『メェの咆哮──鮮血の宴と魔王誕生』

陽気なラム肉

《第一部:生まれ堕ちた荒野の子羊》

プロローグ:死と再生

プロローグ:死と再生


 その刹那、記憶は光の洪水に飲み込まれた。自分は確か、ブラック企業で徹夜続きの生活を送るごく普通のサラリーマンだったはずだ。名前も平凡なら、顔も人並み。平日は上司の怒鳴り声を聞きながらパソコンと書類の海に溺れ、休日は疲弊しきった体を布団に預けて眠るだけ。そんなありふれた人生が、あの朝――否、あれは深夜だったかもしれない。過労からか、ビルの階段を踏み外して転げ落ち、意識が遠のき、そこで人生の幕が下ろされた。


 だが、次に意識を取り戻したとき、世界は一変していた。見慣れない青空、目の前に広がる荒野、そして……自分の体が、明らかに人間のそれではない。四本の足があり、柔らかい毛に覆われている。


 「…なに…これ……?」


 驚きたいのに声も出ない。口から発せられるのはメエメエという鳴き声だけ。瞳は左右に大きく開き、自分の姿を確認しようと震える。そこにあるのは、白く巻いた毛並み。蹄のある四つ足。そして尾。どう見ても“ヒツジ”だ。


 呆然とする意識の内側で、言いようのないざわつきを感じる。「死んだ後に転生する」なんて聞いたことはある。だが、なにも“羊”になるなんて聞いていない。それに、この世界はどこなのか? 目の前には小石だらけの荒地が広がり、遠くには草原や森らしきものも見える。まるでファンタジーの絵本かRPGの世界に放り出されたような……。


 そうして途方に暮れる中、正面を見つめた先で、何やらこちらを窺う影があった。大きな角を持った獣……いや、何か奇妙な形をしている。


 「メェ…?」


 恐る恐る一声鳴く。それもまた羊の声でしかない。その相手は小さな緑色の体、背丈は自分よりやや低い程度の生き物――見るからに凶悪な顔つきをした“ゴブリン”だ。ゲームの常識からすれば魔物の一種。牙を剥き、ボロ布のような腰巻きを着けたゴブリンは、ギラリと赤い目でこちらを見下している。羊相手とはいえ、その手には錆びついた短剣。


 まずい。このままではやられる。そんな本能の警鐘が、自分の毛むくじゃらの体に響く。まともに立ち向かえるのか? いくら元が人間といえど、今は弱々しい羊。ゴブリン程度の魔物でも、十分脅威になるはずだ。


 ゴブリンは舌なめずりをしながら近づいてくる。その目にはまさしく「肉」を求める輝きが宿っていた。


 ――ヤバい。逃げなきゃ。


 そう思って四つ足を動かそうとした瞬間、金切り声とともにゴブリンが飛びかかる。思わず転がるようにして避けるが、コロコロと自分の体は重くバランスを崩しがちだ。


 「メェッ!」


 悲鳴とも突進ともつかない動きで、必死に逃げ回る。だが、ゴブリンは動きが早い。自分を仕留めるために容赦なく短剣を振り下ろしてくる。バシュッ! とわずかに頬をかすった切っ先が、柔らかな毛を切り裂いた。その痛みが鮮明に走る。


 (痛っ……!)


 声にならない声をあげて、こちらも必死でゴブリンに頭を向けた。その瞬間、なぜか頭部が熱くなる。自分に備わっている“角”らしき部分から、妙な力が湧き上がったような感覚があった。


 ――ドクンッ!


 ゴブリンに向かって頭を突き出した瞬間、勢い余ってゴブリンを角で突き飛ばす形となった。「メギャッ!?」とゴブリンがよろめき、尻餅をつく。予想外の手応えとともに、そこでやっと気づく。


 自分には短いながら角がある。これが羊の武器だ。


 「メェエッ……!」


 ひたすら恐怖に駆られながらも、もう一度頭を振り下ろす。ゴツリと嫌な音がして、ゴブリンは「ギャァ」と血を吐き倒れ込んだ。ドクドクと地面に赤い液が広がる。なんとも言えない生臭い臭いが漂った。


 ……怖かった。手足が震え、心臓がバクバクと胸を打ちつける。自分は人間の記憶を持っているが、実際に肉体は羊という非力な存在のはずだ。倒せたのはたまたま運が良かっただけ。いわば自分の角が思いの外、ゴブリンには有効だったのだろう。


 そう安堵しかけたところで、自分の脳裏に奇妙な声が響いた。


 ――「経験値を獲得しました」――


 思わず周囲を見回す。しかし誰もいない。この声は、まるでゲームのシステムボイスのようなものが直接頭に届いているようだ。


 ――「倒した相手の肉を摂取することで更なる成長が見込めます」――


 ゾクリとした。殺したゴブリンを“食べろ”と言っている? そんなこと、人間だった自分には到底できない。だが、その声は執拗に脳内に響く。


 ちょうどその時、ゴブリンの死体から漂う血の匂いに、なぜか鼻腔がくすぐられる。人間だったころとはまるで違う、肉を求めるような欲求が湧き上がる。羊なのに、生肉を欲しているのか? 自分でもこの衝動が信じられなかった。


 しかし、ここで怯んでいてはまた同じような脅威に襲われるだろう。自分は柔らかい“食われる側”の存在だ。異世界で、羊として生まれ変わった以上、必死に生き残る手段を選ばねばならない。


 ……震える足取りで、倒れたゴブリンに近づく。反吐が出そうになる恐怖と嫌悪感を押し殺し、口を開いてその腕の一部を咬みちぎる。


 ――ブチッ。


 聞き慣れない音とともに、口の中に血の味が広がる。生温かく、生臭い。だが、咀嚼するうちに脳内の何かがおかしくなったように、意外にも抵抗が薄れていく。むしろ、どこか身体が熱く、心地よささえ感じ始めている自分がいる。


 (何……これ……)


 湧き上がる力。羊なのに、身体の筋肉が微かに震え、意識が研ぎ澄まされていく気がする。頭の中では、あの声が告げる。


 ――「経験値が上昇しました」――


 その瞬間、自分の視界の端に“ステータス”のようなものが浮かび上がった。


 【種族】無名の魔羊(マヨウ)

 【レベル】1 → 2

 【スキル】突進Lv1/捕食Lv1


 ただの羊ではないらしい。「魔羊(マヨウ)」という種族名が表示されている。そして“捕食”スキルが付与されたのか、あるいは本来備わっていたのか。レベルが上がっている。


 自分は戦慄した。ゴブリンを“食べる”ことで得られるこの成長。普通ではあり得ない行為だ。だが、その代償として、どうやら自分は強さを手に入れられるらしい。そうでもしなければ、この厳しい異世界で羊として生き残るのは不可能かもしれない……。


 こうして血まみれの荒野で、ひとりの“魔羊”が誕生した。かつての名も思い出せないほどに、すべてが新たなスタート。そして、この異世界転生は、やがて自分が“魔王”へと至る道を開いていくことになる――。

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