健太は、特に取り柄のない男だった。いや、取り柄がない、という認識すら、彼の中では曖昧模糊としていた。ただ、周囲との間に見えない境界線があることだけは、漠然と感じていた。例えば、隣に住む真由との間には、越えられない川幅のようなものが横たわっていた。真由は、眩しいほどに輝いていた。それは容姿だけではない。彼女を取り巻く空気、人間関係、未来への期待、全てが健太とは異なる世界のものだった。

夏祭りの準備が始まった。真由は、その中心にいた。彼女の周りには、いつも誰かがいた。楽しそうな笑い声、活発な会話。健太は、その輪に加わることを躊躇した。いや、正確には、加わることを許されないと感じていた。

その中で、優斗の存在は、健太にとって一つの記号だった。優斗は、全てを持っていた。容姿、運動能力、コミュニケーション能力。健太が持ち得ないものを、全て。

健太は、何度か、真由と優斗が二人で話しているのを目撃した。特別な会話をしているようには見えなかった。ただ、その光景が、健太の心をざわつかせた。それは、嫉妬という単純な感情ではなかった。もっと複雑で、言葉にすることのできない、澱のようなものだった。

ある日、健太は、真由が優斗に何か手紙のようなものを渡しているのを目撃した。夕暮れ時、薄暗い路地裏で、二人は短い言葉を交わし、別れた。健太は、その光景を、遠くからじっと見ていた。まるで、自分の人生の重要な一部分が、目の前で静かに崩れ落ちていくのを見ているようだった。

その日から、健太は、真由を避けるようになった。何を話せばいいのか分からなかった。いや、話すことなど何もない、という結論に達していた。

夏祭りの当日。健太は、家を出るかどうか迷っていた。結局、彼は、祭りには行かなかった。部屋の窓から、遠くの花火の音が聞こえてきた。それは、健太の世界とは別の場所で起こっている出来事のように感じられた。

数日後、健太は、真由から声をかけられた。「健太、あのね…」

真由は、優斗とのことを話し始めた。それは、健太の想像とは全く異なる話だった。優斗は、真由の友達に告白するつもりで、その相談を真由にしていたのだという。手紙は、その友達へのメッセージだった。

健太は、それを聞いて、何も感じなかった。驚きも、安堵も、何も。ただ、全てが終わった、という感覚だけが、彼の心を支配していた。

真由は、少し寂しそうな表情で言った。「健太、最近、全然話してくれなかったから、心配してたんだよ。」

健太は、曖昧に微笑んだ。「別に…」

真由は、それ以上何も言わなかった。二人の間に、沈黙が流れた。それは、二度と埋めることのできない、深い溝のようなものだった。

祭りの後、季節は変わり、日常が戻ってきた。健太と真由は、以前と変わらず、隣同士の家に住んでいた。しかし、二人の間には、何かが決定的に変わってしまった。それは、言葉にすることのできない、微細な変化だったが、確実に、二人の関係を別のものに変えてしまった。

健太は、時々、あの夕暮れの路地裏を思い出す。真由が優斗に手紙を渡していた光景。それは、健太の人生における、一つの分岐点だったのかもしれない。しかし、それがどこに繋がっているのか、健太には分からなかった。ただ、確実に、何かが終わった、ということだけは、分かっていた。