夕暮は薔薇色に

製本業者

Rosecolorbud

「何でインドなんだろう?」


ふとした思いつきで、久々に百均ではなく文房具店に足を運んだ。そのとき、薔薇色のインクと同じ色合いの軸を持つ万年筆が目に留まり、思わず手が止まった。買おうかどうか悩みに悩んだ末、清水の舞台から飛び降りるつもりで、コンバーターとインクカートリッジもセットで購入した。それだけのはずだったのに。


訪れた商店街は、再開発が始まり、かつてのシャッター街から生まれ変わろうとしている場所だった。年末年始を彩るイベントとして、「大抽選会」なる福引が開催されていたのだ。目玉景品はなんと海外旅行の旅行券だった。


万年筆とインクが想定以上に高かったおかげで、それなりの金額分の引換券と補助券が手に入った。抽選器は三台あり、大当たりとティッシュしか入っていない台、それなりの景品がそれなりの確率で当たる台、そしてほぼ全員が何かしら当たる「しょぼい景品」専用の台。


「どうせティッシュだろう」と、一番列が短かった“大当たり専用台”に並ぶことにした。ところが、これが予想外の結果を生むことになる。


「金の玉が出ました~! 大当たりです!」


鐘が鳴り響く中、差し出されたのは「海外旅行券」

一瞬の戸惑いの後、状況を理解して周りの拍手に応えると、商店街のスタッフらしきふくよかな女性が苦笑いを浮かべながら近寄ってきた。


「いやぁ、おめでとうございます! 実はキャンセル出ちゃってね」


「キャンセル?」


「隣の旅行代理店さん、コロナ後に『悠久のガンジス』って銘打ったツアーを企画したんだけど、まったく集まらなかったみたいでね」


「ああ、それで景品に……」


「そうそう。北海道とか沖縄、温泉旅行なんかが人気だけど、やっぱりインドはまだちょっとハードル高いみたいでね」


久々に人とこんな風に会話した気がする。写真撮影のフラッシュを浴びながら、封筒に入れられたチケットを手渡される。


「パスポートは自分で準備してね」


「あ、はい」


「あと、帰ってきたら簡単なインタビューもお願いね」


「え、インタビューですか?」


「そんな大したものじゃないよ。商店街の会報に載せるだけだから」


インド旅行なんて想像もしていなかった。けれど、こうして手にしたチケットは、今の自分には少し重たい。そもそも、なぜインドなのか。自問しながら、家へと向かう帰り道で、旅の予感が胸の奥で静かに膨らんでいくのを感じた。



インドへの旅立ちは思ったよりも早かった。この旅行はホーリーというインドのお祭りをターゲットに設定したツアーだったらしい。しかし、ツアーとしての参加者は集まらず、キャンセルされるはずだったのを、商店街の景品として「活用」されたというわけだ。

その所為で、実際のホーリーとは少しずれていて、ホーリー自体は体験出来無いらしい。


出発の日、羽田空港に向かう電車の中で、ふと薔薇色のインクを思い出した。あの万年筆を買ったとき、少しでも平凡な日常を変えたいと願っていた自分がいたのかもしれない。ポケットに忍ばせた万年筆にそっと触れると、冷たい軸の感触がどこか心を落ち着けてくれる気がした。インクこそブルーブラックのカートリッジだが、やはり初めて買った万年筆は何か違うと思えてくる。


直行便の長いフライトは昼に出発し、現地時間の夕方にインディラ・ガンジー国際空港へと到着した。入国審査エリアの壁には、指をいろいろな形に曲げた、ヨーガか何かの手の像並んでいる。免税店を抜け、空港ゲートを出た瞬間、湿った熱気と人々のざわめきが一気に押し寄せた。


「これがインドか……」


外の空気は、車のクラクション、スパイスの香り、色鮮やかなサリーをまとった人々で溢れ、混沌そのものだ。3月の夕方にもかかわらず、肌にまとわりつく暑さが日本との違いを鮮明に感じさせる。それでも、自分が知らない世界の中心にいるような感覚はどこか心を高ぶらせた。


そんな中、「タクシー、タクシー!」と何人もの運転手が声をかけてくるが、ふと目に留まったのは、老夫婦の名字と自分の名字がアルファベットで書かれたボードを掲げているインド人だった。ホテルが手配した送迎らしい。



老夫婦は、この旅が長年の夢だったらしく、嬉しそうに色々と話してくれた。特に明日の予定であるタージ・マハルについては、その歴史や見どころまで詳細に調べているらしく、「あの白い大理石が朝日に照らされる姿は本当に美しいらしいわ」と語る奥さんの目は輝いていた。


夕食はホテル内のビュッフェスタイルだった。カレーやナンが並ぶカウンターには、英語とヒンディー語でメニュー名が書かれているが、それだけでなく、緑の○や茶色の△のマークが付いていることに気づく。「これ、何ですかね?」と尋ねると、老夫婦が「ベジタリアン向けとそうじゃない料理を分けているのよ」と教えてくれた。


「さすが夢の旅。いろいろ調べてきたんですね」と言うと、奥さんは照れたように微笑む。「若い頃は時間もお金もなくてね。でも、今やっと叶ったのよ」と語る二人の言葉がどこか心に染みた。



