リングの夢を、もう一度
湊 マチ
第1話 新たなリング「麺ジャラスK」
日が暮れた世田谷通り。冷たい風が吹きつける中、一軒の小さなラーメン店「麺ジャラスK」の看板がぼんやりと明るく光っている。カウンター6席、テーブル2卓の狭い店内は、夜のピークが過ぎて静けさを取り戻しつつあった。
厨房では、店主である風間利家が無言でスープの寸胴を覗き込んでいる。白く濁った鶏白湯スープがグツグツと煮立ち、湯気が顔にかかる。それでも風間は動かない。木製の大きな杓子でゆっくりと底をかき混ぜ、湯気越しにスープの濃度を確かめる。
「まだだな……」と、呟いた。
プロレスラーを引退して3年目。このラーメン店は、風間が第二の人生を懸けて立ち上げた新たなリングだった。プロレス時代、リング上でのストイックな戦いが信条だった彼は、厨房でも一切の妥協を許さない。しかし、今日のスープには何かが足りなかった。
「風間さん、今日はこれであがります!」
アルバイトの大学生、野崎俊介が厨房の隅から声をかけてきた。若く、快活な彼はプロレスファンでもあり、この店で働くのを喜んでいたはずだったが、最近はどこか表情が曇っている。
「おう、気をつけて帰れよ」と、風間は振り返らずに答えた。俊介の返事はなかった。出入口のベルがチリンと鳴り、彼の足音が遠ざかる。
厨房に残された風間は、大きなため息をついた。
スープ作りには妥協を許さない。それはリングでの戦いと同じ。だが、厨房はリングとは違った。プロレスは観客がいれば成立する。しかし、ラーメン店は客が来なければ、戦いの舞台すら消えてしまう。
「これじゃ……客がまた離れるな」
風間はポツリと呟き、壁に掛けられたプロレス時代の写真を見上げた。そこには全盛期の彼が、リング上で強烈な蹴りを放つ瞬間が映し出されている。その隣には、かつての盟友であり、最大のライバルでもあった氷川光秀との試合の写真が飾られていた。2人が共に築き上げた名勝負が詰まったその写真を見つめるたびに、風間の胸には言い知れぬ感情が湧き上がる。
「いらっしゃいませ!」
入口のベルが再び鳴り響いた。来店したのは、スーツ姿の中年男性だった。よく見ると、その男は風間が現役時代に何度も対戦したライバル、スター・バイソンだった。彼のトレードマークである大柄な体格は変わらないが、どこか疲れた様子を見せている。
「よお、風間。相変わらず無愛想だな」
バイソンがカウンター席に座りながら、にやりと笑った。
「……何の用だ?」
風間は手を止めずにスープをかき混ぜる。
「この店、評判だって聞いたんでな。お前のラーメンでも食べてみようと思ったんだよ」
「好きにしろ」
短い返事を返し、風間は寸胴からスープを取り分け、鍋で一杯のラーメンを作り始める。カレー風味の鶏白湯スープに中太麺を絡め、チャーシュー、半熟味玉、そして風間自慢の唐揚げをトッピングした一杯だ。無言で差し出されたラーメンを見たバイソンは、一瞬驚いた表情を浮かべた。
「へぇ、唐揚げを乗せるとは豪快だな」
「お前のことを思い出してな。力強い方がいいだろ」
バイソンは笑いながら箸を取り、一口スープをすすった。そして、大きく頷く。
「……なるほど。お前らしい味だ。濃厚だが余計なものがない。だが、お前のプロレスみたいに、まだ何か足りねえな」
「……だろうな」
風間はスープをかき混ぜる手を止め、バイソンの言葉に耳を傾けた。
「俺たちのプロレス時代もそうだったよな。試合が終わっても満足なんてしねえ。次の試合のことばかり考えていた。だがな、風間。客がいなきゃ試合もできねえ。ラーメン屋も同じだろう?」
バイソンの言葉に風間は目を細めた。客がいないこの店は、リングを失ったプロレスラーそのものだった。
「どうすりゃいいんだ?」
珍しく弱気な言葉を口にした風間に、バイソンは立ち上がって背中を叩いた。
「客と向き合え。俺たちがリングで観客と向き合ったようにな」
そう言い残し、バイソンは店を後にした。
風間はバイソンの言葉を胸に刻みながら、壁の写真を再び見上げた。写真の中の自分は、今よりもずっと若く、力強かった。だが、リングもラーメン屋も同じだった。観客や客と向き合わなければ、真の勝利は掴めない。
風間は寸胴の中をじっと見つめ、深呼吸をした。
「まだ負けるわけにはいかねえ……」
静かに呟くその声が、狭い店内に響いた。
次回予告
「孤高の厨房に響くリングの記憶」
ラーメン店「麺ジャラスK」を舞台に、風間利家の過去と現在が交差する物語は、さらに深いドラマへと進む。
かつてリングで闘った仲間たち、ライバルたち、そして自分を支え続けてくれたファンたち――彼らとの絆が風間に新たな挑戦の光を照らす。
リング外の闘いは、リングの中以上に過酷だ。それでも風間は、自らの信念を胸に進む。次回、風間と旧友たちの再会が、彼の迷いを断ち切るきっかけとなる。
「もう一度立ち上がれ。あの日の自分に負けないために。」
読者へのメッセージ
「あの日、リングに憧れた少年たちへ」
子どもの頃、テレビの向こうに見たプロレスのリングは、ただの格闘技の舞台ではありませんでした。
そこには、敗北から立ち上がる強さ、仲間と交わす信頼、そして自分の限界を超えていく人間の姿がありました。
この物語は、リングの光に心を躍らせた「かつての少年たち」へのメッセージです。
夢を追い続けたあの頃の自分に誇れるように、大人になった今も挑戦し続けていますか?
失敗や挫折に打ちひしがれる日々もあるでしょう。でも、リングで闘ったレスラーたちは、何度でも立ち上がり、観客の声援を背にして前を向きました。
あなたもきっとできます。
この物語が、少しでもその背中を押す存在になれば幸いです。
「人生というリングでは、ゴングはまだ鳴り止んでいない。」
次回をどうぞお楽しみに!
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