幼少期に引っ越し多く経験していて、なかなかひとところに落ち着くということがなかったんだが、中1から高2までは目まぐるしい移動もなく過ごすことになった。賃貸の集合住宅ではなく「建売戸建て」に住まうことになったからだ。
長男である自分の「受験」も近いうちあるし、というのも「戸建て購入」の大きな要素だったのだろう、それが証拠に小学生時分には全くそういう気配なかったのだが、中学にあがった途端に「塾行け」「塾行け」「塾行け」攻撃にさらされることになって鬱陶しかった。
相模原→町田という転居の仕方で、大人の感覚であれば近いというのか、隣町だしすぐだよね、ってところだろうが、1977年中学入学当時、背の順、大概一番前か二番目くらいな小兵だったので、完全に異世界、別世界へワープしたような気持ちになっていた。
相模原の「台地」部分の団地に居て、その時、世界というものは概ね平たい印象だったものが、町田の丘陵部分の端の方に移り、なんなんだこの凹凸感は!?と驚いたのだった。これは小兵からしてみればコペルニクス的転回になぞらえても大げさでない変化であった。新居から自転車で周辺探索に出かけた際に、勾配がキツイうえに曲がりくねり箇所も多い坂道を見つけ、なんじゃこりゃーひゃっはー!と一旦下りきった坂を、えっちらおっちら自転車押しながら元の降下始点まで戻り、再度、ひゃっはっはー、とスピード落とさず下りきる、とかやってたし。
さて、児童の頃の自分は、あおっぱな垂らして口開いて、なんだかずーっとボーっとしていたようで、いわゆる「自我」の芽生えみたいなものは遅かったような気がするのであり、大体小5くらいから「人間」になったんじゃないか、と。
小4以前は自分でものごとかんがえて行動した、というか、いわゆる「おひとりさま」で道を切り開いた、というような記憶がほぼないのだ。低学年時の出来事でよく覚えているようなことは、ほとんど「誰かとどこかへ行った、誰かと何かをした」っていうようなものばかりであり、明らかにそれらは「巻き込まれ型犯罪サスペンス映画」のような展開の話ばかりだった気がするのだ。
そんなボーっとしがちな者にでも大丈夫な趣味、娯楽の最たるものが「西洋古典音楽鑑賞」であった。
実家は沖縄、那覇にあって「邸宅」と呼んで差し支えない広さがあり、出生地は高松だったので、3~5歳くらいのわずか2年程の居住であったが、そこの2階に大きなステレオセットがあって、いわゆる「名曲選集」的なLPをかけておけば、ずっとおとなしく鎮座して聞くことに集中していたらしく、他の用事をしていたい親や祖母やその他親類はその都度2階に連れて行き、レコードに針を落とす、の繰り返しであった、と。
その頃はまだ「自力」でレコードの出し入れなどは出来ず大人が代行し続けていたようである。
あと、1階の大広間に白黒TVがあり、ゴールデンタイムの歌番組が始まると、立ち上がって真似して唄いまくりだったそうで、「長崎は今日も雨だった」を異様に気に入っており、次の曲に切り替わったかなにかの時は泣いて暴れたとか。
といったような流れでとにかく「音楽」にはそこそこ親しんでいたわけだが、
那覇からパスポート使って一家総出で本土上陸した時は、ステレオセットまで一緒については来ず、家賃の安い方へ安い方へ、アパートや団地、集合住宅の類をちょこまかこまめに同じ相模原市内で転居を繰り返し、小5の頃、市内4度目の転居先であった団地1階3DKの居間に「ステレオ・セット」がようやくきた。どういう経緯で入手したのかまではよく知らないがとにかくきた。
つまり「自我の芽生え」は「自宅にステレオ設置」と重なったような流れなのだ。
そこから子供への贈答品があるタイミングでは西洋古典音楽のLPを常に要求し続ける。今となっては自分でも何故そうだったのかもうよくわからないのであるが、とにかくモーツァルトかベートーヴェンかの2択で、それも大体、管弦楽曲か弦楽合奏曲か協奏曲かに絞られていた。例外的にリヒテルの「熱情」も入手したが器楽曲は殆どコレクションに入らなかった。LP「購入」の場合は。那覇在住時と違ってレコードかける、しまう、の一連の作業も当然自力でやり始めたわけで、ここの「自力」がつまり「自我」ってことなわけである。まあほんとに省エネルギーで省カロリーな自我覚醒ではあるが。
ステレオ購入したのはもちろん親なので、親も使うわけだが、父母ともに特に先鋭的なものへの興味はなく、ロック、ジャズ等の気配は皆無で、カーペンターズと森山良子のベスト盤は親が買って所有しており、聞きやすいので自分も繰り返し聞いた。
ステレオ設置によりFM聴取も常時可能になったので、LPコレクションうんぬんは関係なしに、オールジャンルなんでもかんでも聞きまくりの日々が始まり、前年1974年から始まっていたFM東京の土曜昼下がりの「歌謡ベストテン」と「ポップスベストテン」は欠かさず聴取し、そのうちにカセットテープに録音する「エアチェック」も覚え、どんどん貯まっていった。NHKFMのクラシック番組でモーツァルト、ベートーヴェン以外の、つまりは古典派以外の音楽もテープでは貯まっていった。
