第16話 初めての教室
「ここだ...」
千景が視線を上げると『1-D』と書かれたプレートが取り付けられており、この教室が自分の目的地であることを確認した。
高校生活1日目、千景は現在ブレザーに黒色の長ズボン、そして胸にはネクタイという装いをしていた。きちんと着られているだろうか、似合っているだろうか、と慣れない格好に緊張していた。
千景は少し立ち止まって軽く深呼吸をし、そしてそろりそろりと教室へ入っていった。
教室へ入ると視界に様々な情報が飛び込んできた。
部屋には規則正しく机が並べられており、一番前の席には黒板と教壇、後ろにはロッカーと掃除用具入れ、と今までメディアや創作物でしか見たことのなかった世界が広がっていた。
「おはようございます」
「おお、おはよう」
教室へ入ると二人の男女が千景へ挨拶をした。長い黒髪に30代ほどに見える女性と、白髪交じりの髪の初老の男性で、このクラスを受け持つ教師であることがうかがえた。
「おっ、おはようございます...!」
いきなり挨拶をぶつけられて虚を突かれた千景だったが、すぐに態勢を持ち直してたどたどしいながらも何とか挨拶を返すことに成功した。
「おはよー」
「おはよう」
「えっ?あっ...!お、おはよー...ございます...」
教師だけでなく、席に座っていた数人の生徒からもちらほらと千景へ挨拶が投げ掛けられた。『おはよう』と軽く返すべきなのか、初対面ゆえにきちんと丁寧に返した方がよいのかで逡巡してしまい、結局中途半端で曖昧な挨拶となってしまった。
「えーとお名前は?」
「く、九条千景です」
「出席番号15番の九条君ね。九条君の席は...ここになります」
女性の教師に名前を答えると千景は指定の席まで案内された。机は6列に並べられており、千景の席は入り口から数えて4列目の一番後ろの席となっていた。
「ありがとうございます」
新しく教室にやってきた仲間に皆興味があるのか、席に座るまでの間に生徒たちの視線は千景へと注がれ、千景は緊張してぎくしゃくとした動きになってしまった。
「机の上には九条君の学生手帳が置いてあります。これは千景くんの身分証明書も兼ねているので、自分の情報に間違いないか確認しておいてください。9時に点呼をした後、体育館に移動するのでそれまではゆっくりしていてください」
「はい」
教師はこれからの流れを千景に説明し、千景もそれを聞いて了承の返事をした。
黒板の上にある時計を見ると現在時刻は8時40分を指し示しており、20分ほどの時間があった。
「あと鞄は机の横にかけるか、後ろのロッカーに入れて貰っても構わないから。自分の出席番号の書いたロッカー、九条君なら13番のロッカーが自分のものになるから覚えておいてね」
「はい、ありがとうございます」
加えて教師は荷物とロッカーについても軽く説明を行い、それが終わるとまた黒板の前まで戻っていった。
千景はどちらにしようか迷ったが、あまり動いてまた他の生徒に見られても居心地が悪いと判断し、大人しく鞄をフックにかけた。
やっと落ち着いて腰を下ろすと千景は机へ視線を向けた。
机には先ほど教師が述べていたように『学生手帳』と金色で書かれた黒いカバーの小さな冊子があり、『
しかしそれよりも気になったのは机の上にはもう一つ、手の平ほどの大きさの白い花が置かれていたことだった。
その花は本物ではなく紙のような素材で作られた作り物のようであり、千景には何のために使うものなのか皆目検討がつかなかった。しかし下手に触ってちぎったり壊してしまったりしてはいけないだろうと考え、千景は正体不明のそれをそのままにしておいた。
周囲の生徒の様子を見てみると席は7割ほど埋まっていたが、小さな声で話している者は5.6人程度で、残りの生徒たちは周囲の生徒の様子をうかがってみたり、学生手帳をぱらぱらと開いてみたり、と大半の生徒は手持ち無沙汰のように見えた。
かくいう千景もその一人であり、初めての教室という落ち着かない環境でそわそわとした感覚を覚えながらも、それを紛らわせる手段が何もないことにただただ歯がゆい思いをするしかなかった。
――――――――――――――――――――
「はい、全員出席が確認できましたので、これから体育館へ移動します」
全員の出席確認が終わったようだった。9時から始められた点呼は千景にとって初めての経験であり、名前を呼ばれた際には千景は緊張しながら返事をした。
「その前に机の上にあるコサージュを制服の左胸、ちょうどポケットがある辺りにつけてください」
(こさーじゅ...?)