翌朝は早起きをしてタージ・マハルへ向かった。途中、道沿いには牛やバイク、オートと呼ばれる三輪タクシーが混在し、喧騒の中を車が進んでいく。道は途中まで良かったが、途中から鋪装されているのにかなり荒れており、老夫婦は少しきつそうだ。

到着したのは昼前。途中で靴を脱ぐよう指示され、大理石の通路を新品の靴下で歩いて行く。せっかくだからと下着毎新調しておいて良かったと、旅慣れていないからこそ助かった事に感謝する。


目の前に現れたタージ・マハル。その白亜の大理石が太陽の光を反射し、荘厳でどこか神秘的な輝きを放っていた。「これが世界遺産の力か」と思いながらも、どこか冷めた自分がいることに気づく。


「きれいだけど……何だろう、それだけだ」


老夫婦は「写真を撮ってあげるわよ!」と親切にカメラを向けてくれた。そして、スマホを使って撮ってくれる。二人の背中がタージ・マハルの白い壁に重なるのを見て、少しだけ羨ましさを覚えた。


その後、レッドフォートも見学したが、時間が限られていることもあり、観光は駆け足になった。荘厳な赤い壁に囲まれた建物群には歴史の重みを感じたものの、心に余裕がないせいか、どこか上の空だった。そして、慌ただしいスケジュールのまま再びホテルへ戻った。


明日はデリー市内の観光地を回り、そのまま帰国する予定だと聞いていた。


インドでは「人生が変わった」という話をよく耳にする。だが、自分の中でその実感はまだ湧かない。むしろ、日常と異なる風景を見ても、心にはぽっかりと穴が空いているような感覚が残るばかりだった。


「結局、どこに行っても同じか……」


夕食後、老夫婦が「今日は疲れたから早めに休むわ」と部屋へ戻った。二人が見せた満足げな表情が少しだけ羨ましかったが、自分は部屋に戻る気になれず、ふらりとホテルのバーへ足を向けた。



カウンターに座ると、控えめな照明が異国情緒を漂わせていた。淡い光に照らされた空間には、ゆったりとした時間が流れている。カウンターの向こうには、ターバンを巻いたエキゾチックなインド人のバーテンダーがいた。どこか年齢不詳なその男は、流れるような手つきでカクテルを作っている。


「何かおすすめを」と尋ねると、バーテンダーはふっと笑い、流暢な日本語でこう言った。

「君にぴったりのカクテルを作ってあげるよ。その名も『薔薇色の奇跡』だ」


やがて目の前に置かれたカクテルは、バラの花びらが浮かび、黒薔薇を思わせる濃い色をしていた。ひと目見てダークラムがベースだろうと思ったが、不思議なことに、気がつくとその液体の色が徐々に変わり始めた。深い赤から鮮やかな赤薔薇の色に、そして最終的にはバラの花びらと調和する淡いピンクへと移り変わっていく。


驚きながらも、その美しい一杯に心を奪われ、翔太はそっと口をつけた。香りは甘く、味わいはどこか懐かしい。それはまるで心の奥に溜まった重い空気を解きほぐしてくれるような感覚だった。


「ラム酒をベースにしているから、甘い香りがするだろ?」バーテンダーが言う。


「なんだか……未来が薔薇色に見えてきますね」

そうつぶやくと、バーテンダーは意味ありげに微笑み、静かに言葉を続けた。

「旅は終わりではなく始まりだよ。そして、このカクテルはただの飲み物ではない。君が心に描く未来の色を映し出しているんだ」



翌朝、目を覚ますと、昨夜訪れたバーのことが気になり、再び足を運ぼうとした。しかし、どうしても見つけることができない。インドでは欧州風に二階をファーストフロアと呼んでいる事を思い出し、階を間違えたのかと別のフロアも覗いてみた。だが、それらしい場所はどこにもなく、昨夜のバーテンダーもカクテルの痕跡も消えていた。


「夢でも見てたのかな……」


不思議な感覚を抱えたまま、翔太はビュッフェスタイルの朝食に向かった。そこで老夫婦と再び合流し、少し話をした後、観光の準備を整えた。


デリーでは、インド門やバビルの塔のモデルになったというクトゥブ・ミナールを見学した。どれも雄大で美しい景色だったが、どこか心の中に残る昨夜のカクテルの余韻が、観光のすべてを静かに彩っているようだった。



観光を終えるとすぐにホテルをチェックアウトする。必要な書類にサインをする際、翔太は薔薇色の万年筆を取り出した。インドに来る前にはただの衝動買いだったそれが、今では何か特別な意味を持つ道具のように思えた。


サインを終えて胸ポケットに万年筆を戻しながら、翔太は静かに呟いた。

「日本に戻ったら、次はどこへ行こうかな……いや、その前に大学にきちんと行くのが先か」


その言葉に合わせるように、翔太の心には未来の地図が広がっていく。昨夜の「薔薇色の奇跡」の香りが記憶の中でふわりと漂い、新しい一歩を後押ししてくれるようだった。

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