そして、歌謡ベストテンで聴いた小椋佳は親も気に入ってたようなので、勧めてLP「道草」は親が買った。ニューミュージック系のLPはこれが我が家で初であったと思う。
小学生時分に児童男児の間で大きな支持を集めていたものの最たるものは「ウルトラマン」「仮面ライダー」等の特撮TV番組と、それからなんといっても少年野球全盛の時代であり、そしてそれを後押ししたのが「ドカベン」であり、その「ドカベン」の主要登場人物殿馬は「クラシックピアノ」の名手という設定なのであり、それと特に因果関係はないが、とにかく自分も野球には熱中した。何せ団地というのは全棟に芝生スペースが付帯しているから、練習場、球場には事欠かない環境だったわけだ。
子供と老人の立場はいまと逆で、うるさいのでボール遊びやめてください、っていう声を子供勢力がかき消していて、実際のところ芝生面の淵には「立ち入らないでください」っていう小さな立て札もあるにはあったが有名無実化しており、野球に限らずとにもかくにも子供が遊ぶ庭になりきっていた。芝生育成?なにそれ?みたいな。
で芝生の長所を活かして、スライディングキャッチの練習もかなりやったので、
小兵で打力では使い物にならなかったものの、守備力は買われてインディーズな草野球の試合には常にレフトで出場していたわけだ。
したがって「主体的に実技をおこなう」ことに関して、小学生の頃は音楽よりも野球が主であったのだ。那覇の実家の2階にアップライト・ピアノがあるにはあったが、3~5歳の間に触って遊びはしたものの、弾く、弾くように仕向けられる、ということもなく、本土上陸の際にステレオがついてこないわけだから、ピアノなんぞはなおさらついてくるはずもなく、歌はともかくとして「楽器」趣味に関してはとんと無縁であったわけだ。
先述のように自我の芽生えが遅く低学年の頃の記憶はあまりなく、野球もたぶん「まわりがやっているから」、巻き込まれてやり始めた側面はかなり大きく、やり始めの頃の記憶はほとんどないんだが、とにかく小5の「自我の芽生え」の頃からの、「個人練習」の記憶はある、と。練習相手がいない、試合やる人数がいない、といった際に、壁にボールぶつけて一人黙々と鍛錬してたし、それが団地のどこいらへんの場所であったかも、数十年後の今現在でも鮮明に思い出せるくらいだ。
といったような経緯で、小6→中1のタイミングで実質「転校」伴う転居というかたちになり、見知らぬ街のなかをひとり、3月終盤、中学入学式ももうちょい先っていうような時期に、丘陵地帯の坂道をひゃっはー、つって自転車で駆け降りたりする日々の合間、グローブと軟球ひとつ持って、新居から距離至近の小学校の校庭に「道場破り」の心境で行ってみた。これから自分が行く中学へ進む者たちが卒業したであろう小学校である。
野球全盛時代なので、春休みの晴天、校庭で野球やってるやつがいないなどということはあり得ないと読んだのだが、その読みは的中し、丁度自分と同世代であろうと思われる一団、5,6人が三角ベース的に「試合」をやってた。
脇まで近づいていって、軟球を投げ上げてグローブで掴む仕草をしていたら、
「やる?」って雰囲気になって、「やるやる」となって、即座に試合に加わった。
後に書物でよく知ることになるドラッグ・カルチャーさながらな阿吽の呼吸だった。
(見ない顔だな?)⦅おうよ。越してきたからな⦆(いずこから?)⦅相模原からよ⦆(相模原って東海大相模じゃん!?)⦅おうよ⦆(じゃ何か?おまえも東海大相模いくつもりか?)⦅そらそうよ⦆(おれも東海大相模だな。行くなら。でそのあと巨人へって寸法よ)⦅だな。おれも行くなら巨人だな⦆
概ねこんな会話が交わされたような記憶があり、その5,6人三角ベースを仕切っていた頭目である会話相手の「笠井」に、自分は「
なにしろその直後に入学した中学は1学年8クラスのマンモス校で、人が溢れかえっていたから。
そんなマンモス校のなかでも、自分は最初から何やかやと目立つことになった。何しろ那覇にいた3~5歳の頃に「女児」と間違われてスカートを贈られて「女装」歴も既にあったいわゆる「小柄な美少年」だったからだ。「愛玩動物」を愛でるノリで早速女子生徒に「可愛い」存在として名を知られることとなる。ま、沖縄名の姓が珍しいというのもそれに拍車をかけた側面はあったであろう。
異郷からきた「美」を体現するもの、それはつまり、まさにその時期にリリースされた『カルメン'77(歌唱ピンク・レディー作曲都倉俊一)』の「バラの花 口にして踊っているイメージ(作詞阿久悠)」に重ね合わせられてもおかしくはなかったであろう。あるいはそのちょっと前のイーグルス、New Kid in TownのNew Kidそのもの、みたいな。
なんにせよ、自分はあのイントロど頭の、本家ビゼー版カルメン、ハバネラ踏襲したかのような下降旋律にのって颯爽とこのマンモス校、のちに「暴力校」として全国に名をはせることとなるTD中学校に出現したのであった。
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