耳馴染みのない言葉に千景は思わず眉をひそめる。周囲を確認してみると生徒たちは皆机の上にあった作り物の花を手に取り、それを制服の指定された位置に取り付けていた。
なるほどこの謎の花はコサージュという名前なのかと千景はまた新たな知見を取り入れ、そして指示に従おうとそれを手に取った。しかし手に取ったはいいものの千景の動きはそこで停止してしまう。
(これどうやってつけるんだ...?)
つけてくださいとは言われたものの、千景は人生で初めて見るコサージュの取り扱い方を一切知らなかった。裏面に金具らしきものは見つけたのだが、これをどうすればよいのかが皆目見当もつかない。
千景は身体中からじんわりと嫌な汗が吹き出てくるのを感じた。
まずい、どうにかしないと、という言葉は滝のように浮かんでくるのだが、肝心のどうすればよいのかが千景には一向に分からなかった。
「大丈夫ですか?もしかしてつけ方分かりませんか?」
「え?」
千景が完全に機能停止していると、右隣から小さく声がかけられた。
声の主は長い髪を一本に編み込んだ髪型をした、穏やかな目付きが特徴的な穏和な雰囲気を醸し出している女子生徒で、千景の右隣の席の生徒だった。
「よかったら私がつけましょうか?」
「あ~、え~と...その...はい...お願いします...」
始めは『大丈夫です』と言って断りたかったが、この申し出をはね除ければいよいよ打つ手無しとなってしまうため、千景は無様にも白旗を上げて差し伸べられた手を掴むしかなかった。
「ちょっとだけじっとしててくださいね...」
「はい...」
千景にできるのはコサージュを女子生徒に手渡すのみであり、後はされるがままに身を任せるしかなかった。
「はい、できました」
女子生徒はものの数秒で手際よく綺麗に千景の胸にコサージュを取り付けた。
「あ、ありがとうございます...!」
「いえいえ、お気になさらず」
千景は頭を下げて深い感謝の念を伝え、女子生徒はそれに対して軽く返答をした。そうしてお互いに自分の席へ座り直した。
千景は周囲にばれないように何事もなかったかのような顔で席に着いたが、内情としては恥ずかしさで自分でも分かるほどに顔が熱くなっていた。
女子生徒がほんの数秒で終わらせてくれたおかげか一番後ろの席という配置が幸いしてか、周りの生徒たちが千景の方を見たり千景について話しているといったことは見受けられず、その点を含めて千景は女子生徒に崇敬の念を抱かずにはいられなかった。
「はい、それでは皆さん付けられたようなのでこれから体育館へ移動します。席を立って廊下に男子一列、女子一列で出席番号順に並んでください」
その目を掻い潜ることができたのか、はたまた知っていて見逃したのかは分からないが教師の二人も千景に触れることはなく、そのまま予定通りの流れとなった。
教師の言葉で生徒たちは一斉に立ち上がってぞろぞろと廊下へ出て行き、千景も遅れないようにそれに続いた。
「それでは今から体育館へ移動しますので、はぐれないようにしっかりとついてきてください」
出席番号順ということで前方の席にいた男子生徒の後ろへ並べばよいので、千景はコサージュのような醜態を晒すことはなかった。しかし男子一列女子一列ということで必然的に先ほどの女子生徒が隣に並ぶこととなり、体育館に到着するまでの間、再び内側からせり上がってくる気まずさや気恥ずかしさを千景は耐え忍ばなければならなかった。
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